東京都現代美術館で開催中の『エリック・カール展 はじまりは、はらぺこあおむし』は、エリック・カールのファンや子どもはもちろん、ビギナーからアート好きの大人までが楽しめる充実の展覧会だった。ライター小杉美香がレポートする。
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世界でいちばん愛される青虫、その作者の大回顧展
おそらく世界中でいちばん愛されているイモムシ・毛虫の類は、エリック・カール作の絵本『はらぺこあおむし』の「あいつ」だろう。日常でリアルに青虫を見かけたら多くの人はギャッとなるというのに、あの『はらぺこあおむし』くんの愛されっぷりときたらすごい。ムニムニとした緑色のボディを見かけると、子どもも大人も、つい優しい目で見守ってしまうのである。ふしぎだ。
2026年の春から夏にかけて、東京都現代美術館ではそんな『はらぺこあおむし』をはじめとする絵本の作者=エリック・カールの大規模展覧会、『エリック・カール展 はじまりは、はらぺこあおむし』が開催されている。会場には絵本27冊分もの原画や、過去最多となる12点のダミーブック(構想段階で作られる絵コンテのようなもの)、画家のグラフィックデザイナー時代の作品など約180点が集結。この記事では、会場のワクワクするような雰囲気と、その見どころについてレポートしていこう。

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『はらぺこあおむし』の知られざる「変遷」にびっくり
全4章のうち、はじめの第1章は丸ごと『はらぺこあおむし』にあてられている。絵本の全ページの原画が展示されているので、お気に入りのページを生の色彩で堪能してみてほしい。画像は、筆者が子どもの頃大好きだった『どようび』のページだ。左端のチョコレートケーキがあまりに美味しそうで、いつまでも眺めていた記憶が鮮明に蘇る。(ちなみに、鑑賞後にミュージアムショップでこの食べ物柄のエコバッグが販売されているのを発見して歓喜の中で購入するのだが、それはおよそ90分後の話だ。)


キャプションをよく見ていくと、原画の中には1969年版のものと1987年版のものがある。どちらも味があるが、初版である1969年版では色がくすみ、紙を貼り合わせた接着剤が黄色く変色してしまっているのがわかる。解説によれば、エリック・カールは初版から18年後の再版の際、長期保存に適した画材で全ての原画を制作し直しているのだという。やっぱり絵本は目くるめく色彩が命。画家がいかに色の鮮度を大事にしていたのかが伝わってくるエピソードである。そしてその「リマスター作業」のおかげで、会場では絵本で見ていたイメージ通り、いやそれ以上のビビッドな色を楽しむことができるのだ。

こちらは『はらぺこあおむし』の貴重な初版本の展示。あおむしの表情を判別するのが難しいほど、画面が暗いと感じないだろうか。1960年代当時は、印刷技術の制約で原画の持つ鮮やかさを再現することは不可能だったのだという。

完成版の絵本と微妙に違うバージョンの作品、いわばボツ案も観られる。『はらぺこあおむし』のラストを飾る華やかな蝶の見開きページは、実際の絵本では羽の色合いがよりシンプルに明るくなっているし、中心の体の部分も黄色だ。この別案だと、あおむしが食べてきた色とりどりの食物を全てごちゃ混ぜにしたような、サイケデリックさが際立つ姿となっている(そしてちょっと怖い)。祝祭感あふれる採用バージョンの魅力を再認識しつつ、こちらの羽模様も清濁合わせ飲んだ(?)大人っぽい感じがしていいな……と思ってしまった。

会場奥に展示されている初期案のダミーブックは衝撃的なので、ぜひ手に取って鑑賞を。『はらぺこあおむし』は構想当初、青虫ではなくミミズの話だったらしい。ミミズは変態しない。そう、なんとミミズがたくさん食べてただ太るだけという、身も蓋もない話だったのだ。エリック・カールが担当編集者と話し合う中でミミズがボツになり、代わりに青虫という存在を閃いたことで、全世界で愛され続けるこの成長物語が誕生したのである。まるまると太ってしまった緑色のミミズもまぁ、可愛いといえば可愛いけれど……。
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『パパ、お月さまとって!』の幻想的な世界へ

第2章から第3章では、エリック・カールの生み出した数々の絵本の原画やダミーブックが惜しみなく展示されていく。特筆すべきは、これも非常に人気の高い『パパ、お月さまとって!』のセクションだろう。全てが夜の時間帯に展開する物語らしく、展示空間全体が青い光で満たされている。さらに、壁いっぱいを使った月のフォトスポットでは記念撮影も可能だ。


ここで注目したいのは、なんといってもダミーブックのお月さまの表情である。採用された原画(右)では灰色のグラデーションで曖昧に表現されているものが、ダミーブック(左奥)では、はにかんだような困り笑顔がくっきりと描かれている。まるで『ちびまる子ちゃん』にでも出てきそうな親しみやすい表情に、「お月さま、こんな表情してたんだ……」と思わずつられ笑いしてしまった。
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ご存知でしたか? ほかにもあるエリック・カールの名作たち

第2章では、日本初公開となる『いちばんのなかよしさん』の原画も要チェックだ。『いちばんのなかよしさん』は、大好きだった幼馴染の女の子と離れ離れになってしまった少年が、彼女に会うため野を越え山を越え冒険する、というストレートな愛情表現の物語。エリック・カール自身が6歳の頃にアメリカからドイツへ移住し、仲良しの幼馴染と引き裂かれてしまったという体験がベースとなっているのだそうだ。その後のエリック少年はといえば、移住したナチス政権下のドイツで抑圧にまみれた灰色の青春時代を過ごすことになる。明るく躍動的に描かれた『いちばんのなかよしさん』の少年少女には、自由だったアメリカでの幼少期を懐かしむ画家の想いが込められているようだ。なお絵本の発行後、地元新聞社の計らいでふたりは現実でも感動の再会を果たした……という素敵な後日談も添えられているので、解説パネルをお見逃しなく。

また、数々の原画を目にする中で個人的に一番驚いたのは、『だんまり こおろぎ』の色彩の豊かさだった。正直言って子どもの頃、虫が苦手な筆者は、黒い虫が主役であるこの絵本を直視できなかった。けれど改めて美術館で出会ったこおろぎは、青や紫やライムグリーンを体全体に纏い、想像していたよりもずっと美しかった。もしかしたら、これまで自分がちゃんと見れていなかっただけで、愛をもって見つめれば生き物ってなんでも美しいのかもしれない? と、苦手意識が少しだけ揺らいだ気がする。これがアートのすごいところである。
ちなみにエリック・カール作品では、「The Very…」で始まる英語タイトルを持つ虫の物語が『はらぺこあおむし』を含めて5つ存在する。本展ではその5作品すべての原画が展示されており、彼の描く虫の世界をたっぷり堪能できるようになっている。