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カジュアルな演奏実践の場が無いことが問題
輪島:なので、そういうことも含めて、僕は少なくとも日本語圏のことに関しては「音楽」と「音曲」という対比を使っているんですね。「音楽」と言うときは、その多くが和声の進行によってリニアに構成される音楽で、だからこそ鑑賞に向いている。「音曲」というのはもう少し、特定の場の中で起動するようなもので、いつ始まってもいつ終わってもいいかもしれないし、そこでは反復だったり、いろんな人が参加しやすい形式だったり、そういうことの方が重要なのかなと思っています。
唐木:音楽の内容ではなく、鳴っている場所が大事ということですね。
輪島:はい。響きが西洋音楽と似ているか似ていないかは、わりとどうでもいいと思っていて、使われ方というか、ある場の中での機能に注目しているんです。ありがたく鑑賞するのではなく、カジュアルな参加や合奏ができる場。歌とか、踊りと歌、踊りと演奏を伴う、社交とか娯楽の場が日本に無くなっているということがたぶん一番の問題だと僕は思っていて。そういう場があれば、たぶんそういう場にふさわしい感じの演奏実践だったり、それにふさわしい音楽スタイルも自ずと出てくるだろうと思ってるんです。
ただ、と言いつつ、コード進行で感情を掻き立てるタイプの音楽っていうのは、やっぱりどちらかというとモノローグ的であったり感傷的であったりするので、場を盛り上げるための音楽というのは半ば必然的にループ中心になったり、単純なコードの繰り返しとか、少ないコードの組み合わせとかになるだろうとも思います。そうじゃないと合奏しにくいですからね。なので、我々が見ていることは、力点が違うだけでたぶんほぼ同じだと思います。
唐木:わかります。すごく面白い。
輪島:冠婚葬祭儀礼と結びついた音楽の実践っていうのは、世界中どこにもあるわけですよね。そこでどういう音を鳴らすか、どういうセレモニーをやるかはそれぞれだけど、人の振る舞いとしてはすごくユニバーサルなものだと思うし。宗教だったり、地域的な信仰や祖先との関係、あるいは地域の娯楽、そこには性的な逸脱とかもあったりして。そういう場——アジール(※)とか言うのもなんかちょっと恥ずかしいですけど——の存在が、脱植民地化の過程ではすごく重要な役割を持つわけじゃないですか。それはアメリカだったら黒人教会とかかもしれないし、ブラジルのカンドンブレのテヘイロ(※)とかもそうだろうし。
※アジール:聖域。統治権力が及ばない場所
※カンドンブレのテヘイロ:カンドンブレは、アフロブラジル人の民間信仰。テヘイロはその宗教施設であり、コミュニティの拠点でもある
輪島:日本にそれに相当するものがあるとすれば、いま盆踊りしかないかなって思っているんです。日常的な、ヴァナキュラーな実践をする場が無くなっていった。日本の場合、それをカラオケがぜんぶ持ってっちゃったんですよね。
唐木:ああー。
輪島:宴会とか飲み会で、三味線伴奏でもギター伴奏でもいいんですけど、適当な伴奏で適当に歌うとか、手拍子だけで歌うとか、そういうところからヴァナキュラーな音楽は始まるわけじゃないですか。それはもちろん西洋にだってあって、ヨーロッパの音楽とヨーロッパのクラシック音楽というのはけっこう違う。たとえばバルカン半島の葬送ブラスバンドとか、あるいはフランスやイタリアのカフェの音楽なんかは、ヨーロッパ音楽の規則に準拠していても、だいぶ違う訳です。
唐木:すごくわかります。われわれの世代はみんなクストリッツァ(※)で食らっていますから。
※エミール・クストリッツァ:サラエボ出身の映画監督。バルカン半島の伝統音楽に根差した音楽をたびたび映画に用いており、自身も音楽活動を行っている。『アンダーグラウンド』(1995年)等の監督作品は、バルカン半島の音楽が世界的に知られる契機にもなった。
輪島:クラシック音楽っていうのは、ヨーロッパ音楽一般ではなくて、クラシック=古典的という価値を付与された「正統な音楽」なわけです。でも、それこそが単一の普遍的な価値ある音楽かのようにモデル化されてきたわけですよね。有象無象の演奏実践とは別に、そういう極端な思想が、西北ヨーロッパの知的エリートの間で喧伝され始めたのは19世紀の半ば以降といっていいと思いますが、さらにその上澄みだけをすくい取る形で日本の「音楽=洋楽」受容がはじまった。その中で、音楽というものはきちんとした完成品であって、客席と舞台が分けられてるところでちゃんと鑑賞するものだという感覚も構築されていった。それで、音楽実践の場が、日常的な楽しみや冠婚葬祭の儀礼よりも、お稽古と発表会に収斂していったわけですよね。