2021年に発表され、多くの人に衝撃を与えた藤本タツキの漫画『ルックバック』が、是枝裕和監督の手で実写映画となった。
漫画表現が残した「余白」を、是枝監督はどう「埋めた」のか?
アニメーションでも漫画でもない、実写映画という表現手法がもたらした独自の「重み」や「豊かさ」を紐解く。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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身体的重みが宿るファーストカットと、2人の共作の始まり

女の子がひとり、窓に面した机に向かっている。コッコッコッコッコッ。少し丸まった背中越しに、鉛筆かシャープペンシルの乾いた音が響く。四角い窓枠の外に広がるのは、夜明け前の空。くろぐろとした闇の底にほの明るい群青と紫が混じった、一瞬で移ろう儚い色だ。だが彼女は一度も顔を上げることなく、蛍光灯の光のもと懸命に何かを書き続けている。
実写映画『ルックバック』は、原作にはない、こんな短いシーンで幕を開ける。スクリーンに映し出されるのは、小学校4年生で学年新聞に4コママンガを連載している主人公・藤野(七瀬ふうり)の背中。おそらくはクラスで新聞が配られる、その前夜の風景なのだろう。時間にすればせいぜい1分ほど、淡々とした描写の中にドラマティックな要素はほとんど見当たらない。と同時にこのさりげない導入部には、是枝裕和監督が『ルックバック』という漫画の実写化を手がけた理由が凝縮されているようにも思える。
自分の手を動かして何かを生みだすという行為に、フィジカルな重みを加えること。その歓び、しんどさ、費やされた膨大な時間を、俳優の身体を通してリアルに捉えなおすこと。もしそれが監督の目論見だとしたら、見事に成功していると言っていい。それくらい、ファーストカットに宿る息づかいは胸に迫る。
人気漫画家・藤本タツキによる原作は2021年7月、『少年ジャンプ+』で公開されて絶大な反響を呼び起こした。それは創作を巡る、美しくシビアな物語だ。
漫画の才能を周囲から絶賛され鼻高々だった藤野は、あるとき、学年新聞で京本(岡田六花)という不登校児の4コママンガを目にする。そして、会ったことのない同級生の圧倒的な画力に打ちのめされる。人生で初めて味わった大きな敗北感。負けず嫌いの藤野はスケッチブックと参考書を買い込み、猛然とデッサン練習を重ねるが、ライバルとの差は埋まらない。気持ちの糸が切れた彼女は一度、好きな漫画を投げ出してしまう。
やがて訪れた卒業式の日。担任に頼まれしぶしぶ卒業証書を届けにいった藤野は、初対面の京本から「私、藤野先生のファンです!」と告げられて驚く。
「藤野先生は漫画の天才です! それなのにどうして6年生の途中で4コマ描くのをやめたんですか?」なけなしの勇気を振り絞って発せられた京本の言葉。一番認めてほしかった相手に作品が認められ、冷静を装いつつも湧き上がる嬉しさを抑えられない藤野。ほどなく2人は「藤野キョウ」のペンネームで共作にのめりこんでいく──。
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「不要不急」の時代に共鳴した、原作の「覚悟」と是枝監督の「覚悟」
是枝監督は、書店に平積みになった原作の単行本をたまたま手に取って、買ったその晩に一気に読み終えた。そして「作品に注ぎ込まれた覚悟に打ちのめされた」という。2021年秋、コロナ禍がまだ完全には収束せず、地域によっては緊急事態宣言が続いていた頃の話だ。
筆者が『映画ナタリー』で行なったインタビューで、是枝監督はこう語っている。
「あの時期は、社会全体が刺々しい空気になって、いろんな社会活動やエンタテインメントが“不要不急”の一言で切り捨てられたじゃないですか。何かしらの表現に関わる人間にとって、あれはとんでもなくキツい経験だったと思うんです。(中略)自分が好きでやってきたことは世界にとって本当に必要だったのか。そういうシビアな命題を多くの人が改めて突き付けられた。その問いに対して、『ルックバック』という作品はすごく誠実に向き合っていると感じたんです。どんなに無力感に苛まれても自分は描き続けるしかない。おそらく作者の藤本タツキさんはそう覚悟を決められたんだろうなと。自分と同じことを思っている人がここにいると感動した。映画とマンガでジャンルは違いますが、同じ作り手として背筋が伸びる思いでした。」
——“是枝裕和が藤本タツキ「ルックバック」から受け取った覚悟、実写映画化への思い”. 映画ナタリー. 2026. https://natalie.mu/eiga/pp/lookback
作り手の「覚悟」を真っ直ぐ受け止めた是枝監督が映像化を決意したとき、最大級の「覚悟」をもって撮影に臨もうと考えたのは想像に難くない。原作のエッセンスを決して損なうことなく、漫画にもアニメにもできない、映画ならではの表現を模索すること。その帰結が、前述したような実写映像のフィジカルな重量感であり、生身の俳優の表情や息づかいであり、もっと言うと藤野と京本が生きる世界の自然光の美しさ、2次元表現の余白にあたる豊かな細部だったのだと思う。

たとえば、藤野と相棒の京本が部屋にこもって、最初の投稿作品に打ち込む一連の流れを観てほしい。共作を始めて間もない2人の動作を、映画は一つひとつ実にきめ細やく掬い上げていく。ストーリーと登場人物を考える藤野の指先はまだぎごちなく、線1本を引くスピードも決して速くない。背景担当の京本は一心不乱にディテールを描き入れ、慣れない手付きでスクリーントーンを切り出す。黒ベタがうまく塗れないもどかしさ。インクが乾くまでの心躍るひととき。すべての描写が丁寧でみずみずしい。映画を観ながら、消しゴムかすのザラッとした手触りや、汗ばんだ腕が紙に触れるペトリとした肌感が蘇ってくるようだ。
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美しい自然光のロケーションが、創作の歓びに実感を与える
さらに、窓の外に見える四季の変化が、その部屋で過ごしたかけがえのない時間を巧みに伝える。そういったディテールの積み重ねがあるからこそ、後半のストーリー展開——藤野と京本、2人が選び歩んでいく道のりと、それぞれが向き合う運命の厳しさ——がいっそう強く心を揺さぶるのだ。
自然光で捉えた世界の美しさといえば、同作はロケーションが抜群に素晴らしい。順番が前後するが、内心コンプレックスを抱いていた京本から「漫画の天才です!」と才能を肯定された藤野が、雨の中をスキップしながら家に帰る日本の漫画史上でも屈指の名シーン。藤野の人生をほとんど決定づけたと言える特別な時間も、実写版では完璧に映像化されている。撮影場所となった田んぼの畦道を制作スタッフが見つけてきたとき、是枝監督は「これなら撮れる」と確信したという。

漫画家・藤野キョウとして活動を始めた2人は、資料として近所の風景をスケッチし、写真に収めてまわる。鮮やかなアジサイ、夕暮れの小川、神社の石段に座って見上げる木立ち、梢を揺らす風、リンゴを齧りながら歩く秋の田舎道──2人だけの幸せな時間を捉えたロケーション撮影が、この上なく美しい。「自分の目に映った世界を、自分の手で写しとる」という創作の根源的な歓びが、どのカットにも凝縮されている。これもまた漫画やアニメーションが決して表現しえない、実写ならではの領域と言っていい。
と同時に藤野と京本のひたむきな表情は、原作が投げかけた「なぜ描くのか?」という問いへの映画なりの答えにも思える。
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子役から成人キャストへの、あまりにスムーズな交代
同作は、藤本タツキが育った秋田県にかほ市を中心に撮影された。もちろん単純に、場所としての美しさもあったはずだ。だがそれ以上に監督は、メインキャストの4人を、作り手の原風景の中に置いて撮りたかったのではないだろうか(藤野と京本という人物名からも、主人公の2人がそれぞれ原作者の分身であることは間違いない)。そう考えたとき、同作においてロケーションの持つ意味合いもまた、観る人の前に大きくクローズアップされて立ち上がってくる。

主人公はそれぞれ、2人のキャストによって演じられた。藤野役は七瀬ふうり(子ども時代)と出口夏希。京本役は岡田六花(子ども時代)と蒔田彩珠。一見クールな自信家だが、内心には「自分を認めさせたい」という身を焦がす欲求を抱えた藤野。藤野と出会うことで外の世界を知り、やがて絵を描くことの純粋な歓びに目覚めていく京本。4人ともふとした表情から仕草、息づかいに至るまで、対照的なキャラクターを完璧に体現している。
バトンの受け渡しも文句の付けようがなかった。同作では主人公たちの中学時代、初めて出版社に作品を持ち込む前に演じ手が交代する。俳優の実年齢にはそれぞれ10歳以上の開きがあるが、驚かされるのはこの間、時制がジャンプしないことだ。それでいて観客を「気が付いたときにはもう変わっていた」と唸らせるほど、場面がスムーズに流れていく。繊細かつ周到な演出のたまものだろう。

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野呂佳代、宮藤官九郎が演じるサブキャラクターの魅力
原作の余白を埋める豊かさでは、サブキャラクターの造形にも触れておきたい。
たとえば、野呂佳代が演じた藤野の母親。彼女は劇中ほぼアップで描かれない。引き気味のショット中心で、台詞もごく日常のやりとりがほとんどだ。それでも飾らない雰囲気や眼差しからは娘への愛情と気づかいが滲んでいて、忘れがたい印象を残す。藤野の才能を育てた環境が、母親の存在感によってぐっと厚みを増している。部屋にこもり漫画を描く2人に出してくれる桜餅がまたいい(ちなみに藤野が好きなこのおやつはその後もさりげなくスクリーンに登場し、観客の記憶を刺激することになる)。
藤野と京本が出会うきっかけを作った小学校教師は、宮藤官九郎が演じている。飄々とした佇まい、朴訥とした秋田訛りが微笑ましい。原作ではほんの数コマしか描かれず、その役割は読者の想像に委ねられていた。映画ではそれが短いシーンの中で掘り下げられ、2人を見守る視線がはっきり強調されている。
象徴的なのは、生徒たちが配られた学年新聞を次々と後ろに回していく場面。是枝監督はここに「人に褒めてもらうのは一番嬉しいんだからな」という先生の言葉をさりげなく重ねてみせた。これは原作にはなかった映画オリジナルの工夫。どこか気が抜けたような「クドカン口調」で語られるこの台詞が作品のメッセージの根底に触れている気がして、筆者は胸が熱くなった。
逆のパターンもある。原作ファンの方はきっと、同作では漫画の大事な台詞がいくつか省かれていることに気付くだろう。

ただ、シーン全体の印象はまるで変わらない。言うまでもなく漫画と映画は違う文法を持っている。生身の俳優が演じる場合「口に出さない方がむしろ原作のニュアンスに近づく」というケースも少なくない。そういった繊細な判断においても、同作は多くの漫画原作ものとは一線を画している。