たびたび映像化されてきた英文学の古典を、マーゴット・ロビーの主演で映画化した、エメラルド・フェネル監督作『嵐が丘』が2026年2月27日(金)より日本公開となる。原作の大胆な改変や大量の性描写を含む同作について、英文学 / ジェンダー研究者の北村紗衣に論じてもらった。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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「反社会的」な1847年の原作小説
エメラルド・フェネル監督による映画『嵐が丘』は、ブロンテ姉妹のひとりであるエミリー・ブロンテが1847年に刊行した小説の映画化である。原作は英文学史上最も有名な恋愛小説であり、英文学者である本レビュー著者の考えでは英文学の正典(正統的な傑作)とされている小説の中では最も反社会的な作品だ。執筆当時のヴィクトリア朝のモラルをわざと逆撫でするようなことをロマンス小説の姿を借りて行っている。人間は愛をなんとなく良いものだと思っており、愛によって家庭や社会が築かれるという幻想を持っているが、そんなのはウソっぱちであるということを堂々と言っている話であるように見える。
『嵐が丘』において、愛はそもそも社会の調和を破壊するようなものであるものの、それでも人は愛し合わずにはいられないし、その結果何もかもぶっ壊れてもしかたがない。信頼できそうな理性と良心を兼ね備えた人間はほとんどひとりも出てこないし、憂鬱で破壊的な内容だ。しかしながらものすごくロマンティックな小説だと考えられており、これまで何度も映像化され、今回の映画化もバレンタインデーをあてこんで公開される。
小説の舞台はイングランド北部のヨークシャ、ヒースと呼ばれる低木が生えた荒地が広がる地域である。語り手でもある女中のネリーが都会から来たロックウッドに話をするという大枠があり、この回想として物語が展開する。嵐が丘に住むアーンショー家の娘であるキャシーと孤児ヒースクリフの恋を中心に、親子二代にわたる愛憎を描いた大河ドラマのような小説である。
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原作の「大改変」と言われるが……
映像化する場合、通常はヒロインのキャシーが亡くなる中盤あたりで終わりにし、その子ども世代の話は省略することが多い。今回の映画も同様だ。しかしながらフェネルの『嵐が丘』は他の点でも原作を大きく変更しており、そこが賛否両論、もっと言えば愛読者からの強い反発を呼んでいる。
私は『嵐が丘』の愛読者で、しかも英文学者で映画批評家だが、本作の映画化にあたって原作が大きく変更されている点についてはとくに気にしない。私がふだん研究しているのはシェイクスピアだが、シェイクスピア劇はとんでもなく魔改造された翻案が大量に存在するので、今回の『嵐が丘』はそれに比べればたいした変更ではないと思えるからだ。変更の方向性は非常に好みが分かれそうだが、これまでの監督のキャリアを見ると一貫性のあるやり方だとは言える。フェネルは広い意味での古典やジャンルの概念を扇情的な方向性であえてめちゃくちゃにすることでキャリアを築いてきた映画監督と言えるからだ。

ところで、『となりのサインフェルド』という、アメリカで1989年から1998年にかけて放送されたシチュエーションコメディがある。このシリーズの中で繰り返しギャグとして出てくる『ロシェル・ロシェル』という架空の映画があるのだが、これは「ミラノからミンスクまで、若い女性の不思議でエロティックな旅」を描いた非英語圏の映画だ。架空の映画なのでどういう話だかはよくわからないが、ドラマの中での描写からすると、つまらないが美女の裸はけっこう出てくるそうだ。どうもフランス産エロティカとして一世を風靡した『エマニエル夫人』(1974年)を新しくしたみたいな映画らしい。『サインフェルド』の主要女性キャラクターであるエレインは『ロシェル・ロシェル』について、「男性客はどんなにくだらなくても女優が脱げば観に来るから……」とこのタイプの作品をけなしている。
これは日本語でいわゆる「文芸エロス」と言われるジャンルである。だいたいはヨーロッパで作られており、原作があることも多く、景色が綺麗な場所や歴史的建造物などを使ってロケをする。ものによるが、どぎつい暴力描写は少ない。美女(主人公であることも多い)の性的体験が官能的に描かれており、一応人生と性愛の意味みたいな哲学的テーマらしいものを扱ってはいる……のだが、観客の目当てはだいたいエロ描写で、それ以上に面白いと言えるところはそんなにないことも多い。有名なものとしてはポール・ボウルズ原作の『シェルタリング・スカイ』(1990年)やマルグリット・デュラス原作の『愛人/ラマン』(1992年)、最近だと『パルテノペ ナポリの宝石』(2024年)などがそれにあたると言えるだろう。

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本作は「女性が作る“文芸エロス”映画」である
「文芸エロス」というのは日本特有のジャンル分けで、アメリカなどではこの種の映画はヨーロッパ式アート映画の皮を被ったエクスプロイテーション映画として受容されている。エクスプロイテーション映画というのは、扇情的な題材をとりあげて手っ取り早く興収をあげるために量産される映画のことだ。性的な題材をとりあげたものはセックス+エクスプロイテーションの鞄語でセクスプロイテーションと呼ばれる。アメリカで作るとエクスプロイテーション映画と呼ばれるものがなぜかヨーロッパで作られるとアメリカではアート映画と呼ばれる……という話があるが、アートな映画とエクスプロイテーション映画は「攻めた」描写が特徴なので、かけ離れているようでいて実はけっこう曖昧である。
エメラルド・フェネルの『嵐が丘』は、紛うことなき文芸エロス映画であり、お金のかかったセクスプロイテーション映画だ。原作の『嵐が丘』は大変官能的な作品ではあるが、そのエロティシズムは全て人間関係の微妙なテンションから来るもので、露骨な性描写は無い。読者は想像で補ってくれ、というわけだ。ところがフェネルはこの補った想像を全て映像にしている。微妙さのかけらもない。
この露骨さは本作を非常にセクスプロイテーション映画的にしている。ヨークシャでロケした映像や、完全に時代考証を無視した派手で現代的な衣装など、2026年の『嵐が丘』は視覚的にかなり1970年代頃のセクスプロイテーション映画に似ている。ニュアンスで伝えるような表現はなく、マーゴット・ロビー演じるキャシーとジェイコブ・エロルディ演じるヒースクリフは再会後、不倫のセックスに溺れ続けている。原作にはないBDSM描写まで登場する。
しかしながら注目すべきなのは、この『嵐が丘』の文芸エロス化は完全に女性の視線を通して行われているということだ。『サインフェルド』でエレインが指摘しているように、文芸エロス映画はいくら女性の自由な行動を描いているとは言っても、結局は男性が撮り、男性の視線に奉仕する作品であることが大半だ。かたや本作は女性であるエメラルド・フェネルの視線によりコントロールされており、他のセクスプロイテーション映画には見られない要素がたくさんある。

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残虐な男性主人公をマイルドにする変更
エメラルド・フェネルはまだ少女だった頃に『嵐が丘』を読み、その時の解釈に基づいて本作を作ったそうだが、たしかにこの映画には中学生か高校生くらいの女子が、全部は理解できなかったうろ覚えの大人向け愛読書のあらすじを不正確に友達に説明しているような感じがある。原作のポイントが妙なところで変えられている。
たとえば原作のアーンショー家はたぶんヨーマンと呼ばれる階級、キャシーの夫であるエドガーと妹イザベラが暮らすリントン家は下級ジェントリーでアーンショー家より少し階級が上だが、映画ではリントン家は商売でもうけた新興成金でアーンショー家に比べるとお金はあるが家柄は良くないということになっている(イギリスの伝統的な階級システムでは、商売をしているといくら金持ちであっても不労所得で暮らせる地主より下層という扱いになる)。映画のキャシーは家柄はまあまあだがお金がまったくない一家を救うためにエドガー・リントンと結婚するが、文字の読み書きすらおぼつかない下層階級の出身と思われるヒースクリフへの恋情を忘れられない。この変更のため、キャシーとヒースクリフの恋は財産と階級をめぐる非常に世俗的なメロドラマとして提示される。

ヒースクリフが原作ほど悪人でないのも特徴だ。小説のヒースクリフは相当に残虐な人物で、復讐のためなら何でもする。イザベラを騙して結婚し、おそらくレイプして虐待しているし、『ヒースクリフは殺人犯か?』という本が出てくるくらいで殺人疑惑もある。ところがフェネルの映画に出てくるヒースクリフは、陰気だが凶悪犯罪の気配はあまりない。ヒースクリフとイザベラは奇怪な関係で、そもそもイザベラはレズビアンでおそらくキャシーに恋している。イザベラは同じ女を求めつつも完全に得ることができない同志、あるいは共謀者として腹いせのようにヒースクリフと結婚し、合意の上でBDSM的な関係に入って、自分の意志でとどまり、夫の芝居に付き合っているように見える。
このふたりの間に存在する依存と支配は非常に不健全でメンタルに悪そうだが、夫が妻を暴力的に虐待するというような関係よりはだいぶ複雑だ。この変更により、ヒースクリフは殺人犯やレイプ犯というロマンスの主人公としては好ましくない罪から逃れて、現代的な恋愛ものの感覚ではヒロインによりふさわしい男になっている。私が高校生の時に『嵐が丘』を読んで一番ぎょっとしたのはヒースクリフのイザベラに対する虐待なので、ここを魔改造したフェネルの発想はわからないでもない。