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NEWS EVENT SPECIAL SERIES

J-CLUB最後の残党・tofubeatsがミッツィー申し訳と語る、日本のクラブ文化史のB面

2026.7.7

#MUSIC

tofubeatsの新作EP『Angels On The Dancefloor』の先行シングルとなった”大丈夫 feat. 柴田聡子”は、tofubeatsのプロデューサーとしての並々ならぬ気迫と初夏の風のような軽やかさを感じさせるし、さらには柴田聡子の歌の新たな表情に出会える素晴らしい名曲だと思う。

今作の取材にあたり、tofubeatsの主宰レーベル「HIHATT」のチームから『J-POP DJ EVENT「申し訳ないと」』のミッツィー申し訳との対談の提案があった。「J-CLUB」をコンセプトにした新作だけでなく、同イベントに参加する中でtofubeatsは多大な影響を受けてきたのだという。そして2026年9月に『申し訳ないと』はラストパーティーを開催し、活動休止となることを受けて、その記録をどこかに刻みたいと考えたのだと。

かつてクラブではご法度だった日本語の曲をプレイするにとどまらず、J-POPの新譜をバンバンかけまくる『申し訳ないと』は現在に至る日本のクラブカルチャーにおいて重要な役割を果たしただけでなく、今では当たり前になったアイドルとクラブカルチャー、あるいはアイドルとヒップホップの文化をクロスオーバーさせる企てを仕掛けてきた集団でもある。

野田努企画・編集による『クラブ・ミュージックの文化誌: ハウス誕生からレイヴ・カルチャーまで』(1993年、宝島社)を紐解くと、「クラブミュージック」という言葉にはテクノやハウス、レイヴ、そしてジャズやロックといったジャンルや文化の垣根、人種の壁をも超えたものとしてある種の寛容さが内包されてきたことがわかるのだが、そのことを踏まえて「J-CLUB」の歴史を『申し訳ないと』の足跡と重ねて振り返る、というのがこの対談の趣旨である。

以下、tofubeatsと旧知の間柄のビートメイカー / ライターの小鉄昇一郎の司会進行でお送りいたします。

tofubeats『Angels On The Dancefloor』を聴く(各ストリーミングサービスで聴く

「J-CLUB」って何だ? tofubeatsが新作で立ち返ったところ

─「J-CLUB」とは、そもそもどういったジャンルなんでしょうか。

tofubeats:J-POPのフィールドで販売されていた、日本産のクラブミュージックっていうニュアンスですかね。クラブに来ない人が聴くことも想定された、メジャーな流通のダンスミュージックというか。昔のTSUTAYAとか、CD屋さんに「J-CLUB」という棚があって、そこにまとめられていたんですよ。

─電気グルーヴとかm-flo、MONDO GROSSO、FPM、TOWA TEIとかですよね。ただ、卓球さんやテイさんが自ら「俺はJ-CLUBだ!」と言っていたわけではないですが。

tofubeats:そうですね。売り場につける名前として必要だったからという実務上の理由で生まれたジャンル名だと思うんですけどね。

tofubeats(トーフビーツ)
1990年生まれ、神戸出身。在学中からインターネット上で活動を行い、2013年にスマッシュヒットした“水星 feat.オノマトペ大臣”を収録したアルバム『lost decade』を自主制作で発売。2013年のメジャーデビュー以降、5枚のアルバムを発表。最新作は2026年6月リリースのEP『Angels On The Dancefloor」。SMAP、平井堅、Crystal Kayのリミックスやゆずのサウンドプロデュースのほか、BGM制作、CM音楽等のクライアントワークや数誌でのコラム連載等、活動は多岐にわたる。

ミッツィー申し訳:日本人が作っているダンスミュージックには歌詞が英語のものも多くて、J-POPの棚ではないし、かといって洋楽でもない、ということで専用の棚が必要だったんじゃないですか。

tofubeats:要するにJ-POPの「J」なわけで、そういうテイストのあるクラブミュージック全般という。その適当な感じがいいんですよね。

─そういう「J-CLUB」の棚でCDを借りてた原体験に立ち返って、今回のEPができたと。

tofubeats:まあ、リアルタイムの世代ではありますね。あと、2020年に『TBEP』という初めてハウスミュージックに絞った作品を出したんですけど、その際にレコード会社の人から「トーフくんは、ボーカルもののハウスで名曲が作れたらいいよね」というようなことを言われて。

たしかに、DJでもハウスばっかりかけて、昔から曲も作っているけど、ヒットはないかもな、と思って。それ以来「J-CLUB最後の残党tofubeats」とか言い出して、半分冗談ではあるんですけど、J-CLUBを意識しだしたのはありますね。別に誰も「J-CLUB」って看板って背負ってないから、何も言われないだろうと(笑)。ハウス警察、テクノ警察はいても、J-CLUB警察はいない!

tofubeats『Angels On The Dancefloor』収録曲

─ジャンルのスキマというか、暫定的に名付けられた場所というのが「J-CLUB」の面白がれるポイントですね。音楽的にこう、という定義もないし。

ミッツィー申し訳:まあでも、音楽的にはハウスでしょうね。ハウスの中でもニューヨーク風の、ちゃんとメロディーがあって、ストリングスとピアノがバンバン入るような。Def Mixやデヴィッド・モラレスが近いかな。それと女性のボーカルで、ジャケットはモデルさんで、みたいなイメージ。

tofubeats:もちろん1980年代から日本人のクラブミュージックのプロデューサーはいたわけですけど、棚を設けざるを得ないほどリリースの量が増えてきたのが2000年代なんでしょうね。おそらく、棚としてはまず「J-HIPHOP」というのが生まれて、その後だと思うんですけど。

ミッツィー申し訳:1990年代後半から、いろんなDJやアーティストがどんどん売れていきましたからね。

ミッツィー申し訳(みっつぃーもうしわけ)
有限会社J−CLUB(有限会社申し訳改め)代表取締役。J-POP DJイベント『申し訳ないと』を主催し、日比谷野外大音楽堂、日本武道館、『SUMMER SONIC』など数々の大型イベントなどに出演。宇多丸(RHYMESTER)らをレギュラーメンバーに、イレギュラーメンバーとして小西康陽、綾小路翔(氣志團)、RYOJI(ケツメイシ)、tofubeatsらも名を連ねる。2026年9月、『TBSラジオ アフター6ジャンクション2 presents「申し訳ないと30th ANNIVERSARY & LAST PARTY」』を開催する。

ミッツィー申し訳が居合わせた、日本のクラブカルチャー黎明期の現場

─ミッツィーさんはそういった1990年代の日本のクラブシーンを、クラブの経営者として、DJとしても見ていたわけですよね?

ミッツィー申し訳:1995年ですかね、栃木県宇都宮市のオリオン通りという商店街の地下で、PLANETというクラブをはじめたんです。ちなみに最近、宇都宮の市街地にクマが出たニュースがありましたけど、その現場の30メートルくらいの場所です。

tofubeats:(笑)

ミッツィー申し訳:宇都宮でゲストDJを呼ぶ形のイベントをしたのもウチが最初でしたけど、その最初が松本浩一(HOUSE FOUNDATION)さん。

tofubeats:ああ、和田アキ子さんの“FREE AT LAST”のプロデュースの。J-CLUBアンセムですね。

ミッツィー申し訳:そこから、いろんな知り合いや地元のディスコDJのツテで呼んだのが、大沢伸一(MONDO GROSSO)さん、沖野修也さん、RINO LATINA IIやTWIGY……。ヒップホップもハウスも、レゲエも全部やってましたね。

tofubeats:地方の箱はジャンル問わず何でもやりますよね。

─話が前後しますけど、そもそもミッツィーさんはなぜクラブをやろうと思ったんでしょうか? 昔から音楽が好きだったんですか?

ミッツィー申し訳:いや、『ベストヒット USA』を見たり、バンドでちょっとキーボードやろうとしたりって程度ですよ。譜面も読めないから、楽器買っても結局、人に譲ったり。タンテ買ってDJちょこちょこやりだして、みたいな感じでしたね。

tofubeats:もともとハードハウスのDJとかやってたんですよね。

ミッツィー申し訳:そうそう。で、18歳のとき、料理の専門学校に行くために上京して。六本木のレストランでバイトをするんですけど、そこの副支配人がもう生粋のディスコ遊び人で。仕事終わったらそのままスクエアビル(※)に行って、エレベーターで上から全部の階にご挨拶して、VIPルームでヘネシー呑んでって「次のビル行くぞ!」みたいな人だったんですよ。

tofubeats:バブルですね~。

※スクエアビル:六本木交差点から徒歩2分ほどのところにあった雑居ビル。バブル期のブームを牽引したディスコを多数抱えていた

ミッツィー申し訳:当時はそんな感じですね。西麻布が人気でしたね。あとP. PICASSO(※)とか。Soul 2 Soulが来日したのもその頃ですね。渋谷の明治通り沿いにあったモンクベリーズってディスコもDJ DOC. HOLIDAY(須永辰緒)さんとかDub Master Xさんとかが出てて、よく行ってました。

tofubeats:1980年代末の、日本のクラブミュージックの黎明期って感じですね。

ミッツィー申し訳:で、その後、家具屋で1年くらい働いたあと、宇都宮に戻って実家のファンシーショップで数年ほど働くんですけど、とにかく万引きに悩まされるんですよ。それで、「万引きされない商売、在庫を持たない商売がしたい!」と思って、クラブをやることにしたんです。飲食の経験から水商売の感覚もわかっていましたし。だからクラブを始めた理由は「音楽が好きだから」とかじゃないです。

※P. PICASSO:1985年に設立された西麻布のクラブ(1985〜1989年)。SOUND MUSEUM VISION(2011〜2022年)やContact Tokyo(2016〜2022年)を手がけた(株)グローバル・ハーツの代表・村田大造がプロデュース。東京のクラブカルチャー黎明期を支えた

ミッツィー申し訳:それで、その宇都宮の地下のスペースでPLANETを始めたんですけど、最初は3年くらいでやめるつもりで。ところが、知り合うDJが、もう次々と売れてくんです。それで店も大きい場所に引っ越して、「クラブバブル」のような時代の中で営業していくんです。

お客さんは毎回4人。『申し訳ないと』の原点は、DJやフロアへの嫌がらせ!?

─それが1990年代半ばですよね。「J-CLUB」という言葉はないけど、その中核となる人物が徐々に世に出始めた時期ですね。

ミッツィー申し訳:でも、毎日クラブにいると、クラブミュージックってものが、どんどんイヤになってくるんです。DJが音楽を「(選曲に)使える / 使えない」で判断するのとかも、よくないなーと思って。それで周囲に一番イヤがられることをしようと、「J-POPをクラブでかけよう」ということになるんです。それが『申し訳ないと』の原点ですね。

tofubeats:1990年代のクラブだと、日本語の曲をかけるのはご法度ですよね。

ミッツィー申し訳:そう、そこをオーナー自らやる。嫌がらせとしてのJ-POP DJですね。ただ、普通にかけるんじゃアンチテーゼにならないんですよ。ちゃんと技術のあるDJが、おふざけではなくちゃんとクラブマナーでJ-POPを繋ぐっていうのが大事。そのスタイルは日本全体のクラブの中でも早かったほうだと思いますね。

tofubeats:それが1996~7年ですよね。

ミッツィー申し訳:そう。その際、私より年上の、宇都宮のドンみたいな富豪(初期の『申し訳』メンバー)に「ミッツィー申し訳」と命名されて。だから、人にたまに言われるんですけど、別に自分から「光則だからミッツィー」と名乗ったわけではないんですが。とにかく、そうやって5名のDJで始めたのが初期の『申し訳』ですね。

tofubeats:アルセニオ申し訳でしたっけ? 名前だけで、存在しない謎のメンバーとかもいるらしいですけど(笑)。

ミッツィー申し訳:で、月一で『申し訳』が始まったんですけど、最初のころはお客さんが4人とかでしたね。毎回、4人。普通のイベンターならそこでやめるけど、オーナーだから辞めない。

すごいゲストを呼んで、そのゲスト回で他の回の分の赤字を埋める、みたいなやり方をするんです。そのゲストっていうのは、パパイヤ鈴木とおやじダンサーズとか、エスパー伊東さんなんですけど。

tofubeats:でも、そこもビジネス的な兼ね合いで面白いですよね。J-POPイベントという建付けなら、パパイヤ鈴木さんを呼べる訳じゃないですか。それを当時のクラブで考えて、やれる人っていなかったと思うんですよ。そういう経営者としての、いい意味での水商売っぽさのセンスがミッツィーさんはスゴいと思いますね。

─普通のクラブイベントだと接点がないけど、J-POPイベントなら「お茶の間」な有名人も呼べるということですね。

ミッツィー申し訳:まあ「森三中をクラブに呼ぶにはどうしたらいいか? まず西寺郷太を呼んで……」とか、そういうことをずっと考えていましたね。

tofubeats:(笑)

ミッツィー申し訳:まあお客さんにしても「ゲスト(有名人)が来るなら行く」って感じでしたからね。あと、店をやってるとどうしても「こわもての人」がやって来るんですけど、なぜか毎回、来るタイミングが『申し訳』の日で。モーニング娘。のパネルとかポスターとかベタベタ貼ってあるのを見て「ここはよくわからん」って感じでスゴスゴ帰ってましたね。

https://www.youtube.com/watch?v=Hb5eZU2xTJA
TBSラジオ『アフター6ジャンクション 2』の『申し訳ないと』特集回、その大まかな歴史を知ることができる

クラブでの「ご法度」をあえて犯し、J-POPでフロアの支持を集められたワケ

─宇多丸(RHYMESTER)さんなどが『申し訳』に加入して、メンバーがどんどん賑やかになっていくのは、いつ頃からですか?

ミッツィー申し訳:初期メンバーで3年くらいやってたんですけど、「◯◯申し訳Jr.」として、外部からメンバーが入ってくるのは2000年以降ですね。宇多丸さんは宇多丸さんで、東京で『さびしんぼナイト』とかでJ-POP DJをやってたんですけど、我々『申し訳』のミックスCDを聴いて「俺がやりたいことはこれだ!」と思ったらしく……。

tofubeats:宇多丸さんは『申し訳』に入門すべく、宇都宮に毎月自費で通うんですよね。

ミッツィー申し訳:毎月『申し訳』に来て、翌日に温泉に入って、鮎を食べて帰るコースですね。で、そこから「あの人もJ-POP DJやりそうだな」みたいな人に、どんどん声をかけてって。宇多丸さんの次に『申し訳』に入ったのが、掟ポルシェ(ロマンポルシェ。)さん。その次が、電撃ネットワークのギュウゾウさんかな。

https://www.youtube.com/watch?v=0yHDWYYAfJQ
『JAPANESE CLUB GROOVE DISC GUIDE』の『申し訳』対談の中で宇多丸は、クラブで遊ぶ中で「ここで〈抱いてHOLD ON ME!〉(1998年)がかかったらもっとみんな喜ぶのになぁ」というフラストレーションを抱えていたそうで、『申し訳ないと』はフロアの「ポピュラーデマンド」に応えるものであった旨を後述の対談記事の中で語っている

ミッツィー申し訳:だからPLANETという場所があって、そこにまず普通に出演してもらって、その流れで「入る?」みたいな感じですよね。で、宇多丸さんとか、ケツメイシとか、さらには大貫憲章さんとか、そういう人たちまで『申し訳』にいると、他のジャンルの人たちも文句言えなくなる。

tofubeats:押さえるべき人を押さえて。政治ですね(笑)。

ミッツィー申し訳:で、『申し訳』を東京に持っていって、また縁が広がった。だから『申し訳』はシステムというか、構造の強さで続けられたんですよ。

tofubeats:その『申し訳』絶頂期の2004〜5年ぐらいに、自分はクラブミュージックを聴き始めたんですよ。で、『タマフル(TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』)』などで『申し訳』のことを知って。『JAPANESE CLUB GROOVE DISC GUIDE』(2006年、宙出版)っていう本に、重要な対談が載ってて。

─宇多丸さんとミッツィーさんの『申し訳』対談ですね。

tofubeats:そうそう、2006年とかの本でなんですけど、ミッツィーさんが選曲について「大人の女性が多いと判断すると『OL向け』の選曲をして、今日は若い男性が多いと判断したら『学生向き』の選曲にする、その2択しかない、他はどうでもいい」と言ってて、自分はそれ読んだとき16歳とかですけど「クラブって、DJってそうなんや~」とか思ってましたね。

https://www.youtube.com/watch?v=3nJTSzVo3Kw
前述のディスクガイドで「切ないOL心を表現できるR&Bチューン」として紹介された嶋野百恵の楽曲、2000年リリースの『Roots』収録。嶋野百恵は『申し訳ないと』にも出演した。
https://www.youtube.com/watch?v=9f3502zX2Ik
同じく前述のディスクガイドでミッツィー申し訳は、m-floの『ASTROMANTIC CHARM SCHOOL』(2004年)を紹介する中で、「メロディアスかつダンサブル、学生&OL双方対応出来る理想のJ-POPアイコン」と評している

─その言葉に影響を受けたんですか?

tofubeats:まだDJが何を考えて選曲してるかとか全然知らないときに読んだから、かなり胸に残ってるというか。

ミッツィー申し訳:だから(tofubeatsが)一番受け継いでるのは「OL心」でしょうね。

tofubeats:古内東子を聴いて泣きたいっていう、そういう気持ちですね(笑)。

─トーフさんがDJを始めるにあたって、すごく影響があったと。

tofubeats:そうですね。その当時はまだ未成年なんですけど、学園祭とかカフェとかでちょっとDJやりだして。『申し訳』の影響でJ-POPをかけるんですけど、ひんしゅくを買って。

https://www.youtube.com/watch?v=8yLxSLweyIs

─その頃(2006年)でも、J-POP DJは下に見られてたんですね。

tofubeats:大阪だと、J-POPとかかけるのは450(ヨゴレ)って言われるような文化もあったんですよ。「ストイックなクラブミュージック」と「そうじゃないもの」という棲み分けが、2000年代はまだあったと思いますね、特に地方は。

ミッツィー申し訳:まだ「J」の看板は掲げられなかったと。「J」の十字架かな。「J」って字も十字架みたいな形してますよね?

tofubeats:(笑)

─ジャンルの棲み分けがそこまであったのは、クラブがまだ景気がよかった時代だったからなのかもしれませんね。最初はJ-POPを認めなかったクラブ側も、儲からなくなってくると、集客があるならJ-POPイベントもやらざるを得ないというか。

tofubeats:そうかもしれませんね。あとは世代ですね。自分みたいに、クラブに興味を持ち始めたときから『申し訳』みたいなイベントがあったから、最初から抵抗もないし。そもそも世の中全体的に「日本の曲はダサい、洋楽がエライ」みたいな価値観がめっちゃ衰退したってことでしょうね。もはや今となっては、ZEROTOKYO(※)みたいな大箱でボカロがかかってたりするわけで。

※ZEROTOKYO:2023年4月に新宿・歌舞伎町にオープンしたナイトエンターテインメント施設。オープニングパーティーにはLEXやKID FRESINOらヒップホップアーティスト、石野卓球や砂原良徳らが出演した。

─『申し訳』は、他に競合するようなイベントやシーンはなかったのでしょうか?

ミッツィー申し訳:1997年の始めた当初は、新宿2丁目の歌謡曲ナイトとか、そういうのぐらいですよね。曲をフルでかけて、歌うフリをするっていう、2丁目らしい文化のもの。

tofubeats:ヒップホップというか、「和モノ」ブームで、サディスティック・ミカ・バンドのブレイクを2枚使いで繋ぐ、みたいなDJは既にいたんじゃないですか?

ミッツィー申し訳:いや、自分の周りにはいなかったですね。「和モノ」っていうのも2000年代以降じゃないかな(※)。

tofubeats:たしかに『申し訳』は、そういう「和モノ」ともまた違う、もっと水商売っぽい雰囲気なのが特徴かもしれませんね。

※編注:『JAPANESE CLUB GROOVE DISC GUIDE』掲載の小西康陽、あいさとう(The Hair)、吉田哲人の鼎談記事では、編集者・ライターの北沢夏音によるクラブイベント『自由に歩いて愛して』(1993年〜2001年)が「和モノ」DJカルチャーの先鞭をつけたと説明されている

ミッツィー申し訳:(旧譜である)「和モノ」より、むしろJ-POPの新譜が聴けるイベントでしたからね。それこそRHYMESTERがついさっき録音してきた音源とか、そういうのが聴けるわけで。

tofubeats:新譜をとにかくクイック(1曲あたりのかける時間が短く、すぐ次の曲に行く)に繋ぐんですよね。『申し訳』って、J-CLUB的ではない、普通のJ-POPもミックスされるじゃないですか。それも当時は新しかったのかなと。

自分が『申し訳』に出た最初の頃に、自分でクラブミュージックっぽくエディットしたJ-POPを持っていったら、ミッツィーさんか誰かに「それは邪道だ」と言われたんですよ。「『申し訳』のDJは、トーフくんが思ってるDJっぽいDJじゃなくて、ただただJ-POPをワンコーラスごとにビュンビュンミックスするだけだ」というようなことを言われて、実際『申し訳』のDJを初めて観て、びっくりしたんですよね。

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