メインコンテンツまでスキップ
NEWS EVENT SPECIAL SERIES

『ドラッグストア・カウボーイ』論。選曲から見えるドラッグカルチャーとの「距離」

2026.9.16

#MOVIE

ガス・ヴァン・サント監督初期の名作『ドラッグストア・カウボーイ』が、デジタルリマスター版として9月18日(金)から劇場公開される。評論家・柴崎祐二は、同作で使用されている音楽に、作品の舞台設定からするとやや意外なある特徴が見てとれると言う。どういうことか。連載「その選曲が、映画をつくる」第42回。

※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

1971年が舞台。ガス・ヴァン・サント監督初期の名作

以前この連載でも取り上げたガス・ヴァン・サントによる目下の最新作『デッドマンズ・ワイヤー』は、1970年代のアメリカ映画特有のあのムードを愛する者たちにとって、不思議な安心感のようなものを与えてくれる映画だった(もちろん、描かれている内容は決して心安いとは言えないものだったにせよ、だ)。思えば、ガス・ヴァン・サントという映画作家自身が、デビュー期から「1970年代アメリカ映画」的なムード、あるいはその残滓的な精神が後の時代においてどのような変遷に晒されているのかを現在的視点から描こうとしてきた人物だったともいえるわけで、そういう意味で『デッドマンズ・ワイヤー』という作品は、彼にとっても一種の原点回帰めいた映画だったと評することができるかもしれない。

参考記事:『デッドマンズ・ワイヤー』と、昨今の「社会派映画」で重用されるある楽曲を巡る試論

そんなわけで、決して派手な動きとはいえないまでも一部の間でこの誠実な映画作家の仕事に再び注目が集まっている今、彼の定評ある初期作品――『ドラッグストア・カウボーイ』(1989年)と『マイ・プライベート・アイダホ』(1991年)のデジタルリマスター版が連続上映されるのは、まさに時宜にかなった流れというべきだろう。本稿ではこのうち、来る9月18日(金)から公開される彼の35ミリ映画デビュー作『ドラッグストア・カウボーイ』について、同作中で使用される音楽に注目しながらレビューしてみよう。

まずはあらすじから。1971年のアメリカ、ポートランド。ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)、友人のリック(ジェームズ・レグロス)は、ドラッグストアで薬物を強奪しそれを仲間内で使用することで、スリルと快楽に身を任せる日々を送っていた。地元警察に目を付けられた彼らは、一山当てようと病院荒らしに手を染める。かたや、リックの若い恋人ナディーン(ヘザー・グラハム)は、自らを蔑むようなボブの態度に我慢がならない。そんな中起きたある悲劇的な事故をきっかけに、ボブはいよいよドラッグ漬けの日々から足を洗おうとするが……。

当時のドラッグを取り巻くムードと、本作の距離

上のあらすじからもわかる通り、この映画には、終始退廃的なムードが漂っている。原作となったジェームズ・フォーグルの同名小説は、元ジャンキーの作者が自身の体験を元に獄中で書いていた未刊行原稿を元にしたものだった。ゆえにここに描かれたコミュニティのありようは、ある種のドキュメンタリー性を伴ったものだったと言えるが、実際に、劇中のボブをはじめとした仲間たちの暮らしぶりはあからさまなほどに閉鎖的であり、まさにドラッグ以外の経済も存在せず、当然ながら何らの希望もなく、未来の展望も存在しない。

このことに関連して、改めて注意を引かれるのが、同作が「1971年」という時代設定をはっきりと明示しているという点だ。一般に、アメリカの(に限らずだが)1970年前後のサブカルチャー〜カウンターカルチャー史を振り返る際、ドラッグというトピックが言及される場合には、しばしばそれが意識変革や、それを通じた理想的な社会の探求といった論点とともに語られがちだったりする。1960年代後半に隆盛を迎えたヒッピー〜フラワームーブメント、およびそこで喧伝された「Turn on, tune in, drop out」(※)といった標語には、ドラッグのポジティブな「効能」を謳う言説が付随するのが常だったし、もっと言えば、文化的な革命を志向した当時のユースカルチャーの当事者(やそのメンターたち)にとって、ドラッグという存在は、そうした社会的な可能性を呼び込むメディウムとしての機能が夢想されていたのだった(特にLSDに関して)。

※Turn on, tune in, drop out:「スイッチを入れ(=ドラッグで覚醒し)、波長を合わせ、(社会的制約や良識から)脱落せよ」。元は批評家マーシャル・マクルーハンの言葉だったとも言われる

「Turn on, tune in, drop out」の標語を広めた心理学者ティモシー・リアリーの「説法」は、同タイトルでレコードとして発表もされている。

現在では、オーバードーズ事故や依存症についての夥しい報告の数々によって、そのような「理想」がその後急速に挫かれていったことを私たちは知っているわけだが、少なくとも、1960年代末の段階にあっては、例えば後のクラック / コカインの流行期における退廃はいまだ遠い未来のことであり、なにがしかの「理想」――とは言わないまでも「意識変革」にまつわる言説の類は、それなりの現実感を維持していたと見ることもできる。

だが、その一方で、「革命」の挫折という大局的な情勢、あるいは1970年から翌年にかけての、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン(※)、ジム・モリソンといったロック・スターたちの象徴的なオーバードーズ死によって、そうした「理想」にまつわる言説が急速に陳腐化し、ドラッグが単なる危うい嗜好品として、後ろ暗いイメージを強烈に纏うようになっていったのも、紛れもない事実だった。

※長い間、ジャニス・ジョプリンの死因はヘロインの過剰摂取によるものと伝えられてきたが、近年そうした「定説」に疑義を呈する動きもある。詳しくは以下記事などを参照。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29131

そうした歴史的背景を踏まえたうえで、今一度『ドラッグストア・カウボーイ』の世界に舞い戻ってみるならば、あの、珍妙でいながらも妙な切迫感を伴った幻覚のシークエンスを含めて、この映画で描かれたドラッグにまつわる各種の表象が、異様なほどに非社会的、内向的、閉鎖的で、なおかつ非常なドライさと荒涼感を湛えていることに気付かされるだろう。端的に言って、ここには一切の希望も夢も、変革への期待もないし、外部とのコミュニケーションもほぼ存在しない。ベトナム戦争にまつわる暗いニュースもないし、権勢を振るう老獪なディック・ニクソンの気配もない。激化する環境問題も、「ニューファミリー」たちの明るい笑顔もない。ただただ動物的にドラッグを奪い、蕩尽することで一時的な快楽を貪り、自らを取り結ぶミニマムなコミュニティすらをも破壊し、果てには社会から取り残された自分自身の姿を発見するのだ(そしてその後に社会復帰を果たそうとしても、因縁から逃れることはできない)。この荒涼、この実存の喪失、この恐ろしき反復――。

リック(ジェームズ・レグロス / 左)とボブ(マット・ディロン / 右) / © 1989 Avenue Entertainment, Inc. All Rights Reserved.

ではお説教映画なのか? バロウズが登場する意味

だとすれば、そのような荒涼を執拗に描き出していく本作は、単にドラッグの危険性を安全圏から説いて回るような教育映画の類と同じ棚に属するものなのだろうか? 私たちがしばしば「教育的」な意図とともに見せつけられてきたように、心を冷え冷えさせるような描写をもって、なにがしかの道徳的な訓示を述べようとしているのか? ひょっとすると、上で触れたようなカウンターカルチャーの変遷などを知り得ない人々からしたら、そういう映画にしか見えない可能性もあるだろう(もはや、それはそれで仕方のないことだと思えるし、おそらくは今やそういう人々こそが現下の「カルチャー」の主要人物に収まっているというのも認めなくてはならない事実だろう)。

だが、当然ながらそうした見方は少しも当たっていないのだ。冒頭で私が書いたことを思い出し、ガス・ヴァン・サントという1952年生まれの映画監督の作家性に照らしてみれば、これは紛れもなく、「1970年代アメリカ映画」=「アメリカンニューシネマ」的なムード、あるいはその残滓的な精神が後の時代においてどのような変遷に晒されたかについての、ごく自覚的かつ再帰的な回答の実践なのである。

そうであるからこそ、うらびれた元牧師の役でビートニクの導師ウィリアム・バロウズが出演し、ドラッグ使用に関する政治的な意見表明や、意識改革の実践がサブカルチャー的な意義を強烈に持ち得た時代へのレクイエムめいた挿話を語るというシークエンスが据えられているのだと見ることもできるわけだ(この部分は、映画全体の構成からするとやや蛇足とも捉えられかねないが、逆に言えば、そういう印象を抱かせる危険性を冒してでもこのシークエンスを入れ込む必要性をヴァン・サントらが感じていたということに違いない)。

ウィリアム・バロウズ / Burroughs1983 crop b” by Re-cropped derivative work: Burn t (talk) Burroughs1983_cropped.jpg: Chuck Patch is licensed under CC BY-SA 2.0.

繰り返し述べるように、ここには理想というものが存在しない。あまりにも綺麗さっぱり存在しないとすら言える。かといって、絶望もない(ように登場人物たちは振る舞う)。出口はないが、そもそも出口を探しているわけでもない(ように登場人物は振る舞う)。意識変革への興味もなく、快楽への動物的な欲望がある(ことだけは確かだ)。言ってみればこれは、そのように戯画的とすら言えるほどのリアリズムを通じて反転的に描き出された、ポストカウンターカルチャー時代の精神のありように関する優れた寓話と捉えるべきなのではないか。

こう考えてみる時、私たちははたと気付くことにもなるだろう。仮にこの映画における「ドラッグ」を、1970年代以降に現れた多種多様のライフスタイル商品に置き換えてみた場合、このような「動物的」なカウボーイたちの姿は、カウンターカルチャー時代のその後を、記号的消費の神話の中で生き長らえてきた私たち自身の日常生活の戯画的な鏡像なのではないか、と――(またしても繰り返し述べれば、だからこそ、そのような「消費文化」の爛熟以前にドラッグを意識改革のツールとして先駆的に使用し続けてきたバロウズの姿が、ある種のロマン化を伴って描かれているのだと考えることもできる)。

ダイアン(ケリー・リンチ / 左)とボブ(マット・ディロン / 右) / © 1989 Avenue Entertainment, Inc. All Rights Reserved.

この映画にはヒッピー的ロック曲が出てこない

少々議論が先走りすぎたようだ。ここで、本作のポップソング使用について見てみよう。現在に至るまで、ガス・ヴァン・サント作品の多くがそうであるように、本作においても、その音楽の使用の仕方は水際立っている。主だったところをざっと挙げてみよう。

アビー・リンカーン“For All We Know”
ボビー・ゴールズボロ“Little Things”
ジャッキー・デシャノン“Put a Little Love in Your Heart”
Count Five“Psychotic Reaction”
ロッキー・エリクソン“I Am”
John Fred & His Playboy Band“Judy in Disguise”
Desmond Dekker & The Aces“Israelites”

https://open.spotify.com/playlist/6oAYOfzUUqia2pvVHUeFIx?si=DFFghXuHS1uCF-r3okjIug

いかにも興味深いのは、ヴァン・サント自身が後年のインタビューで、これらの曲について、ドライブ中にラジオから流れてきたものを使用した、と述べていることだ(※)。つまり、時代背景に完璧に沿った選曲や、「テーマ性ありき」の楽曲選択を意識的に行った結果ではないということなのだが、それでもこの選曲は色々な意味で見事だと思う。

※Michael Guillen. PARANOID PARK—A Question for Gus Van Sant. SCREENANARCHY. 2007.
https://screenanarchy.com/2007/12/paranoid-parka-question-for-gus-van-sant.html

まず美学的な次元においても大変効果的だ。冒頭と終結部に流れるアビー・リンカーン“For All We Know”は、それが映画全体の描写に比して異様なほどに柔和で落ち着いた曲調であることから見事な異化作用を発揮しているといえるし、デズモンド・デッカーのロックステディ名曲“Israelites”に関しても、ボブたちの文化的な背景とは全く重なり合わないようでいながら、伸び伸びとしつつもどこかに緊張感を孕んだような曲調が、絶妙のマッチングを聴かせている。

https://www.youtube.com/watch?v=FTv2QEAw0x8

加えて注目したいのが、いわゆる「ヒッピーロック」の名曲の類が一切使われていないという点だ。つまり、ドラッグ文化、1970年代といったキーワードから一般的に連想されるような、鷹揚としたサイケデリックロックやフォークロック〜カントリーロック系の楽曲はこの映画の中には存在していない。それゆえに、実際のところ主に中産階級の裕福な若者達に支持されていたそれらの楽曲の不在が、下層階級に属するボブたちの「現実」を照らし出すとともに、歴史的な視点に引き据えた場合にも、やはり「カウンターカルチャー以後」の空洞的なムードをうまく表象しているように感じられるのだ。

――などと書いた瞬間から、「いやCount Fiveの“Psychotic Reaction”にせよ、元The 13th Floor Elevatorsのロッキー・エリクソンの楽曲にせよ、明らかに“サイケデリックロック”の範疇に入るではないか?」という疑問の声が聞こえてきそうだ。しかし注意したいのは、ある女の子――これをドラッグの存在に読み替えることは容易い――との出会いを通じて「サイコティック」な逸脱反応を起こす様を歌うけたたましいガレージサイケ名曲の前者にしても、あるいは、現実のドラッグ禍による入退院を経た人物=ロッキー・エリクソンによって細々と歌われる後者に関してはよりあからさまな形で、意識改革の時代への賛美を歌っているわけでは決してないという点だ。それどころか、これらの楽曲は、劇物としてのドラッグ体験を経た内省的反応が生々しく映し出されているとも言いうる。これは、ドラッグカルチャーにまつわる詮無いまでのアナザーサイドを描き出す本作のテーマに照らしてみたとき、あまりにも出来すぎた符号といえるかもしれない。しかし、優れた選曲というのは、ときに選曲者自身の意図を越えて、かような共鳴を体現してしまうものなのである。

更に付言しておくならば、ボビー・ゴールズボロ、ジャッキー・デシャノン、John Fred & His Playboy Bandといったポップス系楽曲も、広く解釈すれば「愛と平和」の時代の楽天性を表象していると捉えることも可能かもしれないが、やはりその解釈は間違っている。映画の中で実際に使用されているシーン(特に“Put a Little Love in Your Heart”が流れる場面のバカバカしさ!)に照らしてみれば、それらはむしろ、「愛と平和」の決定的な不在を不格好に浮き立たせるための異化作用に従事していると考えるのが適当だろう。

https://www.youtube.com/watch?v=RvQHLMNSaTE

そう考えるなら、ここに描き出されているのは、何らの出口も用意されていないどころか、出口の扉が閉まる音すらが、すでに描かれ終わった世界なのである。扉の閉まる音の残響すらが、きれいさっぱりと存在しないのだ。

連載もくじページへ戻る

RECOMMEND

NiEW’S PLAYLIST

編集部がオススメする音楽を随時更新中🆕

時代の機微に反応し、新しい選択肢を提示してくれるアーティストを紹介するプレイリスト「NiEW Best Music」。

有名無名やジャンル、国境を問わず、NiEW編集部がオススメする音楽を随時更新しています。

EVENTS