ガス・ヴァン・サント監督初期の名作『ドラッグストア・カウボーイ』が、デジタルリマスター版として9月18日(金)から劇場公開される。評論家・柴崎祐二は、同作で使用されている音楽に、作品の舞台設定からするとやや意外なある特徴が見てとれると言う。どういうことか。連載「その選曲が、映画をつくる」第42回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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1971年が舞台。ガス・ヴァン・サント監督初期の名作
以前この連載でも取り上げたガス・ヴァン・サントによる目下の最新作『デッドマンズ・ワイヤー』は、1970年代のアメリカ映画特有のあのムードを愛する者たちにとって、不思議な安心感のようなものを与えてくれる映画だった(もちろん、描かれている内容は決して心安いとは言えないものだったにせよ、だ)。思えば、ガス・ヴァン・サントという映画作家自身が、デビュー期から「1970年代アメリカ映画」的なムード、あるいはその残滓的な精神が後の時代においてどのような変遷に晒されているのかを現在的視点から描こうとしてきた人物だったともいえるわけで、そういう意味で『デッドマンズ・ワイヤー』という作品は、彼にとっても一種の原点回帰めいた映画だったと評することができるかもしれない。

そんなわけで、決して派手な動きとはいえないまでも一部の間でこの誠実な映画作家の仕事に再び注目が集まっている今、彼の定評ある初期作品――『ドラッグストア・カウボーイ』(1989年)と『マイ・プライベート・アイダホ』(1991年)のデジタルリマスター版が連続上映されるのは、まさに時宜にかなった流れというべきだろう。本稿ではこのうち、来る9月18日(金)から公開される彼の35ミリ映画デビュー作『ドラッグストア・カウボーイ』について、同作中で使用される音楽に注目しながらレビューしてみよう。
まずはあらすじから。1971年のアメリカ、ポートランド。ボブ(マット・ディロン)とその妻ダイアン(ケリー・リンチ)、友人のリック(ジェームズ・レグロス)は、ドラッグストアで薬物を強奪しそれを仲間内で使用することで、スリルと快楽に身を任せる日々を送っていた。地元警察に目を付けられた彼らは、一山当てようと病院荒らしに手を染める。かたや、リックの若い恋人ナディーン(ヘザー・グラハム)は、自らを蔑むようなボブの態度に我慢がならない。そんな中起きたある悲劇的な事故をきっかけに、ボブはいよいよドラッグ漬けの日々から足を洗おうとするが……。
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当時のドラッグを取り巻くムードと、本作の距離
上のあらすじからもわかる通り、この映画には、終始退廃的なムードが漂っている。原作となったジェームズ・フォーグルの同名小説は、元ジャンキーの作者が自身の体験を元に獄中で書いていた未刊行原稿を元にしたものだった。ゆえにここに描かれたコミュニティのありようは、ある種のドキュメンタリー性を伴ったものだったと言えるが、実際に、劇中のボブをはじめとした仲間たちの暮らしぶりはあからさまなほどに閉鎖的であり、まさにドラッグ以外の経済も存在せず、当然ながら何らの希望もなく、未来の展望も存在しない。
このことに関連して、改めて注意を引かれるのが、同作が「1971年」という時代設定をはっきりと明示しているという点だ。一般に、アメリカの(に限らずだが)1970年前後のサブカルチャー〜カウンターカルチャー史を振り返る際、ドラッグというトピックが言及される場合には、しばしばそれが意識変革や、それを通じた理想的な社会の探求といった論点とともに語られがちだったりする。1960年代後半に隆盛を迎えたヒッピー〜フラワームーブメント、およびそこで喧伝された「Turn on, tune in, drop out」(※)といった標語には、ドラッグのポジティブな「効能」を謳う言説が付随するのが常だったし、もっと言えば、文化的な革命を志向した当時のユースカルチャーの当事者(やそのメンターたち)にとって、ドラッグという存在は、そうした社会的な可能性を呼び込むメディウムとしての機能が夢想されていたのだった(特にLSDに関して)。
※Turn on, tune in, drop out:「スイッチを入れ(=ドラッグで覚醒し)、波長を合わせ、(社会的制約や良識から)脱落せよ」。元は批評家マーシャル・マクルーハンの言葉だったとも言われる
現在では、オーバードーズ事故や依存症についての夥しい報告の数々によって、そのような「理想」がその後急速に挫かれていったことを私たちは知っているわけだが、少なくとも、1960年代末の段階にあっては、例えば後のクラック / コカインの流行期における退廃はいまだ遠い未来のことであり、なにがしかの「理想」――とは言わないまでも「意識変革」にまつわる言説の類は、それなりの現実感を維持していたと見ることもできる。
だが、その一方で、「革命」の挫折という大局的な情勢、あるいは1970年から翌年にかけての、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン(※)、ジム・モリソンといったロック・スターたちの象徴的なオーバードーズ死によって、そうした「理想」にまつわる言説が急速に陳腐化し、ドラッグが単なる危うい嗜好品として、後ろ暗いイメージを強烈に纏うようになっていったのも、紛れもない事実だった。
※長い間、ジャニス・ジョプリンの死因はヘロインの過剰摂取によるものと伝えられてきたが、近年そうした「定説」に疑義を呈する動きもある。詳しくは以下記事などを参照。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29131
そうした歴史的背景を踏まえたうえで、今一度『ドラッグストア・カウボーイ』の世界に舞い戻ってみるならば、あの、珍妙でいながらも妙な切迫感を伴った幻覚のシークエンスを含めて、この映画で描かれたドラッグにまつわる各種の表象が、異様なほどに非社会的、内向的、閉鎖的で、なおかつ非常なドライさと荒涼感を湛えていることに気付かされるだろう。端的に言って、ここには一切の希望も夢も、変革への期待もないし、外部とのコミュニケーションもほぼ存在しない。ベトナム戦争にまつわる暗いニュースもないし、権勢を振るう老獪なディック・ニクソンの気配もない。激化する環境問題も、「ニューファミリー」たちの明るい笑顔もない。ただただ動物的にドラッグを奪い、蕩尽することで一時的な快楽を貪り、自らを取り結ぶミニマムなコミュニティすらをも破壊し、果てには社会から取り残された自分自身の姿を発見するのだ(そしてその後に社会復帰を果たそうとしても、因縁から逃れることはできない)。この荒涼、この実存の喪失、この恐ろしき反復――。
