統合失調症を発症した姉が、25年近く医療につながることなく家の中で暮らしていた——。映画『どうすればよかったか』は、映画監督・藤野知明が自身の家族の記録を通して、その時間を静かに見つめ直したドキュメンタリーだ。医師である両親はなぜ娘を病院に連れて行かなかったのか。家族のなかで何が起きていたのか。カメラを置き続けることで浮かび上がるのは、病や責任の所在ではなく、家族という閉じた関係の中で起きる沈黙や葛藤。映画の公開は大きな反響を呼び、このたび同名の書籍も刊行された。監督自身に、作品を作るまでの経緯と、その先に見えてきたことを聞いた。
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責任を追及するより事実を確かめたかった。
—ドキュメンタリー映画として異例の大ヒットとなり、このように本まで出版される流れになったことを、どのように受け止めていますか。
藤野:これまで何本か作品を撮ってきましたが、劇場公開までたどり着いたことは一度もありませんでした。ただ、今回は「山形国際ドキュメンタリー映画祭」で上映した直後に配給会社から連絡をいただいて。そこから、これまでとは違う流れになるかもしれないと感じました。
配給の方が「家族」というキーワードを前面に出してくれたことも、大きかったのかなと思います。多くの方に観てもらえたのは、その切り口のおかげかもしれません。ただ、僕自身は「家族」という切り口は持っていませんでした。

—家族ではなく、どこに主題を置いていたのでしょうか。
藤野:両親がなぜ姉から医療を遠ざけたのか。なぜ姉が一人で外出しないよう、家に南京錠をかけていたのか。その二点を追究したいという思いが強かったですね。責任を追及するというより、事実を確かめたいという意味での追究です。だから、この映画において姉を「主人公」として捉えていたわけでもありません。
いわゆる健常者の側から見れば、病気を抱えた人が問題の中心にいるように映るかもしれない。でも僕が焦点を当てたかったのは、姉が25年近く医療を受ける権利を奪われていたという事実です。もし別の分岐点があったなら、もっと違う結果が生まれていたのではないか——その可能性を考えたかったんです。

1966年、北海道札幌生まれ。北海道大学農学部林産学科を7年かけて卒業。横浜で住宅メーカーに営業として2年勤務したのち、日本映画学校映像科録音コースに入学。戦後補償を求めるサハリンの先住民ウィルタ、ニブフに関する短編ドキュメンタリー『サハリンからの声』の制作に参加。卒業後、2012年に家族の介護のために札幌に戻り、2013年に淺野由美子と「動画工房ぞうしま」を設立。主にマイノリティに対する人権侵害をテーマに映像制作を行なっている。
—作品が広がる中で、さまざまな感想も寄せられたと思います。印象に残っているものはありますか。
藤野:当時の精神医療の状況を知る精神科医の方から、「作中で父が言った『失敗したとは思っていない』という言葉は正しいと思う。そうお父様に伝えてほしい」という感想をもらいました。わからなんではないですけど、「はい、わかりました」という気持ちにはなれなかったですね。
—お母様は、お姉様の調子が悪そうなことを理解していながら、お父様に強く意見を言えないようにも見えました。研究者として自立している女性でもあるのに、なぜなのでしょうか。家庭の中で、お父様の独善的な強さのようなものがあったのでしょうか。
藤野:父は、映像に映っている通り、基本的には穏やかな人だったと思います。怒られた記憶もほとんどありません。小学生の頃、家には「勉強がどこまで進んだかを毎日父に報告する」というルールがあって。僕はほとんどやっていなかったのに、嘘をついて話をふくらませていたんです。だんだん辻褄が合わなくなって——姉には「雪だるま式だね」なんて言われていましたが、結局それが父にばれてしまって。そのときだけは怒られました。僕の本やノートを床に投げつけて。一番怒ってもそれくらいで、暴力はありませんでした。だから、恐怖で母が発言できなかった、というわけではなかったと思います。
一緒に暮らしていても、母の頭の中が見えていたわけではないので本当のことはわかりませんが、父は穏やかに人の話を聞くように見えて、絶対に考えを曲げない人だから、母は「言っても無駄だ」と思って、諦めてしまっていたのかもしれません。
父は子供の頃に大腸カタルで死にかけたことがあるし、母との結婚前に母が結核で大量に吐血したそうですが、手術で乗り切って結婚したそうです。人生には山も谷もあったでしょうけど、それを乗り越えてきたという自負があった。だから姉のことも、「我慢して耐えていれば、いずれ解決する」と考えてしまったのかもしれません。
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どんな雑談でもいいから、言葉を交わすこと自体が大事なんじゃないか。
—ご両親が医師であることに、プレッシャーを感じたことはありましたか?
藤野:勉強の進度を報告しなくてはいけないというルールがあったように、勉強しなくてはいけないというプレッシャーは常にありました。でも、「医者になりなさい」と言われたことは一度もないんです。それは姉も同じだったと思います。ただ、言われなくても感じていたのかもしれません。僕は割といい加減な人間なんですが、姉はすごく真面目で、周囲の空気を読むところがありましたから。

—お姉さんはお父様に憧れていた部分もあったのでしょうか。
藤野:すごくあったと思います。父は理論を作るのが好きな人で、父と姉が試行錯誤してまとめた勉強法のファイルを僕たちに渡していたんです。ノートに4本線を引かないといけないとか、作業が多くて苦痛でしたが、姉はそれに従って懸命に勉強していました。大学4年の頃、両親の言いなりになっていた自分と決別した時、過去の写真と一緒に、そのファイルも捨ててしまうことになるんですが。あと、表面的なことを言えば、若い頃の父は見た目も結構かっこいいんですよ。石坂浩二さんにどこか似ていて。両親が新婚旅行に行ったとき、二人の横顔を切り絵にしてくれたものがあって、それが家に残っていたんですが、姉はそれを自分の部屋に貼っていました。
—監督の言葉の端々から、お姉様への深い思いを感じます。本にも書かれていましたが、お姉様ががんになった後は、行きたい場所に一緒に出かけ、楽しい時間を過ごすことを大切にしていたそうですね。なぜそこまでお姉様と向き合えたのでしょうか。
藤野:愛情と言われると、僕には少しピンと来ないんですが、自分がこう扱ってほしいと思うことは、姉にもすべきだという意識は常にありました。それに、姉の精神状態が悪くなってからは家の中でも喧嘩が増えて、両親も姉に「あれをしろ、これをしろ」と指示ばかりになってしまって、会話がなくなっていったんです。どんな雑談でもいいから、言葉を交わすこと自体が大事なんじゃないかと思っていました。

—自分がしてほしいことを相手にもする、というのは簡単なようで難しいことですよね。
藤野:僕も、いつもできていたわけではありません。姉と暮らしていた頃は、夜になると自分の部屋の鍵をかけていましたから。いつも優しくいられるわけではないんです。姉が僕の悪口ばかり言ってくると、「勘弁してくれ」と思うこともありました。
一時期は心が折れてしまって、この先自分の人生は良くならないんじゃないかと、かなり悲観的になっていた時期はありました。
藤野:台所で洗いものをしているときだったと思うんですが、ぽろぽろと不安な思いを口にしてしまったことがあったんです。それを聞いていた父が飛んできて、「そんなことはない」となだめてくれました。父の超ポジティブ思考のおかげで、その時は平静を取り戻すことができました。
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家族にまでケアが届くようになるのが一番いい。
—お姉さんが精神に不調をきたしているのにも関わらず、ご両親は病院に連れて行かなかった。その現実に、大学時代の監督自身も精神的に塞ぎ込んでしまった時期があったそうですね。
藤野:病気を抱えている当事者が一番大変なのはもちろんですが、周りの家族もまた別の大変さを抱えています。家族だけでは立ち行かなくなることもあると思うので、その家族にまでケアが届くようになるといいと思います。
家族って、「大丈夫ですか?」と聞かれるとつい、「大丈夫です。困っていません」と答えてしまうんです。私も両親もそうでした。
—他人に家庭の事情を聞かれたくないという心理が働くのでしょうか。
藤野:それもあると思いますが、姉が統合失調症かどうかが私にはわからなかったので、外の人に相談するのは勇気がいりました。
—当時、外部の人が家族にケアをしてくれるような環境があれば、状況は変わっていたと思いますか。
藤野:そうですね。僕に対してというより、両親への働きかけがほとんどなかったんです。親戚も、姉の精神状態が良くないことには気づいていましたが、声をかけられない雰囲気だった。もし両親に対して有効な働きかけがあれば、状況は変わっていたかもしれません。僕が通っていたカウンセラーを通じてでも、そうしたケアが届いていれば、医療につながっていればと思うと、やはり悔いは残ります。

—ご両親には、お姉様のことだけでなく、日々の愚痴のようなことを話せる友人はいたのでしょうか。
藤野:うーん、職場以外の知り合いはあまりいなかったように思います。生活の中心が仕事になっていたんじゃないかなと。それに、周りが医療関係者ばかりだったので、かえって相談しづらかったのかもしれません。情報が広がってしまうことを心配したのかもしれません。
—監督自身は、大学時代に精神的に塞ぎ込んだ時期を経て、家族から少し距離を取るため神奈川の住宅メーカーに就職されます。その後、再び実家に戻りますが、家族の問題に正面から向き合おうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
藤野:いずれは向き合わなければいけない、という思いはずっと頭の片隅にありました。ただ、まずは経済的に自立することが大事だと思って就職したんです。でもサラリーマンというか営業の仕事が自分には向いていなくて、2年で辞めてしまいました。もしその仕事が合っていたら、また違う人生になっていたかもしれません。
心から笑える環境ではなくて、限界を感じて辞め、その後は映像の専門学校に通いました。他人と同じ人生は無いと気づいていましたから、好きなことをしないともたないと感じていたんでしょうね。卒業後、3年は忙しくてあまり家には戻れませんでした。2001年から家でビデオ記録を始め、両親にこれまでの経緯について聞くようになりました。実家に戻ったのは2012年です。それまでは一時的な帰省でした。向き合って毎日両親と喧嘩するくらいなら、距離をとるため逃げることも必要だと思います。無理して暴力に発展する方が問題だと思います。
その間にも、姉が突然ニューヨークに行ってしまうなど、大変な出来事がいくつも起きていた。でも両親は、そのことを一度も僕に連絡してこなかったんです。不思議ですよね。もし急に両親が亡くなって、何も知らないまま僕にバトンが渡されることになったら、どうするつもりだったんだろう、と今でも思います。