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「時間」を批評的に写す。『ジオラマ』『劇場』シリーズが傑作である理由
現在、東京国立近代美術館で開催中の展覧会『杉本博司 絶滅写真』に、杉本は以下のコメントを寄せている。
私は銀塩写真全盛の頃に生を受け、その終焉の頃に人生の幕を下ろそうとしている。思い返せば若年の頃、ニューヨークに渡り、芸術界の二流市民として扱われていた写真を、その名誉を回復し、一流市民にまで格上げさせてみたいという野心を持ったことから、私の写真家人生は始まった。
アーティストの出発点をどこに定めるかは難しい。杉本によれば子供の頃、父親からMamiya-6を譲り受けたことが、写真を撮り始めたきっかけだったそうで、最初から35mmではなく中判用フィルムカメラを手にしていたことに時代性と才気を感じる。だが、やはりアーティストとしての杉本博司の起点は、1970年代後半のニューヨークで制作した『ジオラマ』『劇場』シリーズに定めるべきだろう。

自身の骨董趣味やインスタレーションを織り交ぜた複合的展示が続いてきたが、21年ぶりに写真作品のみで構成される今展でも紹介されているこれらのシリーズは、たしかに写真の価値を「格上げ」した、紛うことなき傑作である。
この2つを傑作たらしめている理由。それは「時間」への独自のアプローチである。長時間露光によって1本の映画が始まってから終わるまでをとらえた『劇場』シリーズは、概念としての時間を物質化したものだ。中には撮影時点でも優に100年は経っているであろう劇場の装飾的空間をもギリギリ可視化できるように、また映画の上映時間と露光時間がほぼぴったり合うように工夫するなど、杉本は写真撮影の精緻な技巧をフル活用して、映画とその周囲の時空間を1枚のフィルムに、そしてプリントに焼き付けている。

映画に代表される映像表現における鑑賞の経験は、カットごとに静止画として切り出すことはできても、常に動的な時間の流れとしてあり、「物語」や概念的な「イメージ」は観客個々人の個別の記憶にのみイマジナリーな像を結ぶ。しかし、ここで杉本は「1枚のプリントのみですべてを語る」ことをよしとする現代美術としての写真の特性に従い、もはや何も映っていないかのように真っ白く輝くスクリーンに映画の経験を閉じ込めてみせたのだ。しかも、これが決して観念的なコンセプトに留まるものではないのが痺れるポイントである。上映時間のあいだ開き続けたシャッターを通して、フィルムはスクリーンに反射する投影光を、現実に余すところなく受け止めているからだ。私たち人間には認識できなくとも、そのプリントの上には、たしかに、映画の、時間が、留まって、いる、のだ。
