ソフィア・コッポラ監督の最新作『プリシラ』が4月12日(金)から公開となる。
エルヴィス・プレスリーの妻プリシラ・プレスリーを主人公に、彼女がエルヴィスと過ごした10年間の物語を描いた本作には、今までのソフィア・コッポラ監督作品同様、たくさんの既存のポップソングが映画全編に巧みに配置されている。
音楽ディレクター / 評論家の柴崎祐二が、音楽を中心に同作を解説する。連載「その選曲が、映画をつくる」第13回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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大スターと恋に落ちた少女の物語
1959年9月、アメリカ空軍将校の継父とともに西ドイツで暮らしていた14歳のプリシラ・ボーリューは、兵役のため歌手活動を中断し同地に赴任していた「キングオブロックンロール」ことエルヴィス・プレスリーと出会い、恋に落ちた。一般家庭に育った少女と、世界が憧れる大スターというアンバランスな二人は、プリシラの両親の忠告をよそに、お互いの境遇を越えて惹かれ合うようになる。しかし、兵役を解かれたエルヴィスは、束の間の逢瀬の季節を終え、仕事に復帰するためアメリカへと帰国してしまう。
涙に暮れてエルヴィスを見送ったその日から2年間、プリシラは彼と過ごした日々を忘れられず、抜け殻のような毎日を過ごしていた。そんなある日、エルヴィスから突然電話がかかってくる。「会いたい」「手配するからメンフィスへ来て」。プリシラは、はち切れそうな喜びを胸にメンフィスへと向かい、エルヴィスの自宅グレースランドへと赴く。そこには、西ドイツでの簡素な暮らしとは似ても似つかない、豪奢で夢のような世界が広がっていた。
一度は西ドイツへと帰国したプリシラだったが、エルヴィスへの思いはますます募るばかり。そこへエルヴィスがプリシラの両親へある提案をする。彼女をカトリックの名門学校へ編入させ必ず卒業させるので、自身の邸宅へ呼び寄せたい、と。エルヴィスは言う。「お嬢さんを愛しています。結婚を考えています」。
晴れてメンフィスへと移ったプリシラ。それは、エルヴィスとの甘い生活の始まりであると同時に、一人の少女が経験するにはあまりにも浮世離れした日々の幕開けでもあった。
本作『プリシラ』は、「キング」の傍らにありながら、自らのアイデンティティに悩み、時に苦しみを抱えながら若き日を歩んだプリシラ・プレスリーを主人公とした、甘く苦い物語だ。波乱に富んだエルヴィス・プレスリーのライフヒストリーの陰に隠れ今までほとんど語られることのなかったプリシラ・プレスリーの10年間が、「ガールズカルチャー」の先駆者であるソフィア・コッポラの手によって映画化された。
プリシラ役を務めるのは、『ザ・クラフト:レガシー』の主演等で知られる新星、ケイリー・スピーニーだ。かたや、オーストラリア出身の若手ジェイコブ・エロルディがエルヴィスを演じる。二人の俳優は、20世紀を代表する実在のセレブリティカップルという難しい題材を、繊細な表現を駆使しながら巧みに演じている。これまでのコッポラ作品と同様、美術や衣装、メイク等もこだわり抜かれている。1950年代末から1970年代前半にかけてのトレンドの変遷が、精密な時代考証と繊細な美意識の元に再現され、チャーミングなヴィジュアルが画面いっぱいに展開される。
コッポラは、当然ながらプリシラという女性の姿をただ「エルヴィスのお側人」として描いたりはしない。これまで、ドキュメンタリーや伝記ものなど多くの「エルヴィス映画」が生み出されてきたが、それらの多くがプリシラの存在を口数少ない脇役として扱ってきたのと異なり、当然ながら本作の主役はあくまでプリシラその人である。エルヴィスの主観は一切排され、彼のファンに広く知られる様々なエピソードも、あくまでプリシラがどのように接し、眺め、感じたのかという視点から映し出されていく。
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苦しみときらめき、矛盾を抱えるプリシラの「生」が丁寧に描かれる
かつてプリシラが、本作の原案となった自伝的書籍『私のエルヴィス』を刊行した1980年代当時、多くの好ましからざる反応を浴びせられたという事実からすると、この映画の存在そのものに、エンターテイメント界を取り巻く環境の日進月歩ぶりを見る思いがするのが率直なところだ。実際、ここに描かれている様々な「プリシラの目を通した世界」には、現代のフェミニズムの観点から論ずるべき多くのトピックが映し出されている。
例えば、外で仕事を行う夫エルヴィスと対称を描くように、プリシラを「家庭」の中に閉じ込め自己表現から遠ざけようとする「ドメスティックイデオロギー」の問題。あるいはまた、「自分好み」の装い以外を許そうとしない独善的かつ権威主義的な夫の姿勢や、エルヴィスを取り巻く「ボーイズクラブ」的なホモソーシャル空間、夫としての育児への関心の低さなど、現代の観客であれば、ジェンダーや家父長制度に関連する多くの問題提起が映画の中に散りばめられていることに気づくだろう。私達現代の観客が、何かと副次的な存在に押しやられてきたプリシラがいかにして自律的な生を獲得するに至ったのかを追体験するにあたって、そうした視点は是非とも欠かせないものになるはずだ。
一方で、特定の登場人物の振る舞いや思考を即座に断罪したり、反対に称揚したり、なにがしかの問題提起へと完全に収斂させてしまうことがないというのもあわせて注目すべき点だろう。
プリシラは、時間をかけて夫エルヴィスの絶対的な権力から離脱し、自らのアイデンティティを模索していった体験を持つが、一方で、1973年の別離から現在に至るまでエルヴィスを慕い続けているという。そんなプリシラの内面と原案に忠実であろうとしたというコッポラも、恋人としてのエルヴィス、あるいは家庭人としてのエルヴィスの問題ある人格・振る舞いを、現在の社会通念から遡って躊躇なく断罪しようとはしていない。
どちらかといえばコッポラは、プリシラの視点を通じ、過日の甘い蜜月と苦悩の両方が紛れもなく彼女の「生」の一部である他なかったという事実を、これまでの彼女の作品がそうであったのと同じように、丁寧に描き出そうとしているようである。逆に言えば、ある種の矛盾を孕み、当人でさえ割り切りのきかないビルドゥングスロマン(*)の苦しみときらめきこそが、コッポラ作品の魅力の中核を成し続けてきたということを、改めて思い知らせてくれるのが、本作『プリシラ』であると言えるかもしれない。
*編註:若い人物を主人公に、その人格形成や、内面的な成長の過程を描いた長編小説のこと。
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主人公の内面と共鳴する、巧みな選曲
効果的な音楽の使い方に定評のあるこれまでのコッポラ作品と同様、本作で流れる音楽も実に印象的なものだ。コッポラ自身と、公私共々パートナーシップを組むPhoenixのトーマス・マーズのセンスが遺憾なく発揮されており、本連載のテーマからも是非注目すべきものとなっている。
まず断っておくと、本作では、残念ながらエルヴィス・プレスリー・エンタープライズからの許諾が下りなかったとのことで、エルヴィス本人が歌う楽曲は一曲も使われていない(*)。しかし、それによってかえって絶妙な演出効果が発揮されているようにも感じる。観客は、圧倒的な求心力を持つエルヴィスの歌声の不在によって、ともすれば多くのファンが内在化してしまう「エルヴィスの物語」から離れ、あくまでプリシラの感情・プリシラの物語と同期することに誘われるのだ。同じように、本作において、エルヴィスのパフォーマンスがほとんど映し出されないということも注目に値する。本作におけるエルヴィスとは、絶対的なパフォーマンスで多くの人を圧倒するスターである以前に、ときに独善的で、弱さを抱えた一人の私人なのだ。
*変則的な例外として、映画後半にライブパフォーマーとして復活したエルヴィスのレパートリーが流れる箇所があるが、これは本人による録音ではなく、コッポラらによるオーダーに応えて「そっくりさん」達が再現したものだという。マニアなら聴き比べも楽しいだろう。よく知られているように、全米には彼のパフォーマンスを再現するミュージシャンが今もなお多く存在する。
代わりに映画を彩るのが、(エルヴィス以外の)大量のポップミュージックだ。そのうちの多くを占めるのが、フランキー・アヴァロン、ブレンダ・リー、レイ・チャールズ、The Righteous Brothers、クインシー・ジョーンズ、The Shadows、The Ronettes、ティミ・ユーロ、フォンテラ・バス、スピーディ・ウェスト等、劇中の設定と同時期の1950年代から1960年代にかけてリリースされた楽曲の数々である。これらは、過去を舞台とした映画一般と同様、ひとつの演出装置として特定の時代のムードを運び込むための巧みな役割を担っている。
他方、これらの往年のヒット曲は、プリシラとエルヴィスの生活の様々なシーンとともに流されることで、プリシラの姿、内面と強く共鳴するサウンドとしても機能している。中でも、プリシラの初登場シーンに流れるフランキー・アヴァロンの“Venus”は重要だ。この曲は、劇中でプリシラのテーマソングとして様々なバージョンで変奏され、彼女の浮き沈む心象を繊細に表現していく。
ところでコッポラといえば、ときに時代考証を意図的に無視した実験的な選曲を得意としていることでも知られている。最もわかりやすい例は、2006年公開の『マリー・アントワネット』だろう。フランス王妃マリー・アントワネットの伝記映画である同作にも多くの楽曲が使用されているが、そこでコッポラが選んだのは、Siouxsie And The Banshees、Bow Wow Wow、Gang of Four、Adam & The Ants、The Cure等のニューウェーブ〜ポストパンク系、更にはThe StrokesやThe Radio Dept.等のインディーロック系の楽曲であった。
言うまでもなくマリー・アントワネットは18世紀の人物なので、当然ながら時代考証などはなから無視されているわけだが、アントワネット妃を一人の少女として描くことで固定されたイメージから解放し、現代のガーズカルチャーの美意識と接続しようとした同作が、何よりもそうした選曲によって力強い生命を得ているのは、実際にご覧になればすぐに分かる通りである。
コッポラは、こうした時代のズレが生じさせる異化作用を、本作『プリシラ』においても(『マリー・アントワネット』ほどあからさまではないにせよ)盛んに散りばめている。映画の冒頭から、注意して音楽に耳を傾けてほしい。
グレースランドの屋内を闊歩し目尻を跳ね上げたアイラインを引くプリシラの姿に重ねられるのは、アリス・コルトレーン(*)が1973年に発表したアルバムに収められている“Going Home”という楽曲だ。続いて、何やら1960年代風の楽曲が流れてくるが、これは、1980年に録音されたRamonesによるThe Ronettes“Baby I Love You”のカバーバージョンである。こうした例は、Tommy James & The Shondells、ファラオ・サンダース、ケイトリン・オーレリア・スミスの楽曲など、随所で聴かれる。中でも、Sonic Boomことピーター・ケンバーによるオルタナティブロックバンド、Spectrum、およびエレクトロニックミュージシャン、ダン・ディーコンによる2曲の異物ぶりはなかなかにインパクト大だ。期待感と不安がほとばしるプリシラの内面のうごめきが、その異物感ゆえにかえって見事に表現されており、コッポラ流選曲術の面目躍如というべきシーンとなっている。
*故アリス・コルトレーンも、かつては正統派のジャズファンから「夫ジョン・コルトレーンを支えた妻」として語られがちだった人物だったが、近年、一人の卓越した女性アーティストとして大々的に再評価されている。
繰り返すように、この映画はあくまで「プリシラから見たエルヴィスとの生活」を描き、そこで彼女が味わった様々な感情を観客と共有しようとしている。そしてその狙いは、様々な装置とともに、音楽によってこそ一層シャープさを増し、実際に絶大な効果を上げているといえるだろう。プリシラ自身が聴き、胸のうちに感じ、吐き出そうとしていた感情は、きっとこうしたサウンドと似た何かだったのではないだろうかと思わせてくれる音楽を選び配置すること……こう書くといかにも簡単そうに思われるかもしれないが、(かつてある映画の音楽の監修に携わった経験から言っても)実際にやろうとしてみると、音楽への深い理解力と細やかな神経が要求される作業である。
劇伴であろうと、実際に画面の中で鳴らされている(という設定の)レコードやラジオの音であろうと、あるいはまた、違う時代からやってきたサウンドであろうと、ある音楽が、彼女が見、身を置き、抱いた様々な風景や感情との絶ち難いコネクションを体現しているように鳴らされる。その音楽を彼女と共有することによって、私達観客もまた、彼女の感情と共鳴する体験に誘われていくのだ。