漫画家ヤマシタトモコの代表作『違国日記』は、2023年に連載を終えたあとも、2024年に実写映画が公開され、2026年のはじめにはTVアニメの放送がはじまった。完結してもなお、この物語は新しい読者に届き続けている。
なぜいま、私たちはヤマシタトモコを必要としているのだろう。旧尾崎テオドラ邸で開催中の『ヤマシタトモコ20周年展』を鑑賞しながら、「ケア」や「居場所」が注目される現在いやますその魅力について、あらためて考えた。
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世田谷にたたずむ洋館。こぢんまりとした2部屋に並ぶ原画たち
世田谷区豪徳寺。商店街の外れ、静かな住宅街の路地を曲がると水色の洋館が現れる。「旧尾崎テオドラ邸」。明治時代に建てられ、昭和のはじめ頃に現在の場所に移築された建物だ。
洋館の扉を開け、玄関でスリッパに履き替える。サイズの合わないスリッパで黒っぽい木の床を進むと、人の家にお邪魔しているような、少し落ち着かない感覚になる。
この瀟洒な洋館で開催されているのが『ヤマシタトモコ20周年展』である。

玄関から階段へと続く廊下は少し薄暗く、角にはステンドグラス風のレトロなランプが足元を照らすように置かれている。吹き抜けの階段を上がると、踊り場の縦長の窓から柔らかい光が差し込んでくる。濃い色の木の手すりと白い壁のコントラストが美しい。

展示室は2部屋だけの、こぢんまりとした空間だ。厚手のクラシックなカーテンが引かれ、天井からは洋館らしいランプが下がっている。
白黒の原稿が、ガラス張りの棚の引き出しに収められている。一段ずつ引き出し、屈んで覗き込むようにして観る。ガラス越しではあるものの、近い距離でじっくりと観ることができるのは嬉しい。カラーの原稿は額に収められ、目線の高さで向き合う。

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引き出しのなかの『違国日記』。手で描かれた線を覗き込む
ヤマシタトモコは1981年生まれ。2005年にデビューし、繊細な人間ドラマからコメディ、サスペンスまで多くの作品を描いてきた。『違国日記』は2017年から2023年まで『FEEL YOUNG』(祥伝社)で連載された全11巻の作品だ。人見知りの少女小説家・高代槙生(35歳)が、交通事故で両親を亡くした姪の田汲朝(15歳)を引き取り、ぎこちない同居生活をはじめる。対照的とも言える二人が関係を築いていく過程を、静かに描いた物語だ。
最初の展示室は『違国日記』を中心に構成されている。その手描きの一色原稿とネームが並べて展示されていて、原稿の方にはセリフがほとんど入っていない。吹き出しは描かれているものもあれば、描かれていないものもある。トーンも貼られていない。

セリフのない漫画の原稿は、人物の表情や、髪や服のしわの流れ、視線、コマとコマの間が無防備になる。描かれた線だけがそこにある。線の強弱やかすれに、描くという行為の生々しさを感じる。迷いなく引かれたであろう線に、何万回と繰り返された時間の積み重ねを見る。
展示されているのは原稿だけではない。セリフや場面を取捨選択した跡が残るネタ帳、普段使っている画材、水張り用の板、それに趣味で編んでいるというニットまでが並ぶ。ネタ帳は会期中に時々ページがめくられるそうだ。20年にわたって、一人の作家が机に向かい、言葉を選び、線を引いてきた。その手触りが、部屋のあちこちに佇んでいる。

もうひとつの展示室では、『BUTTER!!!』『YES IT’S ME』『運命の女の子』など過去の人気作品のカラー原稿や雑誌の表紙、最新作の『竜巻』のデジタル原稿までが並ぶ。『竜巻』はミニマムなコマ割りで描かれるサスペンス群像劇だ。セリフも入ったデジタル原稿からは、手描きの原稿とは違った密度の高さを感じる。作家の20年の歩みが2つの部屋を通して俯瞰できる。


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「ただ居る」ことの難しさ。「居場所」を象徴的に描いた一枚のシーン
足が止まったのは、ある一枚の原稿の前だった。
槙生が机に向かい、キーボードを打っている。画面の対角線上、同じ部屋の片隅で、朝が布団にくるまって眠っている。不安定に積み上げられた本が、二人の間に美しい構造物のように描き込まれている。

印象的に描かれたこの場面だが、物語の上で「何か」が起きるわけではない。会話もなければ、問題が解決するわけでもない。ひとりは書き、ひとりは眠る。同じ部屋に、ただふたりが居る。
「ただ居る」こと。これが、本当は一番難しい。
東畑開人の『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』(医学書院、2019年)という本がある。臨床心理士・公認心理師である著者が精神科デイケアでの経験を綴った同書は、ただ「居る」ことがいかに難しいか、同時に人にとってどれほど大切かを伝えている。人は「する」をしたくなる。「居る」だけではいたたまれないから。
全部自分でやろうとしないで、人にやってもらう。お互いにそういうふうにしていると、「いる」が可能になる。「いる」とはお世話をしてもらうことに慣れることなのだ。
東畑開人『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』
安心して誰かと一緒に「居る」、その関係を肯定し続けることにも、多大な努力が必要なのだと、このシーンを観ながら思い出す。それでもやはり人には「居場所」が必要なのだ。誰かと一緒に居ることが難しいのは、槙生や朝だけの問題ではない。
「居場所」は、いまや政策の言葉にもなっている。こども家庭庁の「こどもの居場所づくりに関する指針」は、どんな場所・時間・人との関係性であっても居場所となり得ると記している。居場所は、もはや当たり前にそこにあるものではなく、国が言葉にして守らなければならないものになった、ということでもある。
一方で、指針はこうも述べている。「こうした多様な場がこどもの居場所になるかどうかは、一義的には、こども・若者本人がそこを居場所と感じるかどうかによっている」と。
朝が「いっしょに帰る……」と泣きながら選んだ槙生の家は、彼女にとって間違いなく「居場所」だったのだろう。槙生は、朝に居場所を用意しようと気負うわけではない。他人と過ごすことが苦手なまま、朝を引き受ける。その不器用さが、この物語の誠実さだと思う。

ヤマシタ自身は、文学研究者・岩川ありさとの対談でこう語っている。
「人と人は絶対にわかりあえない」ことを大切に描きたいと思っていました。(中略)それを大前提にしたうえで「わかりあえない、それでも……」ともがきながら関係をつくっていく行為こそ尊いし、そこに物語が生まれるだろうと。
【前編】ヤマシタトモコ×岩川ありさが語る「物語の力」:『違国日記』のフェアさ、社会と物語の関わり. CINRA. 2023.
https://www.cinra.net/article/202307-yamashitaiwakawapt1_gtmnm
TVアニメ化にあたっても、原作者として「湿度が高くないほうがいい」と伝えていたという。キャラクター同士が解り合えすぎたり、優しい感じが強すぎたりするのは違う、という意図だったと、制作側がイベントで明かしている(※)。
※「違国日記」プロデューサー&担当編集の制作秘話、“湿度が高すぎない”ことを大事に. コミックナタリー. 2026.
https://natalie.mu/comic/news/661517
わかりあえないまま、それでも一緒に居る。その関係を一日ずつ積み上げていくことに、敬意を払う。『違国日記』に描かれているのは、そういう関係の数々だ。槙生と朝だけではない。朝と友人たち、槙生とかつての恋人や友人、周囲の大人たち。それぞれの関係のなかで、「居る」が少しずつ積み上げられていく。
展示のなかで、男性ふたりが食事を共にする場面がある。定食屋で昼食をとりつつ、男社会の息苦しさを少しだけ共有する。同意するでもなく、ただ思いを口に出してみる。男性にもまた、ただ一緒にいることの積み重ねが必要なのではないか。そんなヤマシタの問いかけのようにも見える。

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「ケア」や「居場所」が叫ばれる時代、その難しさを難しいまま描く
ヤマシタトモコの作品に通底しているのは、世間の「当たり前」に回収されず、その手前で立ち止まる態度だ。
たとえば『HER』という作品では、女子高校生のこずえは「フツー」でなければならないという呪縛にとらわれている。誰もが思い当たるような、小さな、けれど切実な呪縛だ。ご近所の写真家の女性と出会い、こずえは自分が信じていた「フツー」が、いかに小さな世界の「当たり前」に過ぎないかに気付かされる。
ヤマシタの作品は、世間の「普通」や、誰かの「当たり前」に敏感だ。「当たり前」に回収されそうな違和感にどう気づけばよいのか、そのヒントにあふれている。でも、答えはないことも多い。ヤマシタはかつてインタビューで、「人のあり方は多様でいいと気づくのは実はすごく難しくて苦しい」とも語っている(※)。気づくことの難しさ、それに向き合うことの苦しさを伝えることを諦めていない姿勢は、その物語からも作画からも伝わってくる。
※『違国日記』ヤマシタトモコが語る、“口うるさいマンガ”を描く理由 「人のあり方は多様でいいと気づくのはすごく難しくて苦しい」. Real Sound, 2021.
https://realsound.jp/book/2021/02/post-708185.html

「ケア」や「居場所」という言葉は、近年すっかり耳になじんだように思う。だからこそ、それらがいい話として消費される危うさもある。ヤマシタの作品が響くのは、ケアを美しい物語として差し出すからではない。誰かと共にいることの難しさを、安易に解決しようとしないからだ。
誰かと共に居ることには、わかりあえなさや面倒くささ、愛せるかわからないという戸惑いがつきまとう。それらを「絆」や「献身」という逃げ場のない正しさで覆い隠し、解決したことにはしない。
ヤマシタトモコの漫画は、世間の「普通」や「当たり前」にかき消されそうな小さな声を、かき消される前に、拾い上げてくれる。誰かと共に居ることの難しさを、簡単に解決できるものとして描かない。だからこそいま、私たちはヤマシタトモコを必要としているのだと思う。