今年デビュー25周年を迎えたSUGIURUMNが7年ぶりのアルバム『SOMEONE IS DANCING SOMEWHERE』を完成させた。1990年代前半のインディーロックの時代からはもう30年以上、僕が彼と深く付き合うようになった2001年からでも25年近くが経っている。彼の歩んだ道は1990年代ヨーロッパのダンスカルチャーと密接にリンクしてきた。数年ごとに大きなトピックが生まれるシーンに影響されながら抜群の行動力で自分が信じた音楽だけを追いかけ、振り返れば30年以上にわたる軌跡が彼の背後に続いている。誰も彼のようには生きられないが、彼自身もまだ何者でもない。
アルバムを制作するプロジェクトはちょうど1年前にスタートした。コロナで全てが停滞した時期にファンションデザイナー宮下貴裕のTAKAHIRO MIYASHITA The Soloist.のコレクションのサウンドトラックや、劇作家 / 演出家である川村毅作、演出の同名舞台の劇伴を作ることでダンスビートという枠を取り払い、自由に音楽を作ったことが大きなきっかけとなっている。1年間、1曲づつ曲が仕上がるにつれ、徐々にダンスビートが増えてきたのも彼らしい素直さの表れだろう。今回のインタビューではDJとしてのSUGIURUMNの歩みに焦点を合わせ、1990年代後半の初期から2000年代の海外での活躍について話を聞いてみた。
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バンドマン・杉浦英治がSUGIURUMNへ
ーSUGIURUMNとしてデビューして今年で25周年だね。ソロとして活動するにあたってダンスミュージックをやろうと思ったのはどうして?
杉浦:これはいろんなところでも話してるんだけど、Electric Glass Balloonの終わり頃はバンドのメンバーともうまくいかなくなっていて。それで解散しようと思ったんだけど、レーベルとの契約が後1枚残っていて、レーベルの担当がどうするっていうから、ソロで作りたいって言ったんだよね。俺はバンドってみんなで曲を作るものだと今でも思っているんだけど、その当時は自分の曲でもバンドで作ると思い通りにならないことが多くて。メンバーに良くないって言われても、これは違うんだよなーって思う気持ちもあって、一度全部自分で思い通りに作ってみたかったんだよね。もうその時何歳だったかな?
ー1998年あたりだよね?
杉浦:そう、28歳あたり。その時には、もう音楽もこれぐらいでいいかな、みたいに思って。そんなに長くやるつもりもなくて。それでバンドでボツになった曲も、自分のやりたいサウンドで完成させようと思って。Electric Glass Balloonで初期のシングルのプロデューサーが福富(幸宏)さんだったんだけど、福富さんがスタジオにMacとサンプラーとシンセを持ってきてて、俺はそれがすごく面白いと思ったんだよね。それで俺もすぐにColor ClassicのMacとAKAIのサンプラーS2800とローランドのSOUNDCAMBUS合わせて100万円を36回払いのローンで買って、ソフトはDigital Performerで福富さんに全部教えてもらって。22歳ぐらいだったかな。それに4チャンネルのカセットMTRでSpacemen 3の真似事みたいなデモをいっぱい作って。バンドには合いそうもないタイプの曲なんかもあって、そういう感覚だけで作ってみたのがSUGIURUMNとしての1stアルバム『Life is serious but art is fun』で。だから最初は特にダンスミュージックということでもなくて。
ー1998年ぐらいならインディーロックのイベントでもダンスミュージックもかかってたよね。杉浦くんもダンスミュージックを聴いてたでしょ?
杉浦:そうだね。その頃三宿のWEBで曽我部(恵一)とかとやっていた『VEGAS』っていうイベントでも自分のDJはハウス中心になってた。
ー『VEGAS』は何年ぐらいからやってたの?
杉浦:1997年ぐらいかな。その前にN.G.THREE、NORTHERN BRIGHTの新井(仁)くんとCLUB QUEで『INDIE 500』っていうイベントをはじめて、そこにキンちゃん(鈴木“KINK”均)も合流して。最初は本当にインディー系のロックイベントで、そこから『VEGAS』になる頃にはダンスミュージックが中心になっていったんだと思う。ビッグビートはその頃でしょ?
ーそうだね、The Chemical Brothersの1stが1995年で2ndが1997年だから。
杉浦:そうだね、1997年ぐらいからDJの時もハウス中心になっていった。みんなが知ってる曲じゃないと盛り上がらない、当時のロックイベント特有のノリにちょっと飽きてきたのもあって。
ーブリットポップが特にそういう傾向が強かったね。
杉浦:それでビッグビートにハマって、そこからどんどんハウスになっていって。
ービッグビートでもハウスでも当時好きだった曲をいくつか教えてもらえる?
杉浦:全部ここにあるんだけど(自宅のレコード棚を指して)、俺ほんと昔のこと覚えてないんだよ(笑)。Propellerheadsとか好きだったし、レーベルだとWALL OF SOUNDのリリースはどれも良かった。ビッグビートもサンプルの使い方がThe Chemical Brothersほど完成されてないやつが好きで。ハウスだと何かなー、Full Intentionとかかな?
ーアーマンド・ヴァン・ヘルデンは?
杉浦:あんまり好きじゃない。
ーじゃあMasters at Workとか?
杉浦:マスターがつく他のユニット……
ーThe Beatmastersね!
杉浦:そう!
ーなんでこういうことを聞くかというと、SUGIURUMNの1stが出た頃の時代の空気を思い出したいんだよ。俺はその時期もうトランスのパーティーのど真ん中にいて、杉浦くんがいた場所とも違ってたし。杉浦くんはインディーロックのDJイベントがビッグビートからハウスやテクノに流れていく変化の中にいたでしょう。2000年ぐらいからはわかるんだけど、1990年代後半は本当にわからないから。
杉浦:そうだね、俺はそこから外に出たかったから青山 Maniac Loveの『MACINEGUN』(Capten Funk主催のイベント)に呼ばれたときはすごく嬉しかった。
ーお客としてパーティーに行ったりしてた?
杉浦:行ってたよ、リキッドルームの『Club Venus』とか。みんな水しか飲んでなくてビビった(笑)。それとそこではじめてVJを見たんだよね。お客さんの熱気もすごくて、これはもうとんでもないことが起きてるって思って。お客さんも外国人も多いし、いろんな人がいることに驚いた。でもそういうこと以外は全く覚えてない(笑)。色々語れる人が羨ましい、俺本当に覚えてないんだよ。
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本場イビサの衝撃
ー1stは自分の最初のソロという意味合いだけど、それ以降は完全にダンスミュージックだよね?
杉浦:完全にそうですね。
ーそれは自然とそうなっていったの?
杉浦:自然というよりも意識してそうさせたって感じ。1990年代後半の俺がいたシーンって、盛り下がってきて、こういうとちょっと角がたつかもしれないけど、なんか傷を舐め合うみたいなところがあって、俺はそういうのが嫌だったかな。もっとかっこいいことをやってるつもりだったし。インディーロックのほうはパーティーって言わずにイベントって言ってたけど、もう自分はハウスのパーティーでしかDJをやらないって決めて、ロックのDJイベントは断るようにして。だから2000年以降からはもう完全にハウス。もちろん最初は全然オファーとかもないんだけど(笑)。知り合いもほとんどいなかったし、それでもこれでいくって決めて。特に2000年にイビサに行ってからは明確にそう思った。
ー最初のイビサは2000年なんだね。なんで行こうと思ったの?
杉浦:ちょうど2ndアルバムの『MUSIC IS THE KEY OF LIFE』を作ってる頃で、普通に最新のハウスもチェックするようになっていたんだけど、そういうトラックと自分の作るものが何か違うぞと思って。何かが欠けてるというか、足りないというか。それでいっそ本場の現場を見に行こうと思ってね。当時はみんなイビザって言ってたよね(笑)。もう25年も前なんだ。
ーちょうどピート・ヘラーの“BIG LOVE”が大ヒットしてた頃。
杉浦:そう、The Chemical Brothersが『Surrender』(1999年)出した後、Fatboy Slimが『Halfway Between The Guitar And The Stars』(2000年)、Daft Punkの『Discovery』(2001年)あたりじゃないかな。それってMy Bloody Valentineの『Loveless』とPrimal Screamの『Screamadelica』とTEENAGE FANCLUBの『Bandwagonesque』が同じ年(1991年)に出たみたいな感覚と同じだったんだよね。ちょうどミレニアムで新しい時代がはじまるような期待感もあって。
ーイビザではどんなパーティーに行ったの?
杉浦:毎日パーティーに行ったけど、いちばん凄かったのはエリック・モリロの『Subliminal Sessions』でDJがモリロとDeep Dishとダレン・エマーソン。いまでも人生のベストパーティーだったと思う。
ークラブはパチャ?
杉浦:その時はアムネシアだった。そこでX-PRESS 2の“AC/DC”を聴いたんだよ。イビサの帰りにロンドンに寄って、レコード屋であのフレーズ歌って「この曲のレコードある?」って聞いたらまだリリース前でプロモ盤が買えたんだよ(笑)。
ー俺も1998年にアムネシアで『Cream』のクロージングのポール・オークンフォールドで衝撃を受けて、人間って音楽でここまで狂えるのかって(笑)。
杉浦:2000年前半の『Cream』は凄かったですよね。
ー俺たちが話をするようになったのが2001年だね。
杉浦:そうですね、俺もイビサの話できる友達もいなかったし、その時期は日本の雑誌にも一切情報がなかったですもんね。それでイビサから帰ってきて人伝に電話番号を聞いてEMMAさんに電話したんですよ。本気でやってるから俺のトラック聴いてほしいって、EMMAさんのレーベルのNITELIST MUSICから出してほしいって言ったんだよね。
ーすごいね、完全に自分の嗅覚だけでたどり着いてるんだね。
杉浦:そうだね、1990年代に一緒にいた仲間にもわかってくれる人はひとりもいなかったし。イビサから帰ってきて渋谷のCISCOに行ってもハウスはニューヨークものが中心で、ヨーロッパのハウスがあんまりなくて。だからそれ以降イビサに行くとレコード死ぬほど買って帰ってくるようになった(笑)。特にその頃日本に入ってきにくいトライバルなやつなんかはDJをやる上での礎になったと思う。
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イビサのトップクラブにDJとして呼ばれるように
ーそこから“Star Baby”まで一気に突き進むよね。
杉浦:そうだね、最初のイビサの後もう1枚荒木飛呂彦先生にジャケットを描いてもらった『Life Ground Music』が出て、クラウンに移籍して。
ー俺たちがイビサで一緒になったのが2003年で、この辺りから杉浦くんは毎年行ってるよね?
杉浦:行ってますね。
ーイビサで見たパーティードレスの熱気と日本のパーティーとのギャップは感じなかった?
杉浦:感じましたけど、日本もそれまでとは違う熱気が生まれていて、振り返れば今よりはよっぽど熱かった。それとまだみんなターンテーブルとレコードだったでしょ。Shazamもないから、この曲なんだ!? っていうのがフロア全体にダイレクトに伝ってきて。この前千葉の『GROOVETUBE FES』で瀧見(憲司)さんがほとんどShazamにない曲ばっかりでプレイしていて、今でもこれができるんだって思った。あの感覚が久しぶりで痺れた(笑)。
ー2007年には『WHAT TIME IS SUMMER OF LOVE?』が出て、自分のレジデントパーティーもはじまり、シーンでも認められて、ミックスCDも毎年出るようになったよね。
杉浦:自分のパーティー『HOUSE BEAT』をやる前に、レギュラーでやりはじめたのはclubasiaの『VIVARA』だったんだけど、外にものすごい行列ができるぐらい成功して。
ーその頃のフロアアンセムはなんだっか覚えてる?
杉浦:全く覚えてないんだよね、振り返らないタイプだし(笑)。でもあの時期ぐらいまでジャンル超えたヒットってあったよね。
ーあった! Dj Rolandoの“Knight of the Jaguar”なんかはテクノでもハウスでもそれこそトランスのパーティーでもかかることがあったね。
杉浦:そういうものがある時期を境になくなったよね。DJもCDJが主流になるタイミングかな。俺が最初にパチャでDJやったのが2007年ぐらいだと思うんだけど、ターンテーブル使うって言ったら驚かれて、倉庫から埃まみれのターンテーブル出してきた(笑)。実際やりはじめたらクラブのオーナーとかマネージャーがブースに来てやっぱりレコードは音がいいって盛り上がって。
ーさすがにイビサのトップクラブでのDJはすごいことだね。あれはどういう経緯だったの?
杉浦:“Star Baby”のAxwellのリミックスがスペインのダンスチャートで1位になって、それがきっかけで。それから3年連続でやって、パチャのスタッフがいろんなとこに連れて行ってくれてエジプトでもやったり。
ーその時期にいちばん盛り上がった曲は?
杉浦:全く覚えてない(笑)。
ー覚えてなさすぎ(笑)。
杉浦:自分の曲や古い曲はあまりかけずに新しい曲中心でやってたから。
ーでも毎年どのパーティーでも絶対かかってる曲が10曲ぐらいあるじゃない、そういうのも覚えてない?
杉浦:X-PRESS 2の“AC/DC”とかDEEP DISHの“Flashdance”みたいな強烈なやつは覚えてるけど、あとは全く。聴けばわかるけど。
ーあー、あのブレイクでドライアイスのスモークがバシャーってでるタイプ(笑)。
杉浦:あとDJとフロアの駆け引きがめちゃ面白かったでしょ。DEEP DISHが“Flashdance”の前半だけかけて別の曲になったり、“AC/DC”のブレイク出さないでひっぱったり(笑)。あれでフロアが狂いそうになるのが最高だった。パチャみたいなクラブだとそういう駆け引きが成立してたよね。オーディエンスもリリース前の曲でも知ってたり。ブースも階段の途中にあって高級クルーザーのコックピットみたいで。フロアの最高に盛り上がる場所からDJブースが見えなくて、完全にオーディエンスが主役って感じが最高だった。