メインコンテンツまでスキップ
NEWS EVENT SPECIAL SERIES

誰もが魔女化する現代。さやわかが語る『まどマギ〈ワルプルギスの廻天〉』と未来

2026.9.4

#MOVIE

2011年のテレビ放送以来、数々の熱狂を生み出し、社会現象を巻き起こしてきた『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズ。その正統な続編として、新房昭之総監督をはじめとするオリジナルスタッフが再結集し描かれる最新作『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』は、長らくその全貌が待ち望まれてきた。前作『[新編]叛逆の物語』が残した衝撃的な結末から10余年、魔法少女たちは再びスクリーンに降り立つ。

近年は作品を「考察」することが流行した結果、評論や批評はクリエイターの意図を読み解くに徹するものだという誤解が生まれつつある。だが、本稿で考えるのは、制作陣の意志はともかくとして、作品が何を反映し、どのように受容されうるか。

作品の内部に答えを求めるだけでは、完結した作品の「続き」がなぜ今なお人々に望まれるのか、その理由が考えられない。ここではむしろ、作品と時代の意識の密かな共鳴についての話をする。誰もが「魔女」になりうる過酷な現代において、この物語は私たちにどんな希望と絶望を突きつけるのだろうか。

リブート隆盛の時代に放たれる「正統な続編」

近年のアニメ分野では、有名作品のリメイクやリブートが活発だ。その理由については、若者のアニメ離れが叫ばれてみたり、ヒットを生み出せるオリジナル新作の減少など、さまざまな意見がある。

ただ、もともとポップカルチャーはリブートやリメイクを繰り返してきた。たとえば、大日本帝国が国家総動員法を施行した年である1938年に誕生した『スーパーマン』が、昨年ジェームズ・ガン監督によって新たにリブートされたように、同じ作品が何度もいろんな人の手によって描かれてきたわけである。

しかし、『魔法少女まどか☆マギカ』の新作映画は、そうした潮流とは一線を画している。

かつての人気作でありながら、リメイクでもリブートでもない。ファンからずっと待ち望まれてきた「源流」に連なる完全新作なのだ。『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』とは、まさにそうした作品なのだ。

「病みかわいい」の先取りと、2011年の重苦しい空気が生んだ大ヒット

『魔法少女まどか☆マギカ』が誕生したのは、2011年初頭のTVアニメシリーズ。ごく普通の中学生の少女たちが「魔女」を倒す力を持った「魔法少女」に仕立て上げられるが、過酷な現実に直面し、絶望すると自分自身が「魔女」化してしまう。このダークな物語は当時は類を見ないもので、多くの人々に衝撃を与え、アニメファンを超えて大ヒットを巻き起こした。

のちに、「魔法少女」を過酷な現実を生きる者として描く作品は増えたが、そのルーツにあるのがまさにこの作品だ。

そもそも、「シリアスな世界で戦う女の子」を描くポップカルチャーの起源をたどれば、1980年代後半にブームとなった『スケバン刑事』シリーズに行き着く。その後、1990年代に入って『美少女戦士セーラームーン』がこのスタイルを「魔法少女もの(変身もの)」と融合させる形で発展させ、1990年代末から2000年代にかけての『カードキャプターさくら』がその路線を一区切りさせた。

以後、このスタイルは「低年齢の視聴者も意識した作品」と「大人にも強くアピールする作品」に二分されていく。アニメ監督の新房昭之は、2000年代に後者の大人にも刺さる作品『魔法少女リリカルなのは』を手がけ、そこですでに、「魔法少女もの」でのシリアスな世界観や強いアクション性を試みていた。

その経験のあとで作られたのが『魔法少女まどか☆マギカ』だ。蒼樹うめのかわいい美少女タッチのキャラクターデザイン、重要キャラクターを死なせることにも躊躇しない虚淵玄の脚本、劇団イヌカレーによるアートアニメ感ある魔女の描写。これらを得て、新しい時代にふさわしい、より繊細でダークなかわいらしさを描く表現のスタートとなったのである。

特筆すべきは、まだ「病みかわいい」も「地雷系」も存在しない時代だったということ。つまり、2010年代以降に急速に市民権を得ていく新世代女子カルチャーの芽生えのひとつが『魔法少女まどか☆マギカ』だったのだ。

また当時は、まだSNSもおおらかで、スマホを持っている人も今よりずっと少ない頃だった。しかし、放送時期に「アラブの春」があり、東日本大震災があり、ネット上の空気も徐々に重苦しくなりはじめていた。

諫山創の漫画『進撃の巨人』第1巻が発売されたのが2010年。HBOの海外ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』第1シーズンや、フロムソフトウェアが世界中に「死にゲー」を流行らせた『ダークソウル』のシリーズ第1作が発売されたのが2011年。

平凡に言えば、「ダークファンタジーがヒットの主流になりはじめていた」ということである。意匠は違えど、『魔法少女まどか☆マギカ』の登場も、そうした現象と近しい出来事だった。

つまり『魔法少女まどか☆マギカ』は、2000年代から2010年代へと変わるまさにその瞬間に放映され、ふたつの時代の橋渡しをするとともに、次なる時代のトレンドをも先取りした作品だったのだ。

定番プロットからの脱却。「オタクの言い訳」を打ち破った『叛逆の物語』

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』

TVシリーズの物語はいったん幕を閉じたが、人気は継続し、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』が制作された。

未見の人向けにストーリーを少し振り返る。

TVシリーズの最後で主人公のまどかは、「円環の理」という世界を守護する神のような上位存在となり、友人たちは彼女の記憶を失った。

しかし『叛逆の物語』では、まどかに強い愛情を抱く魔法少女・暁美ほむらが、まどかに代わって自ら上位存在となり、強引に世界を書き換えてしまうのだ。まどかも含めたすべての人々が再び記憶を失い、ほむらが「一見すると平穏な、まどかのいる日常」を手に入れたところで、映画は幕を閉じる。

このラストシーンは、TVシリーズに続いて観客に大きな衝撃を与えた。ほむらが、まどかも含めたすべての人々を欺き、偽の世界を作り出したところで話が終わる。愛情ゆえとはいえ、許されざる行為だ。実際、終盤でほむらが自身を「悪魔」だとうそぶくことから、彼女自身がそれを自覚していることもわかる。

相手を想い、側に居たいがゆえに、現実や真実から目を背け、結果として堕落してしまう。盲目の愛。重い愛。たとえ物議を醸したとしても、これもまた『魔法少女まどか☆マギカ』らしい筋書きだった。そして、2010年代以降という空気感にも似つかわしいものだったと言えるのではないか。

だからこそ、物語はいったんここで完結した。そして、その後も人気シリーズとして派生作品が作られ、それらも上質だったが基本的に「源流」たるTVシリーズの系譜に連なる正統な新作は、長らく発表されなかったのだ。

ただ、ファンは気になっていた。『叛逆の物語』でほむらが行った、独善的な幸福追求は許されるのか。彼女は、まどかの幸せのためなら、まどかの意志に背くことすら辞さないとしていた。

利己的なハッピーエンドは時として美しい。純粋さ、思いの強さには誰もが憧れる。可憐な少女が絶望して魔女となる物語が愛されてきたからこそ、我々は前作に酔い、その帰結にどこか納得できるものがあったのも事実だ。だが、ほむらの判断を許すかどうかは、作品の外側にいる私たち観客にとって「別の問題」として突きつけられることになった。

『叛逆の物語』は人々を驚かせ、ざわつかせた。「快楽的に作り上げた虚構の世界」は、その閉塞感ゆえにやがて崩壊していくという、日本のマンガやアニメにおける定番のプロットを採用していなかったのだ。

「虚構の世界に逃げ込んでいる自分を自嘲しつつ、結局はその心地よさに甘え続ける」。2000年代までのオタク向け作品には、そんな言い訳めいた姿勢がお約束として存在していた。しかし、同作はもはやそんな古い定型では語れない。「オタク特有の言い訳」という殻を打ち破り、それ以降の「アニメ」の新しい基準を作った。それはまさに、過去の歴史に対する「叛逆」だったのだ。

10余年の時を経て。再び動き出す「止まった時間」と少女たちの自己形成

ただ、作品がそこで一度終わったとしても、時間は流れていくし、時代も変わっていく。2013年にあの形で閉じた物語世界は、今の時代に照らし合わせた時、どのように見えるだろうか。作中で、ほむらは時間操作の能力を持つ魔法少女として描かれている。その彼女が「止めた時間」を再び動かす試みだとするなら、非常に趣深い。

2021年、シリーズ開始10周年の折に『叛逆の物語』の正統続編『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』の制作が発表された。正統続編ということは「あの結末の続き」が描かれるということだ。それはすなわち、2010年代を象徴してみせた作品が、2020年代に、また新たな一歩を踏み出すことを意味している。

過去作のファンが色めき立ったのは当然だが、これは一般視聴者にとっても重要な意味を持つ。なぜなら本作は、「あの時代の続き」として、いま我々がどんな時代を生き、この先どうなっていくのかを予見してくれる作品になる可能性を秘めているからだ。

これまで『魔法少女まどか☆マギカ』がそうした作品だったとすれば、今作への期待は高まる。仮に予言的な内容でなかったとしても、TVシリーズから一貫しているクリエイター陣の先進的な試みは、間違いなく我々に圧倒的な体験をもたらしてくれるはずだ。

https://youtu.be/AXpnlROHu78

特報映像や予告編からも、いくつかの試みが読み取れる。たとえば、キャラクターデザインの年齢感が調整され、蒼樹うめがTVシリーズの頃にデザインしたような、どこか幼い雰囲気を宿した中学生らしいキャラクター性が強調されている。

この判断にどういう意図があるかはわからない。TVシリーズから15年が経過し、まどかやほむらは観客や制作スタッフにとっても、確固たる「ひとりの人間」として定着していた。しかしこの新しいデザインは、彼女たちをもう一度「繊細な子供たち」として再認識させる効果を観客たちに呼び起こすだろう。そういう意味で、この物語は進んでしまった時間の続きを描くだけでなく、もう一度正しく「ビルドゥングスロマン(自己形成の物語)」をやり直そうとしているのかもしれない。

誰もが「魔女」になりうる現代へ。絶望の根元を描くことで見えてくるもの

また、予告映像では「名塚底根」という名称が登場し、それが「すべての魔女たちの始まりの場所」だという説明が加えられる。前述の通り、作中で言う魔女とは、絶望した魔法少女が零落して生まれる存在だ。その根元を描くということは、今作が「少女が絶望すること」そのものを深く描こうとしている証拠だろう。

https://youtu.be/HD6vwmNvcXo

昨今、現実はあらゆる人々にとって過酷なものだ。年若い少女であればなおさらだろう。現代において、人は誰だって、いつだって「魔女」のようになりうる。望まなくともそうなる不安を抱え、あるいは他人に抜きん出るため、自らの力を示すため、他人に評価されるため、率先して魔女(絶望)を目指す者すらいる。

そうした時代に絶望の根元を描くことには、確かな意味がある。そして、「最初は誰もそんな思いを抱いていなかった」ということに気づかせるものになるかもしれない。

魔女になる瞬間とは、作中の言葉で言えば「希望と絶望の相転移」。すなわち、絶望の前にはいつだって希望があったはずなのだ。我々が、その事実に癒されるのだとすれば、まだ「絶望」していないはずである。

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』

公開時期
8月28日(金)全国公開

スタッフ
原作 :Magica Quartet
総監督 :新房昭之
脚本 :虚淵玄(ニトロプラス)
キャラクター原案 :蒼樹うめ
監督 :宮本幸裕
キャラクターデザイン/総作画監督 :谷口淳一郎
異空間設計 :劇団イヌカレー(泥犬)
音楽 :梶浦由記
アニメーション制作 :シャフト
配給 :ANIMEC

鹿目まどか :悠木 碧
暁美ほむら :斎藤千和
美樹さやか :喜多村英梨
佐倉杏子 :野中 藍
巴マミ :水橋かおり
百江なぎさ :阿澄佳奈
紫丁香 :若山詩音
セルマ・テレーゼ :黒沢ともよ
キュゥべえ :加藤英美里

RECOMMEND

NiEW’S PLAYLIST

編集部がオススメする音楽を随時更新中🆕

時代の機微に反応し、新しい選択肢を提示してくれるアーティストを紹介するプレイリスト「NiEW Best Music」。

有名無名やジャンル、国境を問わず、NiEW編集部がオススメする音楽を随時更新しています。

EVENTS