INDEX
写真が美術表現の先端にあった時代を経て辿る、「絶滅」の道
写真は絶滅するのだという。たしかにケミカルな物質と光学的な仕組みを用いてなされる銀塩写真は、フィルム、印画紙、暗室作業のための薬剤に至るまでが驚異的に高騰し、入手自体が困難になっている。
2000年代前半に美術大学で写真を専攻していた筆者は、ちょうどアナログからデジタルへと写真や映像表現の技術が移行する時代を経験しており、その頃から銀塩写真が退潮していく空気感は既にあった。それでも例えば印画紙においてはイルフォード、富士フイルム、KODAK、AGFA、三菱の「GEKKO(月光)」などの選択肢があり、作品制作には扱いの容易なRCペーパーよりも、豊かな階調を実現できるバライタ紙を使うべきである、という感覚が当たり前にあった。白黒写真と比較して難易度は高いが、カラー写真の暗室作業もなんとか自前で可能であり、メーカー注文で入手できる印画紙を使って、幅1メートルを優に超える大きなプリントを手焼きすることもできた。
その他にも、キヤノンが主催する『写真新世紀』や、現在は「BUG」に改組・改称した「ガーディアン・ガーデン」で行われる『ひとつぼ展』(のちに『1_WALL』に改称)が若手作家の登竜門として広く認知され、HIROMIXも、野口里佳も、蜷川実花も、みんなその周辺から華々しくキャリアアップ&デビューした。現代の美術表現の先端が写真であった時代が、確かにあったのだ。
しかし正直に言えば、デジタルの機動性に対して4×5(しのご、と読む)や8×10(エイトバイテン、と読む)の大型カメラの扱いづらさは当時の自分にとってだいぶ億劫で、一刻もはやくデジタルカメラ全盛の時代になってほしいと思っていたし、自分よりもだいぶ年上の写真家たちが銀塩写真に執着するのも懐古主義すぎると感じていた(複数の写真メーカーが連携した『ゼラチンシルバーセッション』のプロジェクトが始まったのもこの頃)。だが、それもいまとなっては贅沢すぎる不満だったと思う。そういった近過去を前提とするならば、たしかに写真は絶滅しつつあるのだろう。

INDEX
「時間」を批評的に写す。『ジオラマ』『劇場』シリーズが傑作である理由
現在、東京国立近代美術館で開催中の展覧会『杉本博司 絶滅写真』に、杉本は以下のコメントを寄せている。
私は銀塩写真全盛の頃に生を受け、その終焉の頃に人生の幕を下ろそうとしている。思い返せば若年の頃、ニューヨークに渡り、芸術界の二流市民として扱われていた写真を、その名誉を回復し、一流市民にまで格上げさせてみたいという野心を持ったことから、私の写真家人生は始まった。
アーティストの出発点をどこに定めるかは難しい。杉本によれば子供の頃、父親からMamiya-6を譲り受けたことが、写真を撮り始めたきっかけだったそうで、最初から35mmではなく中判用フィルムカメラを手にしていたことに時代性と才気を感じる。だが、やはりアーティストとしての杉本博司の起点は、1970年代後半のニューヨークで制作した『ジオラマ』『劇場』シリーズに定めるべきだろう。

自身の骨董趣味やインスタレーションを織り交ぜた複合的展示が続いてきたが、21年ぶりに写真作品のみで構成される今展でも紹介されているこれらのシリーズは、たしかに写真の価値を「格上げ」した、紛うことなき傑作である。
この2つを傑作たらしめている理由。それは「時間」への独自のアプローチである。長時間露光によって1本の映画が始まってから終わるまでをとらえた『劇場』シリーズは、概念としての時間を物質化したものだ。中には撮影時点でも優に100年は経っているであろう劇場の装飾的空間をもギリギリ可視化できるように、また映画の上映時間と露光時間がほぼぴったり合うように工夫するなど、杉本は写真撮影の精緻な技巧をフル活用して、映画とその周囲の時空間を1枚のフィルムに、そしてプリントに焼き付けている。

映画に代表される映像表現における鑑賞の経験は、カットごとに静止画として切り出すことはできても、常に動的な時間の流れとしてあり、「物語」や概念的な「イメージ」は観客個々人の個別の記憶にのみイマジナリーな像を結ぶ。しかし、ここで杉本は「1枚のプリントのみですべてを語る」ことをよしとする現代美術としての写真の特性に従い、もはや何も映っていないかのように真っ白く輝くスクリーンに映画の経験を閉じ込めてみせたのだ。しかも、これが決して観念的なコンセプトに留まるものではないのが痺れるポイントである。上映時間のあいだ開き続けたシャッターを通して、フィルムはスクリーンに反射する投影光を、現実に余すところなく受け止めているからだ。私たち人間には認識できなくとも、そのプリントの上には、たしかに、映画の、時間が、留まって、いる、のだ。

INDEX
捏造されたイメージから感じる「真実らしさ」
もう一つの傑作『ジオラマ』はどうだろう。アメリカ自然史博物館の剥製展示を撮影した同シリーズが、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の伝説的キュレーター、ジョン・シャーカフスキーに見初められ、同館のコレクションに収蔵されたエピソードはよく知られている。

人間が肉眼(多くの場合、2つの眼球)で見ることを前提につくられた立体的な風景は、単眼であるカメラを通して見ると平坦な風景になりがちだ。だからといってそれが嘘っぽい作り物に見えてしまうかというと、決してそうなっていないのが本作の面白いところだ。新古典主義の画家でナポレオンの主席画家でもあったジャック=ルイ・ダヴィッドによる歴史画『皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠』のごとく完成された構図は、太古のワンシーンに実際に立ち会っているかのようなあり得ない感覚を観客にもたらすだろう。ここには、限りなく真実のように感じられる偽物の時間が立ち上がっている。
このような誤認が生じるのは、私たちが教科書や映画を通してさまざまな歴史のイメージに慣れ親しんできたからだ。恐竜的なルックスの爬虫類や毛むくじゃらの猿人を私たちは当然見たことがない。だが『ジュラシック・パーク』や『猿の惑星』で、私たちは飽きるほどそういったイメージを目にしてきた。「映像の世紀」と呼ばれた20世紀、そしてその後の21世紀初頭を通じて、私たちはあらゆる表象に溺れるほどに囲まれて育ってきた。その経験が、『ジオラマ』シリーズのなかに、ある種の「真実らしさ」を喚起するのだろう。

この視覚表象の操作に、筆者は杉本の時間や歴史に対する屈折した眼差しを見る。時間や歴史は永遠に不変ではなく、そのときの社会状況や政治状況に応じて、歪んだり、捏造されたりする。そのような可塑的な時間のなかで生きるのが現代の人間であり、その視覚表象の面にコミットして「いまここ」のイメージを扱うのが現代美術の一つの側面であり、杉本はそのことに自覚的なアーティストなのだと思う。