10月16日(金)公開の映画『わたしの知らない子どもたち』の舞台は、終戦直後の東京。戦争孤児の少女と、かつて彼女の教師だった女性が、それぞれの嘘を抱えて生き延びようとする。
国は誰を捨て、大人たちは何を見ようとしなかったのか。実際に戦争を経験していない監督に、何が語れるのか。
西川作品の「嘘」の系譜をたどりながら、この映画が映し出すものを紐解く。
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『ゆれる』から『夢売るふたり』へ。西川美和が描いてきた「嘘」
西川美和監督の映画では、いつも「嘘」が描かれている。
幼なじみが吊り橋から落ちた瞬間をめぐって、兄弟の言い分が食い違っていく様子を描いた『ゆれる』(2006年)。医師免許を持たない男が、無医村で「先生」としてすっかり頼られている状況を描く『ディア・ドクター』(2009年)。さらに、経営する店を火事で失った夫婦が、再建資金のために結婚詐欺に手を染めていく姿を映し出した『夢売るふたり』(2012年)。
ただ、その「嘘」の切実さは、作品ごとに少しずつ変わってきた。
『ゆれる』の「嘘」が守ろうとしていたのは、兄弟や家族のプライド。それが『ディア・ドクター』や『夢売るふたり』になると、生きていくためのリアルな手段へと姿を変えていく。作品を重ねるたびに、「嘘」はどんどん後戻りできないものになっていったのだ。
そして最新作『わたしの知らない子どもたち』で、嘘はついに行き着くところまで行き着く。前作『すばらしき世界』(2021年)の原案、佐木隆三の小説『身分帳』に記された戦争孤児の存在から生まれたこの作品で描かれるのは、つかなければ命に関わる「嘘」だ。
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「吉田茂男」と名乗る少女と、国の嘘を教えた教師
同作の舞台は終戦直後の東京。戦争で家族も家も失った12歳の主人公・琴子(小八重葵美)は、1948年の厚生省の調査で全国に12万3511人いたと記録される戦争孤児のひとりだ。靴磨きで日銭を稼ぐ毎日。でも少女のままでいたら、いつ危険な目に遭うかわからない。そう気づいた琴子は髪を切り、名前を変え、男の子として生きることを決める。性別を偽ることが、彼女にとって唯一の鎧であり、サバイバルの手段だったのだ。
彼女が選んだ新しい名前は「吉田茂男」。自分を見捨てた国の政治家の名前に、「男」という新たな性を書き足す。こうして「嘘」は、名前そのものに刻み込まれた。

『永い言い訳』(2016年)の主人公・衣笠幸夫(本木雅弘)もペンネームという偽名を使っていたが、それはコンプレックスを隠すための見栄にすぎなかった。琴子の場合は、それよりもはるかに切実だ。自分が自分であることを手放すことで、命を繋いでいる。
一方、今作のもうひとりの主人公・曽根文美子(二階堂ふみ)が抱えているのは、国がついた嘘だ。戦時中、琴子が疎開していた国民学校の教師として子どもたちに「アメリカは憎むべき敵だ」と教えていた彼女は、敗戦でその教えを丸ごと否定され、仕事も居場所も婚約者も失ってしまう。身寄りをなくし、遺された子どもを抱えて放り出された文美子は、やがて進駐軍向けの慰安施設で働き始める。

驚くのは、国の手のひらを返すスピードだ。終戦からわずか3日後の1945年8月18日には、内務省が全国に慰安施設をつくるよう指示を出している。昨日まで「敵」と教えていた相手のために、国はいち早く性接待の場を用意していたのだ。
翌1946年の4月10日には、日本で女性参政権が初めて行使され、女性がようやく政治の上で「国民」として認められた。その時代に、琴子は少女であることを捨て、文美子は自分の身体を差し出さなければ生きられなかったのである。
「国にだまされた」と、戦後多くの大人たちが口にした。けれど文美子はだまされた被害者であると同時に、教壇からその嘘を語ってきた張本人でもある。上野駅で琴子を置き去りにしてしまった彼女の後悔は、子どもたちを見捨てた戦後の大人たちの後ろめたさそのもの。教師が生徒を捨て、捨てられた少女が自分自身を捨てる。この映画は、そんな「捨てる」の連鎖も描いているのだ。