プエルトリコの歴史・文化をレプリゼントするバッド・バニーや、スペインの伝統をまったく新しい形で提示するロザリアのように、いま世界で、自らの「ルーツ」に根差した表現を行うアーティストが大きな存在感を放っている。アジア圏のアーティストとしてはじめて全米チャートを席巻したBTSも、今年、復帰作のタイトルに韓国民謡の名を掲げた(『ARIRANG』)。
現在のポップミュージックを取り巻く状況は、非英語圏の音楽がひとくくりに第三世界の音楽=「ワールドミュージック」と呼ばれた時代とは、あきらかに異なる様相を示し始めている。その背景には「文化の脱植民地化」という論点がある。
では、日本はどうか。そもそも日本が「文化的な植民地状態」にある、と言われても、ピンとこない方もいるだろう。しかしこう考えてみるといかがだろうか――私たちはなぜ義務教育で英語を学習し、洋服を着ているのか? あるいは、子どもたちがピアノでモーツァルトを弾き、ミュージシャンたちが「本場」アメリカのグルーヴに近づこうと切磋琢磨しているのはなぜなのか?
日本のポップミュージックに、そうしたアメリカや西欧の「支配」から脱した表現は可能なのだろうか? だとすればそれはどのように? 翻って、音楽における「日本らしさ」とは何なのか? こうした問いは、今日の音楽のあり方を考える上で――こと日本のポップミュージック産業が「海外進出(輸出)」を志向するのであればなおさら――重要であるはずだ。その一方で、この問題と向き合うことは、不健康なナショナリズムの誘惑と隣り合わせでもある。
「ブラックミュージックを愛好するアジア人ベーシスト」としてニューヨークを拠点に活動しながら、この問題系と日々対峙している唐木元。演歌やリズム歌謡を研究対象とし、日本の大衆音楽史をヴァナキュラー(=その土地に固有)な「近代音曲史」として捉え直す試みを行う大阪大学教授・輪島裕介。二人に思うところを語り合ってもらった。
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私たちが「いい曲」と感じる認知機能は、インストールされたもの
唐木:我々は、たとえば「東京ミッドタウン」みたいな横文字の名称をつけたり、そのロゴをアルファベットでデザインしたりする。それってすごく脆弱なことなんじゃないかと思うんです。「ミッドタウン」って「中間の地区」ってことですよね。でも、「中間の地区」と言うとなんか野暮ったいものに聞こえ、「ミッドタウン」と言うとなんかシュッとした雰囲気だと思ってしまう。つまり自分の母語をダサいものと感じる認識体系が刷り込まれてるわけです。もちろん、僕自身の中にもそれはすごくあって、それをなんとかしないと、ヘルシーな自尊感情みたいなものは獲得できないんじゃないかって思ってるんです。なんだけど、いまの日本が精神的な植民地である、もしくは文化的帝国主義の支配下にあるという認識って、社会的にはなかなか理解を得るのが難しいのかもしれません。

1974年東京都生まれ。大学在学中よりライターとして書き始め、そののち3つの出版社で編集者として勤務。2007年よりニュースサイト「ナタリー」を運営する株式会社ナターシャ取締役。2016年、音大留学のため渡米し、卒業後はチャーチを中心にシンガーのサポートやウェディングなどローカルミュージシャンとして活動。並行してニューヨーク市立大学シティカレッジ人文科学領域を卒業。
輪島:「西洋由来の文化・文明が普遍的だ」と思っている人の方が圧倒的に大多数なので、伝わりにくいのかもしれません。日本は明治維新で植民地化されなかったことで、その構造が見えにくくなったわけですよね。西洋化としての近代化というものを、主に薩長出身の官僚の主導で内発的にやった。思想的には進んで植民地化されたというか、自らを植民地化したとも言えるので。

大阪大学大学院人文学研究科音楽学研究室教授。1974年石川県生まれ。専門はポピュラー音楽研究、近現代音曲史、アフロ・ブラジル音楽研究、非西洋地域における音楽の近代化・西洋化に関する批判的研究。著書に『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽史』『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部亮一のリズム音曲』(ともにNHK出版新書)など。『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』(光文社新書)で第33回サントリー学芸賞、国際ポピュラー音楽学会賞を受賞。新潮社Webマガジン「考える人」で「北島三郎論 艶歌を生きた男」を連載中。近代日本の「音楽」ではない「音曲」の歴史を再起動させるべく、危険思想を愉快に語る音楽学者。
唐木:音楽で言えば、少し前に「我々の報酬系といわれる認知機能は、コーダル(※)な音楽に特化されてしまっている」というツイートが話題になりましたよね。それは、長い時間をかけて人為的にインストールされた、馴致された結果なんだけど、もはやそのことは忘れられていて、自分の「いい曲だなあ」と感じる瞬間、言い換えれば美意識に疑問を抱かなくなっている。
※コーダル:コード的、西洋機能和声的。コード進行に基づいて展開されていく音楽
輪島:はい。
唐木:と言うと必ず「それで何の問題があるのか」「別にいいじゃん」って言われるんだけど……。僕はどうしてもフランツ・ファノン(※)のことを思い出してしまう。彼が言うには、植民地の人間は、まずは自己否定をしなければいけない。自分たちの土着の肉体や土着の音感をダサいものだと考えなければいけない。それから「白い仮面」をかぶらなければいけない。自分達があたかももともとバイオリンを弾いていたようなツラをして、自分たちの歴史と記憶を抹殺しないといられない——これってすごく僕たちの話だなっていう当事者感覚があるんですよ。そして、それをやっている限りは、強靭なカルチャーは獲得できないんじゃないかと。
※フランツ・ファノン:フランス領マルティニーク出身の精神科医・思想家で、アルジェリア独立運動に大きな影響を与えた
唐木:それで、いま世界ではコーダルな西洋音楽が圧倒的に支配的ななわけですが、もともとは地球上の音楽の大半はそれ以外の、モーダル(※)な原理によって駆動されていたわけですよね。だから僕は、モーダルなエンジンの再獲得 / 復権というのが、脱植民地化の手がかりになると思っているんです。反復の音楽であり、いわゆる緊張解決運動(※)を原理としない音楽ですね。
※モーダル:モード的、旋法的。ある特定の音階(音の並び)を用いて展開されていく音楽
※緊張解決運動:西洋音楽で「推進力」となる、ドミナント(緊張、不安定)からトニック(安定)へと解決することでカタルシスを得る和音の動き
輪島:そうですね。ただ、僕は原理主義的なところがあるので、そこでコーダル / モーダルという用語は使いたくないんです。モードっていうのも、ヨーロッパ近代のコモンプラクティス、つまり調性音楽を規範として、そこから外れるものを一切合切雑に名指すための用語法じゃないですか。ヨーロッパ由来の音楽用語を使って特徴づけてしまうと、違うと思っていて。実態はまあそうなんだけど。「白人」と「非白人」みたいな、その線の引き方自体がすでに差別的、というか。
唐木:おっしゃるとおりです。僕のこのフレームワーク自体が、あまりに西洋的な教育を受けた人間の言葉だということは自覚しています。
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カジュアルな演奏実践の場が無いことが問題
輪島:なので、そういうことも含めて、僕は少なくとも日本語圏のことに関しては「音楽」と「音曲」という対比を使っているんですね。「音楽」と言うときは、その多くが和声の進行によってリニアに構成される音楽で、だからこそ鑑賞に向いている。「音曲」というのはもう少し、特定の場の中で起動するようなもので、いつ始まってもいつ終わってもいいかもしれないし、そこでは反復だったり、いろんな人が参加しやすい形式だったり、そういうことの方が重要なのかなと思っています。
唐木:音楽の内容ではなく、鳴っている場所が大事ということですね。
輪島:はい。響きが西洋音楽と似ているか似ていないかは、わりとどうでもいいと思っていて、使われ方というか、ある場の中での機能に注目しているんです。ありがたく鑑賞するのではなく、カジュアルな参加や合奏ができる場。歌とか、踊りと歌、踊りと演奏を伴う、社交とか娯楽の場が日本に無くなっているということがたぶん一番の問題だと僕は思っていて。そういう場があれば、たぶんそういう場にふさわしい感じの演奏実践だったり、それにふさわしい音楽スタイルも自ずと出てくるだろうと思ってるんです。
ただ、と言いつつ、コード進行で感情を掻き立てるタイプの音楽っていうのは、やっぱりどちらかというとモノローグ的であったり感傷的であったりするので、場を盛り上げるための音楽というのは半ば必然的にループ中心になったり、単純なコードの繰り返しとか、少ないコードの組み合わせとかになるだろうとも思います。そうじゃないと合奏しにくいですからね。なので、我々が見ていることは、力点が違うだけでたぶんほぼ同じだと思います。
唐木:わかります。すごく面白い。
輪島:冠婚葬祭儀礼と結びついた音楽の実践っていうのは、世界中どこにもあるわけですよね。そこでどういう音を鳴らすか、どういうセレモニーをやるかはそれぞれだけど、人の振る舞いとしてはすごくユニバーサルなものだと思うし。宗教だったり、地域的な信仰や祖先との関係、あるいは地域の娯楽、そこには性的な逸脱とかもあったりして。そういう場——アジール(※)とか言うのもなんかちょっと恥ずかしいですけど——の存在が、脱植民地化の過程ではすごく重要な役割を持つわけじゃないですか。それはアメリカだったら黒人教会とかかもしれないし、ブラジルのカンドンブレのテヘイロ(※)とかもそうだろうし。
※アジール:聖域。統治権力が及ばない場所
※カンドンブレのテヘイロ:カンドンブレは、アフロブラジル人の民間信仰。テヘイロはその宗教施設であり、コミュニティの拠点でもある
輪島:日本にそれに相当するものがあるとすれば、いま盆踊りしかないかなって思っているんです。日常的な、ヴァナキュラーな実践をする場が無くなっていった。日本の場合、それをカラオケがぜんぶ持ってっちゃったんですよね。
唐木:ああー。
輪島:宴会とか飲み会で、三味線伴奏でもギター伴奏でもいいんですけど、適当な伴奏で適当に歌うとか、手拍子だけで歌うとか、そういうところからヴァナキュラーな音楽は始まるわけじゃないですか。それはもちろん西洋にだってあって、ヨーロッパの音楽とヨーロッパのクラシック音楽というのはけっこう違う。たとえばバルカン半島の葬送ブラスバンドとか、あるいはフランスやイタリアのカフェの音楽なんかは、ヨーロッパ音楽の規則に準拠していても、だいぶ違う訳です。
唐木:すごくわかります。われわれの世代はみんなクストリッツァ(※)で食らっていますから。
※エミール・クストリッツァ:サラエボ出身の映画監督。バルカン半島の伝統音楽に根差した音楽をたびたび映画に用いており、自身も音楽活動を行っている。『アンダーグラウンド』(1995年)等の監督作品は、バルカン半島の音楽が世界的に知られる契機にもなった。
輪島:クラシック音楽っていうのは、ヨーロッパ音楽一般ではなくて、クラシック=古典的という価値を付与された「正統な音楽」なわけです。でも、それこそが単一の普遍的な価値ある音楽かのようにモデル化されてきたわけですよね。有象無象の演奏実践とは別に、そういう極端な思想が、西北ヨーロッパの知的エリートの間で喧伝され始めたのは19世紀の半ば以降といっていいと思いますが、さらにその上澄みだけをすくい取る形で日本の「音楽=洋楽」受容がはじまった。その中で、音楽というものはきちんとした完成品であって、客席と舞台が分けられてるところでちゃんと鑑賞するものだという感覚も構築されていった。それで、音楽実践の場が、日常的な楽しみや冠婚葬祭の儀礼よりも、お稽古と発表会に収斂していったわけですよね。
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「バックビートおじさん」的な精神風土
唐木:お稽古と発表会、まさに。いまそれを伺って連想したんですが、ジャムセッションという言葉が意味するところには日米でけっこうな差異があると思うんです。即時生成性って言えばいいのかな。ループミュージックがその場でどんどん変異していくタイプの即興演奏が、日本のジャムセッションではあまり起きない。日本では楽曲を決めて演奏することが多いように思います。
輪島:はい。日本で言う「セッション」って、僕が想像してたものとだいぶ違いそうだなあと話に漏れ聞きます。譜面を持ってきてもらって、その曲をやるって、それはセッションというより生カラオケじゃないですか? って。
唐木:それは「ジャズのセッション」か「オープンマイク」という概念ですよね。ファンクやヒップホップの分野でジャムって呼ばれるものは、誰かが何かしらモチーフを提示して、それを全員が受け取って即時生成的にビルディングしていくというモーダルな運動で、これは言ってみればアフリカ的な知性です。それが日本で「ワンコードでやろう」って言うと、最初から最後までワンコードで終わっちゃったりする。ツーコードに発展したり、4小節ループに発展したり、転調したりユニゾンしたり、違うリズムに移ったりするみたいな、そういったビルディングが起きづらいんです。若い演奏者の友人に、それってなんでだろうね? と聞いてみたところ「怒られるから」と言っていて(笑)。それはけっこう面白い回答だと思いました。
輪島:人前で何かをやるとか、人と一緒に何かをやるということの、意味合いの違いですよね。日本だと「見る人のことを考えなさい」という話になったりするし、「曲をやる」っていう発想はどうしても発表会と連なってくる。確定した音楽を演奏するのではない、音曲=歌とか踊りの場みたいなものが想像しにくいってことですよね。
唐木:僕は精神風土みたいなことをどうしても考えてしまいました。2年前に幡ヶ谷でジャムセッションを主催したことがあるんですけど、後日「セッション中に初対面のプレイヤーから“お前は引っ込んでろ”と言われた」みたいな報告が僕のところに届いて。そういった憲兵気取りみたいなやつが出現するんですよ、相互参与的な空間に。そんなことがあったら成立するものも成立しないわ、というのをすごく痛感しました。
輪島:特に戦後はジャズ音楽が、米兵向けのエンターテインメントとして、金を稼ぐ手段として定着したから、そのバンドマン気質がずっと残ってる、みたいなことがあるのかな? ジャズを上手くやることは、楽しむことというよりも「稼ぐ手段」なので、そう簡単に人には教えられない、といったような。
唐木:どうでしょう。これは少々飛躍のある仮説なんですが、自分から出てきたものじゃないからそういう風になっているんじゃないか、という気がしているんです。模倣自慢というか。
輪島:自分が頑張って身につけたものを自慢する。
唐木:はい。日本人って英語の発音にうるさいじゃないですか。特にあんまり英語を嗜まない人が。それと似ていると思ったんです。
輪島:似てますね。伝わるかどうかじゃなくて、何を話すかじゃなくて、LとRのことを気にする。
唐木:「ぽさ」のジャッジメントだけが異様に発達してるんですよね。それって、本場のバックビートはどうだとか、本当のスウィングのフィールがどうだとかっていうのと同じですよね。「バックビートおじさん」とか「横ノリおじさん」みたいな人たちがいるじゃないですか。俺はあの人たち自身より、それを支持している層がしんどいなって思ってるんです。つまり、教条的に自己否定をしているっていう意味で。日本の津々浦々に、なんか劣等感の権化みたいな人たちがいっぱいいて。きつい言い方になるけど、健康的な自文化愛を妨げる存在だと思っているんです。
輪島:「自分は本場を知っている、お前らは知らない」という、落差に基づいたコーチ稼業ですよね。たぶんそういう人たちが、ジャムセッションで変わったことをやる人を叱る側に行くんでしょうね。
唐木:本人のご主張は別に結構だと思うんですけど、バックビートおじさんが商売として成り立つとしたら、それは日本人が内面化している劣等感を換金しているわけですから、構造的には不健全だと思うんですね。本物は外部にあって、私たちは偽物であるっていうのは、典型的な植民地根性なので。