2026年最大の話題作と言える映画『オデュッセイア』がいよいよ日本公開となった。
クリストファー・ノーラン監督は古代ギリシャの叙事詩を、単なるファンタジックな英雄活劇としてではなく、戦争の悲劇性や周縁化された女性を照射しながら展開される172分の重厚なエンターテインメント作品に仕上げた。
映画批評家 / 表象文化論研究者の大久保清朗が、ノーランのフィルモグラフィとの連続性や、原典との対比を踏まえつつ、同作を読み解く。
※本記事は、ラストカットを含めた映画本編の内容に関して詳述しています。あらかじめご了承下さい。
INDEX
ノーランらしい「断片の提示」と「暗さ」
馬の巨像が海辺に擱座(かくざ)している。少し離れたところに腰をおろし、何かを待ち受ける青年。やおら彼方から騎士団が姿を現す。それを見るや彼は立ち、巨像にいっさんに駆け寄る。騎馬兵が槍を放つ。青年の胴を貫く。続けて投擲された槍が、今度は彼の片腕に命中、その生き身を馬像の腹に縫いこませる。クリストファー・ノーラン『オデュッセイア』は、一人の青年のむごたらしい最期から語り始められる。
ノーラン映画の例にもれず、今回の幕開けも唐突だ。私たちは映像の断片から巨大な図絵を完成させていかなければならない。最初のピースとして、私たちが手にするのは、この兵士の挿話だ。彼の名はシノン。演じるのはエリオット・ペイジだが、ペイジはかつてクリストファー・ノーラン『インセプション』に出演していたとき夢の設計士を演じていた。ペイジの出番は決して長くはないが、その存在はある意味で『オデュッセイア』の要となっている。

ホメロス『オデュッセイア』の語りを「均一な照明」と評したのは『ミメーシス』のエーリッヒ・アウエルバッハ(※1)である。乞食姿で帰還したオデュッセウスが、家の老女に足を洗われているとき(昔の歓待の習わしだった)、足の傷で彼女に正体を知られてしまう「足洗い」。今作でも描かれる名高い場面だ。場面がどれほど緊迫していても、人や事物が「くっきりと輪郭づけられ、均一に明るい照明を与えられ」ているのが『オデュッセイア』の世界だとアウエルバッハはいう。「登場人物の感情も想念も、興奮のさなかにおいてさえも整然としていて、劣らず明確に表現しつくされている」(※2)。
※1:(編注)エーリッヒ・アウエルバッハはドイツの文献学者 / 文学批評家(1892〜1957年)。その主著『ミメーシス』(1946年)で、ホメロス(紀元前)から20世紀の作家まで、ヨーロッパ文学史における表現の変遷を論じた。
※2:エーリッヒ・アウエルバッハ『ミメーシス』上、篠田一士、川村二郎訳、ちくま学芸文庫、1994年、18p
ホメロスの均一な明るさに対して、ノーランの『オデュッセイア』は字義的にも比喩的にも暗い。撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマによる画面の陰翳は深く、語りはいくつもの回想によって中断され、見通しがきかない。これはむしろアウエルバッハが対比する旧約聖書の世界に近い。キュクロプスの洞窟やトロイアの夜襲の場面(※)など、画面はほとんど真っ暗闇だ。記憶喪失状態にあるオデュッセウスの視点から語られる回想は物語に死角が多い。
※(編注)ともに本作でも描かれる『オデュッセイア』の著名なエピソード

INDEX
時間の層が重なりあっていく展開
『オデュッセイア』は、いくつものプロットがもつれ合いながら展開していく。話が複雑化しているというより、語られる時間の層が重なりあっていくという感覚に近い。時間の多層化は、『インセプション』、『インターステラー』、『ダンケルク』を見てきた者からすればなじみ深い(※)。
※以下の拙論を参照。「夢の索引、あるいはクリストファー・ノーランの映画的時間――『インセプション』『インターステラー』『ダンケルク』を中心に」、河出書房新社編集部編『クリストファー・ノーラン 増補新版』河出書房新社、2024年、138〜139p
雄渾に描かれるのはオデュッセウスとテレマコス親子の復讐譚だ。島国イタケの国王オデュッセウス(マット・デイモン)が、戦に赴いたまま消息がわからなくなっている。そのまま20年の歳月が過ぎる。王の不在に乗じて王妃ペネロペ(アン・ハサウェイ)に求婚し、次の王座に座ろうとする者たちの横暴に業を煮やした王子テレマコス(トム・ホランド)は、父の消息を求めて遠国のスパルタに赴き、その国王メネラオス(ジョーン・バーンサル)にトロイア戦争での父の活躍を聞く。そして、同じころに海の女神カリュプソ(シャーリーズ・セロン)の計らいでイタケに帰還したオデュッセウスと再会し、忠実な豚飼いエウマイオス(ジョン・レグイザモの好演!)の加勢を得てアンティノオス(ロバート・パティンソン)を首領とする求婚者たちを皆殺しにする。これがとりあえず映画の「現在」である。
それと同時に、オデュッセウスの視点から、トロイア戦争後、総大将アガメムノン(ベニー・サフディ)やその他のギリシャ連合と袂を分かったオデュッセウスとその家臣たちの漂流譚が時間をかけて語られる。オデュッセウスはカリュプソに助けられたまま、記憶喪失のまま逗留しているが、徐々に記憶が回復し、ここに漂着した経緯を思い出す。その回想が「過去」の時間をなす。
しかしさらに別の時間が流れている。帰還に先立つ物語、すなわちトロイア陥落である。映画ではこれはさらに前半と後半に分割されて語られる。まずいわゆる「トロイの木馬」の物語(※)で、ギリシャ兵たちがトロイアを内側から開城させるまで。このくだりはメネラオスからテレマコスに向けて輝かしい武勲として再現される。
※「トロイの木馬」の物語:(編注)贈り物と称した巨大な木馬像の中に兵士が忍び込み、城内に入り込んで奇襲を行い、都市を陥落させたエピソード。転じてマルウェアの一種を指して用いられるようになった。
INDEX
戦いの悲劇性。『オッペンハイマー』とつながる問題系
後半部、オデュッセウスの視点から再現されるのは、その栄光の裏面である。そこでは破壊と虐殺が強調される。すべては帰還のためなされた決断である。しかしその決断が帰還すべき自らの世界を失わせる結果を招いてしまったのではないか。
本作において、トロイア陥落で物語られるのはオデュッセウスの知能でも、ギリシャの野蛮でもない。人類の歴史全体が、破局に向けて後戻りできない段階に踏みだしてしまった悲劇性である。古きよき秩序が葬りさられ、新秩序という名の混沌が幕を開ける。それは美徳なき合理性の世界、手段が目的を正当化し、権益が正義を捏造する世界である。

トロイア陥落は中井久夫(※1)がいう「踏み越え」=トランスグレッションの物語といえるかもしれない。トランスグレッションは、人が犯罪や攻撃へと移行することを指すが、中井は特に現代の戦争を念頭に置いている(※2)。トロイア陥落は、この映画の中では、一見すると「過去の過去」ではある。しかしノーランはこれを、『オッペンハイマー』の問題系とつなげることで、現代へと接続する。
※1 中井久夫:(編注)統合失調症やPTSDの研究で知られる精神科医(1934〜2022年)
※2:中井久夫「「踏み越え」について」、『統合失調症とトラウマ 中井久夫集8 2002-2004』みすず書房、2018年、138〜165p
こうして『オデュッセイア』における「過去の過去」として語られたトロイア陥落は「未来」、つまり私たちの時代に反転する。トランスグレッションの観点からすれば、トロイア陥落は原爆投下に等しい出来事なのである。ノーランは、未来人が世界を破壊しようとする『テネット』で、詩人T・S・エリオットの『四つの四重奏曲』を引用している(※)。その第1篇「バーント・ノートン」は、「現在の時間と過去の時間は、おそらくともに未来の時間の中に存在し、そして未来の時間もまた、過去の時間の中に含まれている」という詩句から始まる。トロイアのトランスグレッションは「未来の時間」として含まれていく。
※町山智浩「ノーランの図書館 迷宮のボルヘス」、『クリストファー・ノーラン 増補新版』157〜158p
INDEX
反英雄としてのオデュッセウスと、女性たちの沈黙の叫び
未来を含んだ叙事詩という点からみれば、この映画を『ダークナイト』3部作などノーランのSF映画の系譜に置き直すこともできるだろう。実際のところ、ノーランの『オデュッセイア』を特徴づけるのは「暗さ」とともに「黒さ」である。予告篇であらかじめ予告されていたが、オデュッセウスたちが率いるギリシャ勢の戦士の鎧は薄汚れている。なかでも総大将アガメムノンの金の兜飾りをつけた漆黒の兜は異形といっていい。『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーにも見えるが、比較としてはやはりバットマンとの類似を指摘するべきだろう。

これに対して敵対するトロイア軍は白い。映画の冒頭、そしてトロイア城内での戦闘においても彼らの鎧は全身白く、彼らが乗るのもことごとく白馬である。彼らはギリシャ軍の闇討ちによって、ほとんど抗戦の機会も与えられないまま、次々に斃れていく。しかし映画において不気味なのは、この直後にライストリュゴネス族からの悲惨な逃走の挿話が置かれていることである。
ライストリュゴネス族(巨人族で、人間の約2倍の大きさがある)は霧のなかから亡霊のように出現する。そしてその白銀の甲冑は先ほど目にしたばかりのトロイア兵のそれによく似ている。トロイアでの虐殺は来るべき災厄へと姿を変えてギリシャ兵に逆襲する。過去と未来とがねじれたかたちで接続されている。武勲が恥辱へと裏返る。
ここでゼンデイヤが演じている女神アテナの意味も自ずと明らかになるように思う。彼女はいつも白装束でオデュッセウスのもとに現れる。ホメロスの原典では、オデュッセウスの守護神として帰還を手助けする。しかし映画では良心の擬人化となって、彼の行為の正当性に疑問を呈する。こうした改変と、ゼンデイヤが演じている正体が明らかとなるとき、ノーランによるオデュッセウスのユニークさがさらに際立つことになる。

アテナをはじめとして、『オデュッセイア』は女性たちの沈黙の叫びに満たされている。これは本作の顕著な特徴である。ノーランはそのために、ホメロスの原典以外にトロイア遠征にまつわるエピソードをギリシャ悲劇から借用している。オデュッセウスは冥府で、ギリシャの総大将アガメムノンの霊から、彼が帰国後に妻クリュタイムネストラ(ルピタ・ニョンゴ)とその愛人の奸計によって殺害された物語を聞く。ここまではホメロスでも語られている。だがその遠因となったイピゲネイアの人身御供の悲劇を追加する。アガメムノンとクリュタイムネストラの娘イピゲネイアは、神の怒りを静めるために犠牲とされた。この次第は、エウリピデスの『アウリスのイーピゲネイア』(※)などから取られているのだろう。アガメムノンに抱きかかえられながら泣き叫ぶイピゲネイアはほんの一瞬登場するが、やはり彼女の声は聞こえない。
※(編注)『アウリスのイーピゲネイア』は紀元前5世紀に書かれたギリシャ悲劇。エウリピデスはその著者
川島重成(※1)はクリュタイムネストラの殺害を、トロイア戦争の正義を疑う女性の立場からの抗議ととらえ、「世界最初のフェミニストの主張」と見なす(※2)。しかしノーランの映画はそこまで強い主張を担わせていない。むしろ、ルピタ・ニョンゴがヘレネとクリュタイムネストラを一人二役で演じていることは、トロイア戦争の始まりと終わりを象徴しているのかもしれない。それよりも堂々と抗議するのは、アン・ハサウェイが演じるペネロペであろう。夫の帰還を待ちつづける彼女は受動的な存在に思える。だがペネロペは、息子に向かって「20年もこの国を治めてきたのは誰だと思っているのか」と激しく反論する。『オッペンハイマー』で、夫からかえりみられずアルコール依存症になりかけるキティ(エミリー・ブラント)が思い出される。だがそれらが然るべき聞き手に届いているのかは曖昧である。
※1 川島重成:(編注)ギリシャ文学を専門とする西洋古典学者(1938年〜)
※2:川島重成『ギリシア悲劇――神々と人間、愛と死』講談社学術文庫、1999年、18p

INDEX
デザプランティサージュ=価値体系からの脱却の物語
しかし聞くことの難しさと恐ろしさを知っているのはオデュッセウスその人だ。「神の語ることは分かりづらい」という台詞を彼は2度繰り返す。そして帆柱に縛られてセイレーン(※)の歌を聴いて泣き叫ぶ場面は、周囲の音がかき消され、ルドヴィグ・ゴランソンのスコアによる幽かな笛の音が響きわたる。この悲しい旋律は、エンドクレジットで再び流れる。霧の向こうに、朧気に人影が見える。彼女たちが何を歌っているのかはおろか、その顔すら分からない。ただ私たちは、涙を流して叫ぶマット・デイモンのクローズアップを見つづける。マストに縛りつけられた彼の姿は、馬の像に縫い込まれたシノンの姿を思い起こさせる。そして彼の沈黙の叫びは、あのクリュタイムネストラに重なる。
※セイレーン:(編注)美しい歌声で、航海する人を惑わして遭難させる、海の怪異。昨今『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』にも登場し話題となったが、原典はギリシャ神話。「サイレン」の語源でもある。
ここではある意味でオデュッセウスが「女性」となる。つまり作中に登場し、声を奪われたまま死んでいったイピゲネイアや、アテナとなって彼のもとに現れるトロイアの王女、そうした女性たちの依代となり同化していく。自らの卑小さを徹底的に味わわされるという意味でこれは絶望的体験だが、それを通じてオデュッセウスは初めてイタケに帰還し、ペネロペの労苦とトロイア陥落の残虐を理解することができたともいえる。
冒頭で絶命するシノンもまた「女性」の一人だ。ここでシノンを演じるエリオット・ペイジ自身の来歴は、関係ないとは言いきれないと思う。ペイジのキャスティングはおそらく彼のトランス男性としての来歴(それを鑑賞者も知っていること)を考慮してのものであり、ここではその意味の重さを十分に受けとめるべきだろう。シノンは「トロイの木馬」作戦を知らされておらず、その意味で他のギリシャ兵(男性)から区別されている。しかしその排除が、彼を名もなき存在のなかからほとんど唯一、名前を持つ人物にしている。この映画でオデュッセウスの部下たちは次々と命を落とすが、そうしたなかでシノンは黄泉の国から一時的に甦り、オデュッセウスから裏切られたことを抗議する。オデュッセウスがイタケに帰還したとき、最初、自らをシノンと名乗っていることを思い出そう。彼はシノンの死を引き受ける。そして、シノンを通して「女性」化している。

ホメロス『オデュッセイア』についての優れた入門書を記した西村賀子は、同著でオデュッセウスの物語について、ヴォルテールの『カンディード』を論じた水林章の造語を援用し、「デザプランティサージュ」の体験であると述べている。デザプランティサージュとは、「習得したことを忘れること、身につけた知識を失うこと」を意味する(※)。武器から知恵へ、戦争から平和へ、古い知を捨て去り新たな知を獲得していく。オデュッセウスは紆余曲折を経ながらも、こうして既存の価値体系からの脱却を試みるという。
※西村賀子『ホメロス『オデュッセイア』――〈戦争〉を後にした英雄の歌』岩波書店、2012年、202p。また言及されている水林章の本は『『カンディード』――〈戦争〉を前にした青年』みすず書房、2005年。
とはいえ人類規模の悲劇性を描いている今回のノーラン版において、デザプランティサージュという経験は果たして今なお有効だろうか。映画『オデュッセイア』は、デザプランティサージュの精神を継承している点で忠実である。だが映画はそれをジェンダー的にさらに過激に組み換えてみせる。ここでのデザプランティサージュで要請されているのは「男性」から「女性」への転換なのかもしれない。
映画はオデュッセウスとペネロペの冥府への旅立ちで終わる。夕陽に向けて出帆する姿は希望的なイメージであるが、オデュッセウスはそれを「追放」であると称した。すなわち、帰還という目的は幻影であった。終わりと思われた地点は始まりに過ぎなかった。希望があるとすれば、それが本当の終わり(破局)が到来していないというだけのことにすぎない——ということだ。映画の結末は決して甘くない。
『オデュッセイア』

9月11日(金)全国ロードショー
2D(字幕 / 吹替)、IMAX®(字幕)、Dolby Cinema®(字幕)、4DX(字幕 / 吹替)、MX4D®(字幕 / 吹替)、35mm(字幕)の全6種9バージョンにて公開
監督・脚本:クリストファー・ノーラン
出演:マット・デイモン、トム・ホランド、アン・ハサウェイ、ロバート・パティンソン、ルピタ・ニョンゴ、サマンサ・モートン、ゼンデイヤ、シャーリーズ・セロン
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
© 2026 UNIVERSAL STUDIOS