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田村芽実が語る、30代目前の挑戦。人生の岐路を経て生まれた「小梅ちゃん」のこと

2026.7.27

#PR #STAGE

「人の役に立つために、自分には何ができるのか」――社会が逼迫する状況で、自分自身の仕事の意味や役割を考え込む人も少なくないだろう。

「大それた社会貢献はできませんが、微力ながらにできることを考えたい」と語るのは、歌手・俳優の田村芽実。小学生からキャリアをスタートし、14歳でハロー!プロジェクトのスマイレージ(現アンジュルム)としてデビュー、現在はミュージカルを中心に活躍する。舞台で主演も務めるなど目覚ましい活躍の中で、自身が主宰・脚本・演出・出演をするシアターユニット「小梅ちゃん」を立ち上げた。

そこには、自身が大切にしたい世界観を守るという思いと、エンタテイメントがどのように社会貢献できるのか、という田村の問いがある。芸能人の社会貢献の動きを「偽善」と捉えられてしまうこともある昨今、田村がどのような信念でシアターユニットを立ち上げたのか話を伺った。

自分を守れる場所として作ったシアターユニット

─シアターユニット「小梅ちゃん」を立ち上げる際に「本当に大切にしたい表現や世界観があります。それを、いつの時代も見失わずにいたい」と仰っていました。田村さんが表現したいものとは、どんなものなのでしょうか?

田村:私はミュージカルで海外の人物を演じることが多いんですね。そうすると、自分のアイデンティティを消さなきゃいけない瞬間があり、それがやりがいでもあり苦しいことでもあります。

たとえば、恋をした男性に迫るとき、海外の方は積極的にアプローチすることも多いのですが、日本人はどちらかというと奥ゆかしい近づき方をする人が多いイメージです。私もどちらかというと後者のイプなので、役を演じるときは自我を出しすぎないようにかなり意識しています。でも、どこかで自分自身を使って演じたいという「本当の欲」みたいなものが出てきそうになり、自分の表現ができる場所を設けるべきだと思いました。

田村芽実(たむら めいみ)
幼い頃から演劇に親しみながら育つ。小学校低学年より市民ミュージカルやジュニアミュージカルの舞台に立ち、ミュージカル女優を志す。12歳〜17歳までアイドルとして大人の世界の中で過ごす。キラキラした舞台裏で、こっそり、自分らしさとまだ子供でいたい自分と向き合う。18歳でミュージカル女優としてデビュー。その後、歌手としても活動を広げ、音楽と演劇の双方において表現の幅を深めていく中で、作品を「演じる側」だけでなく「生み出す側」への憧れを抱くようになる。コロナ禍をきっかけに、ミュージカルという表現の場の在り方に危機感を覚え、自粛期間中、幼少期から好きだった“書くこと”に向き合い始める。数々の作品への出演を重ねる中で、舞台は決して一人で成立するものではないことを実感し、表現へのこだわりは年々強くなっていく。自身が本当に大切にしたい世界観を守り、形にしていくため、田村芽実としての創作活動を本格化。そのひとつのかたちとして、演劇ユニット「小梅ちゃん」を立ち上げる。

─ご自身のアイデンティティを大事にしたまま演じたい、ということなんですね。田村さんの表現の核はどんなところにありますか?

田村:私が大事にしたい表現というのは、子どもらしさや素直さといったイノセントな側面。いくつになっても持ち続けたい童心こそ、自分の核となる部分だと思います。その個性を否定も肯定もされてきましたが、絶対忘れてはいけないと、歳を重ねるほど感じています。いろいろな作品に呼んでいただける喜びも感じながら、同時に自分が戻ってこられる場所もあったらいいなと思ってユニットを立ち上げました。「自分を守れる場所」というイメージですね。

─どうしたって、大人になることを求められてしまって、子どもらしさは意識的に守らなきゃいけないものですよね。

田村:とくに私の場合は子どもの頃から芸能界にいて、ずっと大人に囲まれてきたので、必然的に大人にならざるを得なかったことへの反動もあるかもしれません。私自身、子どもという存在が大好きなんですね。子役の方とご一緒することもあるのですが、みんな素直で、いい意味でまっすぐ。忘れてはいけないことを、たくさん教えてもらいます。

劇団四季から文学座、シェイクスピアまで。舞台に夢中だった幼少期

─田村さんは、どのような子どもでしたか?

田村:聞き分けがなく、こだわりが強い子どもでした。誰からも好かれるようなタイプではなかったけれど、私の存在を面白がってくれる人もいましたね。

物心がついた頃から、家にあった劇団四季さんのファミリーミュージカルのDVDをくり返し見ていました。地方に住んでいたので、実際に舞台を観に行けたのは4歳のとき。そこから、姉が通っていたミュージカルスクールに通い始めました。

─ご両親も演劇がお好きだったのですか?

田村:母が楽しいことが大好きで、演劇に限らず人形劇を観に行ったり、科学館に行ったり、いろいろな体験をさせてくれました。小学校1年生のときに、全国公演で宝塚が地元に来てくれたときも、真っ先に連れて行ってくれました。演劇しか知らずに生きてきてしまって、習いごともミュージカルしかやったことがないんです。なので、演劇の道しか想像できなかったのかもしれません。

30代を目前に、出産と仕事を天秤にかけること。選択の葛藤について

─ユニット名の「小梅ちゃん」はどのような由来なのでしょうか?

田村:赤裸々に話すと、小梅ちゃんという名前も自分のアイデンティティに関わっています。なるべく日本らしい名前を付けたくて、いつか子どもが生まれたらつけようと思っていた名前です。

4年前になりますかね。パニック障害を発症して、体調が不安定になってしまったんです。今は良くなりましたが、それから子どもを持つことを想像できなくなってしまって。自分の面倒を見ることで精いっぱいなのに、誰かの命を見守れる自信がない。これから先、考えが変わるかもしれませんが、自分のことも社会の変化も知れば知るほど、子どもを育てるという選択肢が薄れていって。自分の大切な存在を持つという心の強さは今の私には無いので、それならば自分の子どもを育てるような気持ちでこのユニットを守りたいと思って名づけたんです。

─田村さんにとって大きな「子ども」という存在について、向き合われたのですね。

田村:姉が子育てをしている姿を近くで見ていて、仕事をしながら子育てをするのは相当難しいことだなと思いました。女性だけが責任を負うことではないけれど、出産は女性しかできないので、仕事と子育てどちらかを選ぶ瞬間がやってくるものだなと思ったんです。とくに、私の場合はダブルタスクができないので、どちらかを選ばなくてはいけなくなってしまうんだろうな、と。もうすぐ30歳になるので、年齢的に1回目の選択を自分で選んだ結果が「小梅ちゃん」なんです。

─今回のプロジェクトは売り上げの一部を、未来を作る子どもたちへの寄付に充てたり、作品を子どもたちに届けることも考えられているんですよね。

田村:決して大それた社会貢献はできませんが、少しでも子どもたちが楽しく生きられるお手伝いをするために今の私にできることはなんだろうと考えていて。それで教育格差や児童虐待、難病と戦う子どもたちに演劇を届けることが私にできることだと思いました。

─「エンタテイメントができる社会貢献とは何か」ということを、考えるのは難しかったですか?

田村:本当に微力だな、と思いましたね。生きることに必死な子も多い中で、エンタテイメントは楽しいよ、演劇を観に来てねと言っても「それどころではない」という子がほとんどだと思うんです。コロナ禍に演劇が苦境に立たされたように、生活があってこそ観られるもの。たとえば、戦争が始まったら演劇はできなくなるでしょうし、ただの娯楽に過ぎないことは確かなんです。ただ、演劇をやってきた人間として、これしかできないということを受け止め、微力ながらできることを考えたいと今は思っています。

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