名匠ガス・ヴァン・サント監督の最新作『デッドマンズ・ワイヤー』が7月17日(金)より劇場公開となる。本作にも使用されているギル・スコット・ヘロンの楽曲“The Revolution Will Not Be Televised”は近年、他のいくつかの映画でもフィーチャーされている。なぜこの曲が今、重用されるのだろうか? この曲は今、映画の中でなにを意味するのか? 評論家・柴崎祐二が論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」第40回。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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近年の映画に、ラビ・シフレの曲がよく使われている
この連載では、既存楽曲の映画内での使用――通称「ニードルドロップ」と呼ばれる手法について、具体的な作品を取り上げながら各作の内容を論じているわけだが、そういう関心のもとに日々続々と劇場公開される映画に触れていると、ときとしてそれらの中に何かしらの「傾向」が存在しているらしいことに気付く。具体的に言えば、特定のアーティストや特定の楽曲が、比較的近い時期に公開された複数の映画作品でフィーチャーされていることにふと気付かされたりするのだ。
例えば、本連載で取り上げてきた範囲では、必ずしも誰もが知るスターとは言えないであろう1970年代からイギリスで活動しているソウル〜フォーク系シンガーソングライター=ラビ・シフレの楽曲が、複数の映画人から妙に好まれているという事実を挙げることができる。彼の楽曲は、『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ』と『センチメンタル・バリュー』に使用されていたし、劇場映画以外にも、人気ドラマ『ブレイキング・バッド』のスピンオフ作品『ベター・コール・ソウル』や、Netflix配信の『Lupin/ルパン』でも使用されていた(私が把握していないだけで他にもあるかもしれない)。

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かつて「Free Soul」シリーズでラビ・シフレの名を知りファンになった私などは、ここへきて急に彼の楽曲が盛んに使われているこのような状況にそこはかとない嬉しさを感じてしまったりするものだが、その背景を推察していくと、なかなか興味深い構図が浮かんできたりもする。どうやら彼の楽曲は、私たち2020年代の観客が思う「1970年代らしさ」をある種典型的な形で表象しているらしいのだ。
なるほどフォークとソウルの融合を感じさせる彼の楽曲が持つ響きに、いかにも「人間的」で、かの時代特有の(と想像される)「優しさ」が滲んでいると受け取られているらしいというのは、かなり得心のいくところだ。言ってみれば一つの歴史的な「記号」として用いられているということでもあるのだが、彼の音楽それ自体がそうした記号的なコミュニケーションとそのあからさまな指示性をやんわり中和させるようなところもあり、翻って、それこそが現代のメディア環境への批判意識を内在した映像作家の関心を引くということなのかもしれない(その上で改めて上の作品リストを見れば「なるほど」と思わされるはずだ)。
おそらく、実情としてはそうしたクリエイティブ面の理由に限らず、例えば権利処理が比較的簡易であるとか、アーティスト自身が劇中使用に積極的だとかの事情もあるのだろう(そういえば、昨今のこうした再注目が後押しになったのか、ラビ・シフレは今年中に28年ぶりに新作を出す予定なのだとか。楽しみだ)。いずれにせよ指摘できるのは、映画やドラマの世界では、それと示し合わせたわけではないであろうに、たびたびこういう「シンクロニシティ」が起こるということなのだ。
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ガス・ヴァン・サント監督最新作でもラビ・シフレが
――といった次第で、私は密かにここ数年のエンターテイメント界における「ラビ・シフレ現象」に注目してきたわけだが、今回、その現象が単なる偶然ではなさそうなことを証立てる新たな作品に出会うことになった。それが、ここで紹介するガス・ヴァン・サント監督最新作品『デッドマンズ・ワイヤー』だ。
本作は、1977年アメリカのインディアナ州インディアナポリスで実際に発生した誘拐立て籠もり事件を元にしたもので、地元のラジオ局からオンエアされているという設定で数々の1970年代当時の楽曲が流れるのだが、その中の一曲としてラビ・シフレの(上述した『センチメンタル・バリュー』で印象的に用いられていたのと同じ)“Cannock Chase”が使用されているのである。
同作のあらすじを紹介しておこう。物語は、インディアナポリス在住の男性トニー・キリシス(ビル・スカルスガルド)が地元拠点の不動産ローン会社メリディアン・モーゲージ社のオフィスを訪れるところからはじまる。元々彼は、ある事業計画のためにメリディアン・モーゲージ社から融資を受けていたのだが、出資者を募っている最中に利子付きの返済を迫られ、300万ドルという大金を失っていたのだ。これを詐欺行為だとみなした彼は、同社への恨みを晴らして補償を得るため誘拐事件を計画し、社長M・L・ホール(アル・パチーノ)の息子で役員のディック・ホール(デイカー・モンゴメリー)を人質にとって立て籠もりを始める。トニーは、ディックの首に散弾銃を取り付け、それを自らの身体にくくりつけることで警察が安易に手出しをできないようにした上、地元ラジオ局のDJフレッド・テンプル(コールマン・ドミンゴ)を巻き込んで自らの意見を世間に訴えようとする――。
実際に起こった立て籠もり事件を緊張感溢れるタッチで描いていくその様は、かつてアル・パチーノが犯人役を演じたシドニー・ルメット監督の名作『狼たちの午後』を彷彿させるものであり、一方でラジオDJとアウトローの関係性のくだりは、同じく1970年代の名作『バニシング・ポイント』を連想させたりもする。ヴァン・サント自身もそのような「1970年代っぽさ」を追求することに相当意識的だったようで、随時挿入される当時の質感を再現したようなテレビ中継映像やスピーディーな編集を駆使しながら、実に職人的な手際で事件の展開を描き出していく。

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『デッドマンズ・ワイヤー』の巧みな音楽使用
上述した通り、本作においてはラジオ放送が重要な存在として扱われており、そこで流される数々の曲が劇中を彩っていく。ラビ・シフレの“Cannock Chase”もまさにその一環で流される曲であり、犯人のトニーと人質のディックがオフィスから籠城先のアパートへと車で移動する際に車内のラジオから聴こえてくる。“Cannock Chase”が、ギターを抱きながらの車での旅を歌い、しかも友情というモチーフを含む曲であることを考えるとなんとも皮肉な使用法だが、他方では凶暴なだけではないトニーという人物のどこかとぼけたようなユーモアや隠された優しさを暗喩的に物語っており、なかなかに巧みなニードルドロップだといえる。
他にも、冒頭に流されるデオダート版の“ツァラトゥストラはかく語りき”やロバータ・フラック版の“Compared To What”、バリー・ホワイト“Never, Never Gonna Give Ya Up(忘れられない君)”、ドナ・サマー“Love to Love You Baby(愛の誘惑)”、Harpers Bizarre版“Witchi Tai To”、Dyke & The Blazersの“Let A Woman Be A Woman – Let A Man Be A Man”、B.J.トーマス“Raindrops Keep Fallin’ on My Head(雨にぬれても)”、Yes“I’ve Seen All Good People”などが流される。そのどれもが当時の空気を伝える装置として巧みに機能している一方で、劇中で繰り広げられる出来事との微妙な連関も示唆されており、各曲のファンならばきっとほくそ笑んでしまうはずだ。
中でも、B.J.トーマスの“雨にぬれても”の使い方はかなり皮肉が効いている。この曲は元々アメリカンニューシネマの傑作『明日に向って撃て!』の劇中歌としてバート・バカラックとハル・デヴィッドの名コンビによって書かれたもので、同映画の中では、ポール・ニューマンとキャサリン・ロスが仲睦まじい様子で自転車の二人乗りをするシーンで印象的に使われていた。片や本作では、頭にショットガンを固定された人質とその犯人というまったく微笑ましくない二人組の姿に被される形でこの曲が使われており、そこに込められた皮肉の切れ味にはなかなかのものがある。
もう一つ、本筋とは関わりのない実に細かい部分になるが、ラジオ局内でアシスタントプロデューサーがニューヨークの知人から送られてきたというパンクバンドのデモテープを聴いているシーンにも注目したい。後のハードコアパンクを思わせるすさまじいスピード感を持ったこの曲は、実のところニューヨークのバンドの曲でも、本作の舞台となった1977年の曲でもない。その正体は、後に「世界最速」と評されることになる日本のパンクロックバンドSSの“Mr. Twist”という曲なのだ。どういう経緯でこの曲がチョイスされたのかはわからないが、おそらくは本作の音楽スーパーバイザーを務めたディナ・ユンティラが監督に推薦したものなのだろう。現代のハリウッド映画の劇中でSSの曲を聴くことになるとは全く想像していなかったので、彼らのファンである自分はすっかり驚いてしまった。こういうところをとってみても、本作における既存曲使用がかなり「マニアック」な視点からなされていることがわかる。
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もう一つの象徴的な楽曲使用の「シンクロニシティ」
先に私は、ラビ・シフレの曲を例に昨今の外国映画の楽曲使用における「シンクロニシティ」について指摘しておいたが、本作には、そうした現象を象徴するもうひとつの重要な楽曲使用例がある。それは、ギル・スコット・ヘロンの“The Revolution Will Not Be Televised”だ。
詩人でありソウル系ミュージシャンのギル・スコット・ヘロンが1971年に発表(※)したこの曲は、同時代のブラックパワー運動に象徴される「革命」への参加を呼びかけるリズミカルなポエトリーリーディングを特徴とするもので、今ではラップの源流の一つに数えられることもあるなど、歴史的に重要な存在として知られている。
※ 本作でも使われているよく知られるバンド入りのバージョンの前に、1970年のライブ / スポークンワードアルバム『Small Talk at 125th and Lenox』で最初に発表された。
タイトルにあるように、「革命」なるものはあくまで一人ひとりの現実に根ざすものであり「テレビでやるなんてことはない」と訴える同曲は、様々な固有名詞を盛り込みながら時の政治的権威のみならず同時代のメディアや広告システムを痛烈に批判する内容であり、アクティヴィズムに対する彼の揺るぎない信念が刻まれていると言える。
この曲が、ポール・トーマス・アンダーソンの『ワン・バトル・アフター・アナザー』で、あるいは(この連載でも取り上げた)エドガー・ライトの『ランニング・マン』で、そして本作『デッドマンズ・ワイヤー』でと、2025年に現地公開された複数のハリウッド製映画で続々と使用されているのは、やはり単なる偶然とは言えないはずだ。最もわかりやすい解釈としては、この曲の存在が、かつてギル・スコット・ヘロンが警鐘を鳴らしたのと全く変わらない(ひょっとするともっと深刻な)問題を抱えている現在の情況に対して、のっぴきならない注意喚起を行っているという考え方があるだろう。
言い換えれば、今もなお――いや、今という時代こそ、最も根深い形で政治的権威や巨大メディア企業や広告システムによって毒されていること、あるいはもっと悪いことに、一見すると「革命」風のスペクタクルの提示を通じて真の「革命」の可能性が未然に摘み取られているのかもしれないということに対する危機感の高まりが、この曲を現代の映画作品の中に再び召喚せしめているのではないか、ということだ。「テレビじゃ革命はやってない」し、「革命が企業の提供で放送されることなんてない」のだ。『ランニング・マン』の評で書いたことを繰り返すならば、当然そこでは、「テレビ」を「スマホのモニター」に替えて解釈するのが正しいだろう。

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“The Revolution Will Not Be Televised”は映画の中でなにを意味するのか
『デッドマンズ・ワイヤー』における“The Revolution Will Not Be Televised”の使い方を見ても、まさにこの点を言葉通りに強調する装置として置かれているらしいことが浮かび上がってくる。トニーの蛮行が民間のメディアでいかに広く報道され、それがどのようなスペクタクルを現出させようとも、トニーが「行動」へと至った本当の内的体験や、ひいては彼を抑圧していたものの正体や構造的な問題のありようが「テレビで放映されることはない」のだ。
だとすれば、この“The Revolution Will Not Be Televised”の使用は、ガス・ヴァン・サントという現代の映画作家が、過去に起きそうになった現実の「革命」へとロマンを捧げていることを証立てていると理解するのが適当なのだろうか? ひょっとするとそういう気持ちが全く無かったわけではないかもしれないが、やはりそれは素朴すぎる解釈だろう。と言うのも、他でもない商業映画という存在自体が、高度のメディア複合体が送り出す現代のスペクタクルに他ならないわけだ。だからここに必然的に現れてくるのは、強烈な――ひょっとすると作り手の意図を超えた強烈な作用を内に孕んだ――自己言及的なイロニーなのである。
ギル・スコット・ヘロンは言う。「革命」は、「続きはCMの後で」などと言わない。「革命」は、洗剤のCMとか、歯磨き粉の企業の提供では放送されないのだ。そのようなものはすべて「革命」を覆い隠し、私たちを「革命」から遠ざける役割しか演じない。「革命」のテーマソングは、ジム・ウェッブだとかグレン・キャンベルだとかトム・ジョーンズによっては書かれないのだ――。
だとしたら、私たちが今見ているこの映画とはいったいなんなのだろう。もっと言えば、私たちが見ている当の映画の中で、「テレビじゃ革命はやってない」という曲が流される意味とはなんなのだろう。

本作の終盤にこういうシーンがある。往年の名優ジョン・ウェインが何らかの賞を授与されスピーチを行う(実際の)映像を中断して、ディックの頭にショットガンを突きつけたトニーの姿がテレビ中継されるところだ。テレビカメラの前で演説をぶつトニーを見て、番組の関係者が言う。「もし頭が吹っ飛んだら視聴率が急上昇するだろう」。システムが、視聴者が、求めているのはスペクタクルなのだ。しかしそのスペクタクルもまた、別のスペクタクル――幸せそうなアメリカ人家族がハンバーガーを頬張るコマーシャルの映像で中断されてしまう。
ここには更にもう一つの折りたたまれた皮肉がある。「革命」を信じて行動を起こしたトニーでさえもが、自らの主張を叫ぶにあたって、そのようなスペクタクルを演じることを(ある意味で「自然と」)目的にしてしまっているのだ。すべてはシステムの中、「現実」やトニーという一人の「人間」はモニターを通じて雲散霧消していく。そのことを象徴するように、不起訴の約束を反故にした法執行機関がとたんにトニーの身柄を拘束し、その末には法廷で自身の責任能力を疑われることになる(果たして彼にとってはその顛末があるべき「革命」だったのだろうか、どうか)。