『セブン』『ファイト・クラブ』『ゴーン・ガール』のデヴィッド・フィンチャー監督最新作『ザ・キラー』が公開され、早くも話題となっている。1980年代イギリスを代表するバンドThe Smithsの楽曲がふんだんに使用された本作について、音楽ディレクター / 評論家の柴崎祐二が論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」、第8回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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緊張感と高度なユーモアが融合した作品
デヴィッド・フィンチャー監督最新作『ザ・キラ―』が、11月10日(金)よりNetflix独占配信で全世界公開された。フランスの同名グラフィックノベルを原作とする本作は、タイトル通り、ある一人の暗殺者を主人公とするノワール作品だ。これまでも殺人をモチーフとする数々の傑作を作り上げてきたフィンチャーの最新作とあって、大きな期待が寄せられるとともに、既に各所から称賛の声が挙がっている。
主人公の暗殺者=ザ・キラーに扮するのは、本作で3年ぶりに映画界へと復帰したマイケル・ファスベンダーだ。彼は、持ち前の表現力を駆使して、寡黙な犯罪者の姿を巧みに演じている。また、脚本を務めたのは、これまでもフィンチャー作品で優れた仕事を重ねてきたアンドリュー・ケビン・ウォーカーだ。モノローグを交え暗殺者の特異なキャラクターを浮かび上がらせながら、緊張感と高度なユーモアが融合した魅惑的なプロットを連ねている。もちろん、完璧主義者として知られるフィンチャーならではの、細部にわたる映像美 / 構成美も、いつもながら素晴らしい。鮮烈な暴力描写と、練り上げられた演出、撮影、編集が、観る者の心を静かに刺激し、ざわつかせる。その抑制的なトーンは、かつてフランスの名手ジャン・ピエール・メルヴィルがアラン・ドロンを主演に据えて制作した一連の犯罪映画を彷彿させる、品格に溢れたものだ。
音楽にも注目だ。フィンチャーの良きパートナーであるトレント・レズナーとアッティカス・ロスが、今作にも優れたスコアを寄せている。サスペンスを煽り、なだめ、時に浄化するその仕事は、紛れもなく名人芸の域だ。そして、本作の特異さは、そのポップミュージックの使い方によるところも大変に大きい。ひょっとすると、「準主役」といっていいくらいのインパクトを観客に与えるかもしれない。公開前から話題になっていた通り、1980年代に活躍したイギリスの伝説的なロックバンド、The Smithsの楽曲が数多く(入れ代わり立ち代わり11曲も!)使われているのだ。
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「笑える」選曲としてのThe Smiths
暗殺者が狙撃に備えてヨガをしながら、あるいは、狙撃に集中するためにThe Smithsの曲を聴く。他にも、移動中にリラックスするためThe Smithsを聴く。殺人を犯した直後に心を落ち着かせるためThe Smithsを聴く。とにかく、あらゆる場面で、The Smithsの曲を聴くのだ。どうやら彼は、仕事中の様々なシチュエーションにあわせて、お気に入りの「The Smithsプレイリスト」を作っているらしい。
重厚な殺人ノワールと、流麗なギターサウンドで知られるThe Smiths? 一見、かなり妙な取り合わせに思われるかもしれない。フィンチャーは、本作がプレミア上映された『第80回ベネチア国際映画祭』の記者会見で、次のように述べている。
「The Smithsの曲は、まず“How Soon is Now?”を使いたくて、ポストプロダクションの段階で追加したものだ。殺人者が不安を和らげるためのツールとして聴くというアイデアを気に入ったんだ。瞑想用の音楽としても気に入ったし、愉快で面白い曲だと思った」
「レコーディングアーティストによる音楽で、(The Smithsのカタログほど)皮肉っぽさとウィットを兼ね備えたライブリーはないと思う。この男が誰なのか、私たちはあまり知ることができない。彼のミックステープを通して、彼を知る窓口になれば面白いと思ったんだ」
出典:https://www.stereogum.com/2235024/david-fincher-the-killer-smiths-songs/ より
また、10月にシネマテーク・フランセーズで行われた監督へのインタビューによると、当初は、ダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)やモーツァルト、Siouxsie And The Banshees、Joy Divisionらによる様々な楽曲の使用が試みられていたようだが、権利的な問題もあり難航していたという。そんな中で、撮影監督のエリック・メッサーシュミットがThe Smithsの曲を候補に挙げ、更にはレズナーの強い賛同もあり使用に至ったらしい。
重要なのは、同じインタビューで述べられているとおり、どうやらフィンチャーは、The Smithsの曲を単なるクールな背景音楽として使おうとしたのではなく、映像に重ねた際に生じる「笑える」感覚を重視したがゆえに採用した、ということだ。
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「自信家のニヒリストがThe Smithsを愛聴する」ことの意味
フィンチャーの言及しているThe Smithsの“How Soon is Now?”は、元は1984年8月に5枚目のシングルとしてリリースされた“William, It Was Really Nothing”のBサイドに収録されていた曲だ。しかし、発売後から人気が上昇、翌年に改めてA面曲として発売されたという経緯を持つ、バンドを代表するレパートリーの一つである。美麗でいながらダークなアンサンブルに加え、強烈な孤独感と疎外感、拭い難い劣等感からくるシニカルなブラックユーモアを溶かし込んだ歌詞など、The Smithsが一貫して主題とした諸要素がひときわ鮮やかに結晶化した曲として、多くのファンに愛されている(他方、「今に幸せがやってくるよ」と無責任に声をかける他者への軽蔑が入り交じる歌詞世界、そして、そこに強烈に匂い立つ自意識は、やや聴く者を選ぶ類のものであるのも確かだろう)。
フィンチャーは、この“How Soon is Now?”を、映画の冒頭近く、暗殺者がまさに狙撃を行おうとスコープを覗き込む場面で使用している。イヤホンをつけ、「仕事」に集中するために同曲を流す暗殺者。スコープ越しに向かいの部屋を覗く暗殺者主観のカットでは、彼の体感を再現するように音楽もオンになり、カメラが引いて彼自体を映すカットでは(イヤホンからの音漏れを示すように)オフ気味になる。この再生音のオン / オフが彼自身のモノローグを伴って矢継ぎ早に入れ替わる様は、演出効果の観点からいっても実に巧みで、観客の緊張感をジリジリと煽るいい働きをしている。
ここで注目すべきは、そのモノローグの内容だ。いかにも「殺しのプロフェッショナル」風に、集中するための方法や心を鎮める方法、仕事にまつわるコツや守るべき論理をやたらと饒舌に語るのだ(彼が現実に交わす会話の極端な少なさに比べると、よけいその異様さが目立つ)。曰く、神にも国にも支えない。何者も代表しない。あくまで計画通り、即興もしない。誰も信じるな。自分だけを信じて、常に先の展開を予測せよ。相手を優位に立たせるな。対価に見合う戦いだけに臨め。感情移入は禁物だ。それは弱さを生む。成功のキーワードはシンプル。「どうでもいい」だ。行程のあらゆる段階で、何を得られるのかを問う。やるべきことを確実にやる。もし成功したければ、そうしろ。
相当なニヒリストにして、自信たっぷりの実務家である。加えて、かなりの自意識過剰ぶりである。それゆえに、おそらく本人の自己評価の高さとは裏腹に、プロであることの冷厳さやそのリアリティよりも、「俺はプロフェッショナルだ」という自己言及 / 自己暗示が前面化してしまっているような、やや滑稽な印象を受けてしまうのだ。その滑稽さ、いたたまれなさは、狙撃の「ニアミス」とその直後のあくせくした退却によって一段と増幅されるし、このシークエンスに限らず、彼は本編中ずっと、どこか間抜けなキャラクターを隠しきれていない。
話を戻そう。まさしく、主人公のこうしたキャラクターを造形するにあたって甚大な効果を挙げているのが、The Smithsの楽曲なのだ。反権力志向で、ニヒリスティックで、捻じくれた自信屋。それはまさに、モリッシーの歌詞の中に度々登場するタイプの、世界から疎外され虚脱感と自意識を肥大させる若者の姿とどこか滑稽に重なり合ってしまっている。これは、逆から見ると、「The Smithsを聴いて悦に入っている男子あるいは元男子達」への痛烈な皮肉、カリカチュアにもなっているふうですらある。
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「ネオリベ」とThe Smithsと本作の主人公
『ザ・キラー』の中でThe Smithsの曲が醸す滑稽は、それだけではない。当然ながら、The Smithsの曲の魅力は(より正確に言えば、モリッシーの書く歌詞の魅力は)、上述したような若者の孤独感や疎外感、それに伴うニヒリスティックな自意識の鮮烈な表出ぶりだけに留まるのではない。よく知られている通り、彼らは1980年代のイギリスにあって、おそらくもっとも政治的なバンドの一つだった。マーガレット・サッチャーの「新自由主義的」かつ「新保守主義的」な政策に対してモリッシーが痛烈な批判を繰り広げたことからも分かる通り、その政治スタンスは明確に左派寄りであり、ラジカルな反権威主義に基づくものだった(近年の彼の「右傾化」についてはこの際おいておくとして)。モリッシーが、バンド結成以前からいわゆる「キッチンシンクリアリズム(*)」に大きな影響を受け、自らの表現を研ぎ澄ませていったというエピソードも知られている。そういった視点を手放さなかったからこそ、彼らの音楽に漂う青少年期特有の疎外感やアイデンティティ渇望のパワーが、社会的な問題意識へと分かちがたく接続され、政治的なインパクトを持ち得たのだともいえる。
*キッチンシンクリアリズム……1950年代後半から1960年代前半にかけてイギリスで隆盛した文化運動。キッチンシンク=キッチンの流し台のように、日常的なモチーフを扱い、労働者階級の人々の辛苦に満ちた生活を描写する等、社会的なリアリズムに根ざした表現を目指した。キッチンシンクリアリズムは、映画界ではトニー・リチャードソンやリンゼイ・アンダーソンらによって主導され、ケン・ローチらに引き継がれた。本文の議論に関連して言うなら、『ザ・キラ―』は、ケン・ローチがギグエコノミーのもたらす惨禍を描いた映画『家族を想うとき』(2019年)の反転的な戯画として味わうことも可能だろう。
片や、本作『ザ・キラー』の主人公である暗殺者が、果たしてそういう問題意識をもっているのかといえば、映画を一見すればわかる通り、ほぼ間違いなく「ノー」だろう。表面上は一匹狼タイプの反権威主義的なボヘミアンに見える彼だが、上述したモノローグに如実に現れてしまっている通り、その実はあくまで利己主義的で(利他主義的な殺し屋がいるのかという問い自体がナンセンスに思えるが……)、なおかつ、あからさまなまでに「意識が高い」職業観を内在化した人物だ。「プロ意識」を持ち、未来を予測し、他者への同情を避け、なにがしかのコミュニティに属すことをよしとせず、規制をかいくぐり、ただ自らのために、ビジネスとして人を殺し、効率的な投資で最大の効果を狙う。つまり、あまりにもわかりやすい形で、いわゆる「ネオリベ」的な倫理 / 論理を内在化した戯画的な人物が、彼なのだ。
なるほど彼は、自らの責任の元に「自由に」行動するフリーランスの殺人者である。クライアントから都度オーダーを受け、自分一人で「主体的」に判断し、行動する。自分では自分のことをプロフェッショナリズムに徹した優秀な人間だと信じて疑わないが、不測の事態が一度起こってしまえば、当然ながら組織の後ろ盾も期待できない。後ろ盾がないどころか、ひとつの失敗によってあっという間に発注者や元請業者の不興を買い、死という究極の罰を受ける寸前まで追い込まれてしまう。要するに、高度な雇用流動化が達成された後期資本主義社会において個人事業主(下請業者)であることのリスクを戯画的に体現しているのが、同じくこの暗殺者の姿だといえるのだ。
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後期資本主義社会に対する批評性
そうやって考えてみると、いわゆる「ネオリベ」の最も力強い推進者であったサッチャーを口激しく罵ったことで知られ、そういう社会において若者が抱え込む深刻な不全感を歌ったThe Smithsの曲を暗殺者が愛聴しているというのは、少し気の利きすぎた皮肉と言える。
自信たっぷりのビジネスパーソンたちが「ヒーリング」や「明日への活力」のためにお気にいりの音楽を摂取するように、自分の「アウトロー」ぶりを撫でるためにThe Smithsを聴く。結局のところギグエコノミーの一員でしかない自分を対象化してみることをせず、あくまで「自己責任」のもとでプロとして行動する。いや、行動せざるを得ない。自らと自らの恋人を危険に晒した発注者を追い詰めるという、その苛烈な業務の過程においてすら、だ。
ノンポリのフリーランス暗殺者のBGMはいつも、「自分と同じような」社会のアウトサイダーを歌った、The Smithsの名曲たち。なんという壮大な皮肉だろうか。この皮肉から、先鋭的な政治性をまとった特定のサブカルチャーが、商品経済の渦潮に揉まれることで次第に脱イデオロギー化し、それどころか親資本主義な「グッズ」としてしたたかに延命するという、現代におなじみの現象への痛烈な批評を嗅ぎ取るのもわけはないだろう。
フィンチャーがいう「笑える」とは、まさに、上に述べてきたような感覚を指しているのだろう。思えば、『ファイト・クラブ』しかり、『ソーシャル・ネットワーク』しかり、デヴィッド・フィンチャーという人は、かねてから後期資本主義社会に生きる男たちの抱える滑稽や矛盾を、執拗に描いてきたのだった。いつにも増して抑制的な語り口ゆえに、本作『ザ・キラ―』ではあくまで「クールな男性像」を称賛しているのではないかと一瞬騙されてしまいそうになるが、実のところは、まったく反対のことをあぶり出しているように思えてならない。つまり、「この男=暗殺者のモノローグと立ち居振る舞いに静かな喝采を送ってしまいそうになる君たちは、グローバル企業が主導するシェアリングエコノミーとギグエコノミー、そしてテクノロジーが世界を覆う現在の社会 / 経済システムの中において、一体どれほどまでに『主体的』で『自由』であるというのか?」という問いこそが、本作の提起するもっともクリティカルなテーマであるはずだ。それを浮かび上がらせるために、The Smithsの曲が担う役割はことのほか大きい。同時に、こんな迂遠なやり方で問いを起こすその方法自体が、すぐれてThe Smiths的といえるかもしれない。
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アイロニカルなモノローグと、「決して消えない光」
以下は、重要な「ネタバレ」になるので、できれば本編鑑賞後に改めて読んでいただきたい。
『ザ・キラー』の本編は、自宅へと戻った暗殺者によるモノローグとともに閉じられる。この謎めいたラストシーンで、なにやら彼は、これまでの言動とはまったく様子の異なる述懐を行う。あれほどまで職業的な熱心さで自らの行く末を予測せよと言っていたのに、ここではずばり未来は予測不能であると突如として主張する(認めてしまう)のだ。そして、それを認められないものは、数少ない特別な人間なのではなく、「私と同じ大勢の中の一人」に過ぎないのだと説く(オーバーワークに苛まれる私達現代のビジネスパーソンよろしく、不意に目尻を痙攣させながら)。
私はこのラストシーンに、フィンチャーとウォーカーの、真摯な作家性を見出さずにはいられない。本編において暗殺者が重ねてきた行動、そしてそれを規定してきた倫理 / 論理が、実のところ多くの観客が内在化してやまないそれを投影しているに過ぎなかったということが、他ならぬ暗殺者の口からいきなり暴露されるのだ。改めて、なんというアイロニー、なんという迂遠な行き方で達成されるメッセージであろうか。けれど、アイロニカルで迂遠だからこそ、強烈な印象を与えるのも確かなのだ。
続くエンドロールでは、一連のThe Smiths攻めを締めくくるように、名曲“There Is a Light That Never Goes Out”が流れる。「決して消えない光」とは一体何なのだろう? そう考えながら、私はぼんやりとエンドロールを眺め続けるほかないのだった。
『ザ・キラー』
2023年11月10日(金)よりNetflix独占配信
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:マイケル・ファスベンダー、ティルダ・スウィントン、アーリス・ハワードほか
https://www.netflix.com/jp/title/80234448