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写真は「絶滅」するのか。『杉本博司 絶滅写真』が提示する、写真の「真実と嘘」

2026.8.26

#ART

『杉本博司 絶滅写真』展示風景 / 東京国立近代美術館 / ©Sugimoto Studio
『杉本博司 絶滅写真』展示風景 / 東京国立近代美術館 / ©Sugimoto Studio

写真が美術表現の先端にあった時代を経て辿る、「絶滅」の道

写真は絶滅するのだという。たしかにケミカルな物質と光学的な仕組みを用いてなされる銀塩写真は、フィルム、印画紙、暗室作業のための薬剤に至るまでが驚異的に高騰し、入手自体が困難になっている。

2000年代前半に美術大学で写真を専攻していた筆者は、ちょうどアナログからデジタルへと写真や映像表現の技術が移行する時代を経験しており、その頃から銀塩写真が退潮していく空気感は既にあった。それでも例えば印画紙においてはイルフォード、富士フイルム、KODAK、AGFA、三菱の「GEKKO(月光)」などの選択肢があり、作品制作には扱いの容易なRCペーパーよりも、豊かな階調を実現できるバライタ紙を使うべきである、という感覚が当たり前にあった。白黒写真と比較して難易度は高いが、カラー写真の暗室作業もなんとか自前で可能であり、メーカー注文で入手できる印画紙を使って、幅1メートルを優に超える大きなプリントを手焼きすることもできた。

その他にも、キヤノンが主催する『写真新世紀』や、現在は「BUG」に改組・改称した「ガーディアン・ガーデン」で行われる『ひとつぼ展』(のちに『1_WALL』に改称)が若手作家の登竜門として広く認知され、HIROMIXも、野口里佳も、蜷川実花も、みんなその周辺から華々しくキャリアアップ&デビューした。現代の美術表現の先端が写真であった時代が、確かにあったのだ。

しかし正直に言えば、デジタルの機動性に対して4×5(しのご、と読む)や8×10(エイトバイテン、と読む)の大型カメラの扱いづらさは当時の自分にとってだいぶ億劫で、一刻もはやくデジタルカメラ全盛の時代になってほしいと思っていたし、自分よりもだいぶ年上の写真家たちが銀塩写真に執着するのも懐古主義すぎると感じていた(複数の写真メーカーが連携した『ゼラチンシルバーセッション』のプロジェクトが始まったのもこの頃)。だが、それもいまとなっては贅沢すぎる不満だったと思う。そういった近過去を前提とするならば、たしかに写真は絶滅しつつあるのだろう。

杉本博司『P.P.T.R.D.037棘のある三葉虫』(2008年) / © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi

「時間」を批評的に写す。『ジオラマ』『劇場』シリーズが傑作である理由

現在、東京国立近代美術館で開催中の展覧会『杉本博司 絶滅写真』に、杉本は以下のコメントを寄せている。

私は銀塩写真全盛の頃に生を受け、その終焉の頃に人生の幕を下ろそうとしている。思い返せば若年の頃、ニューヨークに渡り、芸術界の二流市民として扱われていた写真を、その名誉を回復し、一流市民にまで格上げさせてみたいという野心を持ったことから、私の写真家人生は始まった。

アーティストの出発点をどこに定めるかは難しい。杉本によれば子供の頃、父親からMamiya-6を譲り受けたことが、写真を撮り始めたきっかけだったそうで、最初から35mmではなく中判用フィルムカメラを手にしていたことに時代性と才気を感じる。だが、やはりアーティストとしての杉本博司の起点は、1970年代後半のニューヨークで制作した『ジオラマ』『劇場』シリーズに定めるべきだろう。

1章「時間・光・記憶」より『ジオラマ』シリーズ / 『杉本博司 絶滅写真』展示風景 / 東京国立近代美術館 / ©Sugimoto Studio

自身の骨董趣味やインスタレーションを織り交ぜた複合的展示が続いてきたが、21年ぶりに写真作品のみで構成される今展でも紹介されているこれらのシリーズは、たしかに写真の価値を「格上げ」した、紛うことなき傑作である。

この2つを傑作たらしめている理由。それは「時間」への独自のアプローチである。長時間露光によって1本の映画が始まってから終わるまでをとらえた『劇場』シリーズは、概念としての時間を物質化したものだ。中には撮影時点でも優に100年は経っているであろう劇場の装飾的空間をもギリギリ可視化できるように、また映画の上映時間と露光時間がほぼぴったり合うように工夫するなど、杉本は写真撮影の精緻な技巧をフル活用して、映画とその周囲の時空間を1枚のフィルムに、そしてプリントに焼き付けている。

1章「時間・光・記憶」より『劇場』シリーズ / 『杉本博司 絶滅写真』展示風景 / 東京国立近代美術館 / ©Sugimoto Studio

映画に代表される映像表現における鑑賞の経験は、カットごとに静止画として切り出すことはできても、常に動的な時間の流れとしてあり、「物語」や概念的な「イメージ」は観客個々人の個別の記憶にのみイマジナリーな像を結ぶ。しかし、ここで杉本は「1枚のプリントのみですべてを語る」ことをよしとする現代美術としての写真の特性に従い、もはや何も映っていないかのように真っ白く輝くスクリーンに映画の経験を閉じ込めてみせたのだ。しかも、これが決して観念的なコンセプトに留まるものではないのが痺れるポイントである。上映時間のあいだ開き続けたシャッターを通して、フィルムはスクリーンに反射する投影光を、現実に余すところなく受け止めているからだ。私たち人間には認識できなくとも、そのプリントの上には、たしかに、映画の、時間が、留まって、いる、のだ。

1章「時間・光・記憶」より杉本博司『パレス・シアター、ゲーリー』(2015年) / © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi

捏造されたイメージから感じる「真実らしさ」

もう一つの傑作『ジオラマ』はどうだろう。アメリカ自然史博物館の剥製展示を撮影した同シリーズが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の伝説的キュレーター、ジョン・シャーカフスキーに見初められ、同館のコレクションに収蔵されたエピソードはよく知られている。

1章「時間・光・記憶」より杉本博司『アビシニアコロブス』(1980年) / © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi

人間が肉眼(多くの場合、2つの眼球)で見ることを前提につくられた立体的な風景は、単眼であるカメラを通して見ると平坦な風景になりがちだ。だからといってそれが嘘っぽい作り物に見えてしまうかというと、決してそうなっていないのが本作の面白いところだ。新古典主義の画家でナポレオンの主席画家でもあったジャック=ルイ・ダヴィッドによる歴史画『皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠』のごとく完成された構図は、太古のワンシーンに実際に立ち会っているかのようなあり得ない感覚を観客にもたらすだろう。ここには、限りなく真実のように感じられる偽物の時間が立ち上がっている。

このような誤認が生じるのは、私たちが教科書や映画を通してさまざまな歴史のイメージに慣れ親しんできたからだ。恐竜的なルックスの爬虫類や毛むくじゃらの猿人を私たちは当然見たことがない。だが『ジュラシック・パーク』や『猿の惑星』で、私たちは飽きるほどそういったイメージを目にしてきた。「映像の世紀」と呼ばれた20世紀、そしてその後の21世紀初頭を通じて、私たちはあらゆる表象に溺れるほどに囲まれて育ってきた。その経験が、『ジオラマ』シリーズのなかに、ある種の「真実らしさ」を喚起するのだろう。

1章「時間・光・記憶」より杉本博司『類人』(1994年) / © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi

この視覚表象の操作に、筆者は杉本の時間や歴史に対する屈折した眼差しを見る。時間や歴史は永遠に不変ではなく、そのときの社会状況や政治状況に応じて、歪んだり、捏造されたりする。そのような可塑的な時間のなかで生きるのが現代の人間であり、その視覚表象の面にコミットして「いまここ」のイメージを扱うのが現代美術の一つの側面であり、杉本はそのことに自覚的なアーティストなのだと思う。

デジタル技術が発達した今、「真実」はどこにあるのか

再度、ステートメントから引用しよう。

私は写真の持つ信憑性について考えた。写真に写されたものは存在した、それは証明写真とも言われる様に、真実の存在証明だった。犯人は警察で証拠写真を突きつけられ、観念し自白した。私はその特性を逆手に取って、写真には写らないものもある、ということを写真に撮って証明してみようと考えたのだ。

同じステートメントの冒頭で、杉本は「今、写真から何が絶滅したのか。それは写真の証拠能力に他ならない。写真は21世紀に入り急速にデジタル化した。デジタル画像は如何様にも変換可能である」と、「絶滅」の意図を簡潔に述べているが、上記したコメントからわかるように、むしろ写真の「真実性」を反転させようとしてきたのだと告白している。そして、高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)を受賞したときのコメントでは、こうも書く。

絵は絵空事を描くメディアだ。写真は真実を描くメディアなのだ。見損なってもらっては困る、と言いたかったのだ。今、写真は絵の代替えメディアに堕してしまったようだ。

真実と嘘。そのどちらに杉本は立っているのだろうか? デジタル技術では実現しようのない技術的限界ゆえに銀塩写真とその技法に執着する杉本が、産業構造のダイナミックな変化によって既知の技術が失われていくことを嘆くのはわかる。そこには写真の絶滅があるだろう。

しかしその一方で、AIなどのデジタル技術によって得られる新しい視覚もある。ビッグデータによって形成される生成画像の多くが、なんとなく美少女アニメ調なイメージを多用したり、プロンプトによって指示された対象を画面の中央に配置したがる(いわゆる「日の丸構図」というもの。絵描きにとってはヘタクソな絵の特徴の一つ)AIが、大量消費社会におけるイメージの凡庸さ、私たちの社会のジェンダーバイアスを無批判に反映している状況は、まさに「いまここ」の視覚表象の批評的可視化であろう。筆者からのメールインタビューでの質問に対する杉本からの返答はなかったが、そのような「今日の風景」に彼はどのような関心を向けているのだろうか? 興味は尽きない。

3章「絶滅写真」より『放電場』 / 『杉本博司 絶滅写真』展示風景 / 東京国立近代美術館 / ©Sugimoto Studio

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