8月22日(土)から公開となる映画『ザ・ゴールドディガーズ』と『ナイトシフト』。いずれも1980年代前半に、女性の監督によって作られたイギリス映画で、日本の劇場では今回が初公開となる。両作について、評論家・柴崎祐二が音楽に着目して論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」第41回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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男性中心的な映画史のカノンを問い直す動き
アリス・ギイなどの初期女性映画人による作品の「発掘」や、シャンタル・アケルマンの世界的再評価に見られるように、近年、旧来の男性中心的な映画史のカノンを問い直す試みが盛んに重ねられつつある。ここ日本でも、アケルマンの特集上映が企画されたり、国立映画アーカイブでも2023年から「日本の女性映画人」が組まれているほか、書籍『ウィメンズ・ムービー・ブレックファスト 女性たちと映画をめぐるガイドブック』(2024年)が刊行されるなど、同じく既存の映画史を女性作家の実践から読み直す作業が続けられている。
中でも、2022年に設立された配給会社プンクテの実践は、まさにそうした一連の動きを象徴するようなものだと言えるだろう。同社はこれまでに、ウルリケ・オッティンガーによる「ベルリン三部作」やベット・ゴードンの『ヴァラエティ』など、男性中心のオルタナティブ映画史の陰に隠れがちだった作品を配給することで、社会的 / 歴史的に周縁化されてきた女性作家の存在を積極的に紹介してきたが、今年8月にも、新たに注目すべき2つの作品が、同社の配給によって日本初公開される。
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フェミニズムと反資本主義の前衛映画『ザ・ゴールドディガーズ』
まず一本目の『ザ・ゴールドディガーズ』(1983年)は、『オルランド』(1992年)や『タンゴ・レッスン』(1997年)などでその名を知られているイギリスの監督サリー・ポッターによる、長編デビュー作品である。
その作風は、後年のものに比べても相当に「前衛的」であり、コントラストを活かしたモノクロ撮影、細密なこだわりを感じさせる美術や編集に至るまで、様々な実験が刻み込まれた野心的な内容となっている。特に、その反復的な構造と、線的な時間の流れを大胆に撹乱するプロット〜編集は、「アンチシネマ」的問題意識を更に先鋭化させたような不敵さを体現するもので、この作品自体が、数多の男性作家の実践によって構築されてきた「映画」の正統的なフォルムを、したたかに撹乱しようとしていることを告げている。

また、一人の銀行員セレステ(コレット・ラフォン)と、「スター女優」であるルビー(実際のスター俳優であるジュリー・クリスティが演じている)が織りなす物語内容もきわめてコンシャスなもので、具体的には、フェミニズムと反資本主義的な姿勢にはっきりと貫かれているのがわかる。
彼女たちは、現代(1980年代当時の)社会のアレゴリーに満ちた特異な空間の中で、あくまで交換価値に規定された存在として扱われ、かたや官僚的かつ権威的な企業人(当然男性たちだ)から人間性を剥奪され、かたやジェンダー化されたエロチックな身体として消費される。それはまさに、貨幣と商品に規定された現経済体制の辛辣な戯画である一方で、女性たちは、その只中において疎外された生を取り戻すべく抵抗の実践に目覚め、周縁化された記憶の中に別様の鉱脈を求めながら、それを(交換価値に回収されえない)「金(きん)」へと変質させようとする――。そして、それらの「政治的」な物語が、上述のような変幻自在のイメージ操作ともに繰り広げられることで、美学的なラディカリズムとの共闘が再帰的に描き出されていくのである。舞踏会、映画、演劇という、それ自体が「劇」的な(二重の)枠組みを縦横に用いながら――。

当然ながら、音楽の存在も、そのような実践を(劇伴の一般的機能を超えた)根源的なレベルから共闘的に構成していく。作曲を手掛けているのは、ポッターとともに実験的な即興⾳楽グループ「Feminist Improvising Group(FIG)」を組織していた、元Henry Cowのリンジー・クーパーである。彼女の音楽は、室内楽〜プログレッシブロックの緊張感漲る再構成と評することができる一方で、ベルトルト・ブレヒトとの共同作業で知られるクルト・ヴァイルの舞台音楽のように、随所で強烈な異化作用を発揮しながら、正統的なロマン=物語を脱臼させ、思いもかけないような形でそれを再縫合していく。きわめて個性的なミュージカルシーンを含め、期待を裏切るようなメロディーとハーモニー、緩急に満ちた振れ幅の大きい曲調が、私たちのうちに浮かび上がる特定の情動を、カノン的な「感動」や「理解」へと着地させることを頑なに拒んでいくのだ。
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ホテルのロビーを淡々と映す『ナイトシフト』の、パンクな批評精神
もう一本の『ナイトシフト』もまた、同時期――1980年代前半のイギリスの女性作家によるアートフィルムの芳醇さを物語る一作だ。
監督・脚本・編集を手掛けたロビーナ・ローズは、ロンドン育ちの映像作家で、共同脚本を担当したニコラ・レーンとともにノッティングヒル近郊の「ポートベローホテル」で夜間勤務していた経験が元となって、同ホテルを舞台とした本作品を制作することになったのだという。
物語はいたってシンプルだ――というよりも、いわゆる「ストーリー」は存在していないと言った方が正しい。ホテルのフロントで夜勤を務める女性の目線を中心として、そこに現れては去っていく様々な人々の姿が、ごくミニマルな形で淡々と映し出されていく。こう書くとなんとも退屈そうに思われるかもしれないが、あるホテルの舞台とした様々な物語――例えばアラン・レネの『去年マリエンバートで』(1961年)やシャンタル・アケルマンの『ホテル・モンタレー』、あるいはジム・ジャームッシュの『ミステリー・トレイン』(1989年)などがそれぞれの仕方でごく美しい瞬間を写し取ってきたように、本作もまた、それがミニマルな非物語的構造がゆえに、なんとも静かで、それでいて愛おしいような時間と空間のあり様を、見事にすくい取っているのである。

その一方で、しかしながらこの映画は、ただ単に幸福な時間を品よく切り取っているというわけではない。むしろ、そこにはやはり明確にクリティカルな意識 / 眼差しが蔵されているように感じられる。それは、何よりもまず、これが現代――つまり1980年代前半のサッチャー政権下における自己疎外的な「労働」の姿を描き出しているという点に関連している。フロント係として(おそらくはそう望んだわけではない)夜間勤務に就き、非熟練労働者として単純な作業をこなす(ほかない構造に置かれている)主人公の女性が、なるべく感情を表に出さず、行き交う人々とのコミュニケーションを最低限(それ以下?)に抑えて夜を通り抜けていく様には、明らかにその当時の女性を取り巻く労働環境へのクリティカルな眼差しが映し出されているといえるし、反面で、だからこそ、そうした経済論理が一旦眠りにつき、それぞれの「個」の存在や、あらゆる事物の実存が覆いを剥がれたかのように輝き出す夜の時間が、これほどまでに尊いものとして表象されているのだと言うこともできる。
そこには、明らかに「昼」≒マーケットの存在や有象無象の「商品」が蠢き出す時間への批判意識と、深い思索と内観に富んだ「夜」という時間へのアンビバレントな愛着が滲んでいる。主人公を演じるロンドンパンクエラのアイコン=ジョーダンことパメラ・ルークの三白眼が、様々な「夜」の人々と事物を眺めるとき、そこにはたしかに――こういって良ければ「パンク」な批評精神が、都市のホテルのロビーというアノニマスな空間のど真ん中を(ごくさりげなくではあるものの)射抜いているのである。
