イギリスのシンガーソングライターRAYEの2ndアルバム『THIS MUSIC MAY CONTAIN HOPE.』が2026年3月27日(金)にリリースされた。映画音楽作曲家ハンス・ジマー(『パイレーツ・オブ・カリビアン』『ライオン・キング』)、ソウルシンガーのレジェンド=アル・グリーンの参加でも話題の同作を、文筆家つやちゃんが紐解く。
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時代に逆行するような、長くて複雑なアルバムだが……
RAYEの最新アルバム『THIS MUSIC MAY CONTAIN HOPE.』が話題だ。英メディア『NME』は、本作を彼女の「all-in」(全部入り)なマキシマリズムとして高く評価した。『The Guardian』は過剰さや散漫さを指摘しつつ、「unbridled self-expression」(解き放たれた自己表現)の野心作と評している(※)。商業的なインパクトは大きく、リリース直後から各国チャートで好成績を記録。とりわけUKではアルバム部門1位となり、複数チャートで上位にランクインした。一方アメリカではBillboard 200で11位にとどまったものの、インディ系チャートでは上位に位置しており、セールスと批評が絶妙なバランスを保っている。単なるヒット作というより、2020年代のポップの方向性を示す作品として受け止められている点が特徴的だ。
※RAYE – ‘This Music May Contain Hope’ review: showstopping musical maximalism at its grandest. NME
評価の背景には、作品のスケールそのものがある。全17曲、約73分という長尺に加え、R&B、ジャズ、ポップ、さらには映画音楽的なオーケストレーションが複雑に絡み合う構造は、現行のチャートにおいては異例と言っていい。そう、『THIS MUSIC MAY CONTAIN HOPE.』は一度聴いただけでは把握しきれない構造を持っている。長く、多層的で、一部で錯綜してもいる。それにもかかわらず、多くのリスナーに受け入れられているのはなぜか。楽曲の即時性と単機能性を強めてきた現在のサブスク時代において、本作は一見、時代の流れに逆行しているように感じられるだろう。けれども、この逆説の中に、現在のポップの変化を読み解く鍵があるのではないか。
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自己定義=揺れ動く状態を提示したドキュメント
実際のところ、今作はリスニング体験としてヘヴィだ。冒頭の“Intro: Girl Under the Grey Cloud”から、自らが重く曇った状態の中にいるという状況が語られ、コンテクストと物語への没入が促される。その後楽曲群は、単体で機能するというよりも、アルバム全体の流れの中で意味を持つよう配置される。秋→冬→春→夏と四季になぞらえた構成はコンセプチュアルで、感情の変化そのものを時間軸として配置する設計にもなっている。
たとえばアルバム内でも特に印象的な“WHERE IS MY HUSBAND!”は、ユーモラスで戯画的な語り口とビッグバンド的アレンジが共存し、楽曲内部で複数のトーンが切り替わっていく。一方で“I Know You’re Hurting”は、近しい他者の痛みに寄り添う形を取りながらRAYE自身の脆さもにじませるバラードであり、声のニュアンスだけで感情の層を描き分ける。今作は、各楽曲でRAYE自身の感情の状態の推移を描いた、長編構造になっている。カロリーたっぷりで、あまりにも重厚な聴きごたえだ。
このような特異な作品が生み出された背景として、RAYE自身のキャリアの転換に触れないわけにはいかないだろう。彼女はメジャーレーベルのもとで長く活動してきたが、その過程では、自らの表現のコントロールに大変苦労してきた。リリースの決定権は自身になく、創作とビジネスのあいだには乖離が続いていたという。事実、表現の主導権を巡る葛藤があったことを、RAYEは複数のインタビューで告白している。けれども、その後インディペンデントへの移行が状況を一変させる。本作は、彼女が主体を奪還した後に初めて提示した、完全な自己定義の作品なのだ。誰の制約も受けず、自らの判断で構造を設計できるようになったことで、今作においては従来のポップフォーマットから逸脱していったのである。
その結果、本作においては、自己治療としての側面が整理されない感情と説明不足のままに展開される。たとえば、先の“WHERE IS MY HUSBAND!”でのトーンの切り替わりは、孤独や不安をそのまま傷として滲ませつつも、ユーモアや誇張の演出で包み込みながら提示している。このアルバムは各曲で、出来事を振り返って意味づけるのではなく、その時々の感情の揺れや矛盾がほぼ未整理のまま提示されるのだ。
終盤の“Happier Times Ahead”においても、タイトルが示すような前向きさは確かに感じられるが、それは断言されることなく、あくまで「そうなるかもしれない」という気配として提示されるにとどまっている。感情を整理して結論へと導くのではなく、揺れ動く状態のまま並べていくことで、ひとつの過程が可視化されていく。本作は失恋や自己不信の段階を通過するための手続き、すなわちひとつのフェーズを終えるためのドキュメントのような形で鳴っているのである。