tofubeatsの新作EP『Angels On The Dancefloor』の先行シングルとなった”大丈夫 feat. 柴田聡子”は、tofubeatsのプロデューサーとしての並々ならぬ気迫と初夏の風のような軽やかさを感じさせるし、さらには柴田聡子の歌の新たな表情に出会える素晴らしい名曲だと思う。
今作の取材にあたり、tofubeatsの主宰レーベル「HIHATT」のチームから『J-POP DJ EVENT「申し訳ないと」』のミッツィー申し訳との対談の提案があった。「J-CLUB」をコンセプトにした新作だけでなく、同イベントに参加する中でtofubeatsは多大な影響を受けてきたのだという。そして2026年9月に『申し訳ないと』はラストパーティーを開催し、活動休止となることを受けて、その記録をどこかに刻みたいと考えたのだと。
かつてクラブではご法度だった日本語の曲をプレイするにとどまらず、J-POPの新譜をバンバンかけまくる『申し訳ないと』は現在に至る日本のクラブカルチャーにおいて重要な役割を果たしただけでなく、今では当たり前になったアイドルとクラブカルチャー、あるいはアイドルとヒップホップの文化をクロスオーバーさせる企てを仕掛けてきた集団でもある。
野田努企画・編集による『クラブ・ミュージックの文化誌: ハウス誕生からレイヴ・カルチャーまで』(1993年、宝島社)を紐解くと、「クラブミュージック」という言葉にはテクノやハウス、レイヴ、そしてジャズやロックといったジャンルや文化の垣根、人種の壁をも超えたものとしてある種の寛容さが内包されてきたことがわかるのだが、そのことを踏まえて「J-CLUB」の歴史を『申し訳ないと』の足跡と重ねて振り返る、というのがこの対談の趣旨である。
以下、tofubeatsと旧知の間柄のビートメイカー / ライターの小鉄昇一郎の司会進行でお送りいたします。
INDEX
「J-CLUB」って何だ? tofubeatsが新作で立ち返ったところ
─「J-CLUB」とは、そもそもどういったジャンルなんでしょうか。
tofubeats:J-POPのフィールドで販売されていた、日本産のクラブミュージックっていうニュアンスですかね。クラブに来ない人が聴くことも想定された、メジャーな流通のダンスミュージックというか。昔のTSUTAYAとか、CD屋さんに「J-CLUB」という棚があって、そこにまとめられていたんですよ。
─電気グルーヴとかm-flo、MONDO GROSSO、FPM、TOWA TEIとかですよね。ただ、卓球さんやテイさんが自ら「俺はJ-CLUBだ!」と言っていたわけではないですが。
tofubeats:そうですね。売り場につける名前として必要だったからという実務上の理由で生まれたジャンル名だと思うんですけどね。

1990年生まれ、神戸出身。在学中からインターネット上で活動を行い、2013年にスマッシュヒットした“水星 feat.オノマトペ大臣”を収録したアルバム『lost decade』を自主制作で発売。2013年のメジャーデビュー以降、5枚のアルバムを発表。最新作は2026年6月リリースのEP『Angels On The Dancefloor」。SMAP、平井堅、Crystal Kayのリミックスやゆずのサウンドプロデュースのほか、BGM制作、CM音楽等のクライアントワークや数誌でのコラム連載等、活動は多岐にわたる。
ミッツィー申し訳:日本人が作っているダンスミュージックには歌詞が英語のものも多くて、J-POPの棚ではないし、かといって洋楽でもない、ということで専用の棚が必要だったんじゃないですか。
tofubeats:要するにJ-POPの「J」なわけで、そういうテイストのあるクラブミュージック全般という。その適当な感じがいいんですよね。
─そういう「J-CLUB」の棚でCDを借りてた原体験に立ち返って、今回のEPができたと。
tofubeats:まあ、リアルタイムの世代ではありますね。あと、2020年に『TBEP』という初めてハウスミュージックに絞った作品を出したんですけど、その際にレコード会社の人から「トーフくんは、ボーカルもののハウスで名曲が作れたらいいよね」というようなことを言われて。
たしかに、DJでもハウスばっかりかけて、昔から曲も作っているけど、ヒットはないかもな、と思って。それ以来「J-CLUB最後の残党tofubeats」とか言い出して、半分冗談ではあるんですけど、J-CLUBを意識しだしたのはありますね。別に誰も「J-CLUB」って看板って背負ってないから、何も言われないだろうと(笑)。ハウス警察、テクノ警察はいても、J-CLUB警察はいない!
─ジャンルのスキマというか、暫定的に名付けられた場所というのが「J-CLUB」の面白がれるポイントですね。音楽的にこう、という定義もないし。
ミッツィー申し訳:まあでも、音楽的にはハウスでしょうね。ハウスの中でもニューヨーク風の、ちゃんとメロディーがあって、ストリングスとピアノがバンバン入るような。Def Mixやデヴィッド・モラレスが近いかな。それと女性のボーカルで、ジャケットはモデルさんで、みたいなイメージ。
tofubeats:もちろん1980年代から日本人のクラブミュージックのプロデューサーはいたわけですけど、棚を設けざるを得ないほどリリースの量が増えてきたのが2000年代なんでしょうね。おそらく、棚としてはまず「J-HIPHOP」というのが生まれて、その後だと思うんですけど。
ミッツィー申し訳:1990年代後半から、いろんなDJやアーティストがどんどん売れていきましたからね。

有限会社J−CLUB(有限会社申し訳改め)代表取締役。J-POP DJイベント『申し訳ないと』を主催し、日比谷野外大音楽堂、日本武道館、『SUMMER SONIC』など数々の大型イベントなどに出演。宇多丸(RHYMESTER)らをレギュラーメンバーに、イレギュラーメンバーとして小西康陽、綾小路翔(氣志團)、RYOJI(ケツメイシ)、tofubeatsらも名を連ねる。2026年9月、『TBSラジオ アフター6ジャンクション2 presents「申し訳ないと30th ANNIVERSARY & LAST PARTY」』を開催する。
INDEX
ミッツィー申し訳が居合わせた、日本のクラブカルチャー黎明期の現場
─ミッツィーさんはそういった1990年代の日本のクラブシーンを、クラブの経営者として、DJとしても見ていたわけですよね?
ミッツィー申し訳:1995年ですかね、栃木県宇都宮市のオリオン通りという商店街の地下で、PLANETというクラブをはじめたんです。ちなみに最近、宇都宮の市街地にクマが出たニュースがありましたけど、その現場の30メートルくらいの場所です。
tofubeats:(笑)
ミッツィー申し訳:宇都宮でゲストDJを呼ぶ形のイベントをしたのもウチが最初でしたけど、その最初が松本浩一(HOUSE FOUNDATION)さん。
tofubeats:ああ、和田アキ子さんの“FREE AT LAST”のプロデュースの。J-CLUBアンセムですね。

ミッツィー申し訳:そこから、いろんな知り合いや地元のディスコDJのツテで呼んだのが、大沢伸一(MONDO GROSSO)さん、沖野修也さん、RINO LATINA IIやTWIGY……。ヒップホップもハウスも、レゲエも全部やってましたね。
tofubeats:地方の箱はジャンル問わず何でもやりますよね。
─話が前後しますけど、そもそもミッツィーさんはなぜクラブをやろうと思ったんでしょうか? 昔から音楽が好きだったんですか?
ミッツィー申し訳:いや、『ベストヒット USA』を見たり、バンドでちょっとキーボードやろうとしたりって程度ですよ。譜面も読めないから、楽器買っても結局、人に譲ったり。タンテ買ってDJちょこちょこやりだして、みたいな感じでしたね。
tofubeats:もともとハードハウスのDJとかやってたんですよね。
ミッツィー申し訳:そうそう。で、18歳のとき、料理の専門学校に行くために上京して。六本木のレストランでバイトをするんですけど、そこの副支配人がもう生粋のディスコ遊び人で。仕事終わったらそのままスクエアビル(※)に行って、エレベーターで上から全部の階にご挨拶して、VIPルームでヘネシー呑んでって「次のビル行くぞ!」みたいな人だったんですよ。
tofubeats:バブルですね~。
※スクエアビル:六本木交差点から徒歩2分ほどのところにあった雑居ビル。バブル期のブームを牽引したディスコを多数抱えていた

ミッツィー申し訳:当時はそんな感じですね。西麻布が人気でしたね。あとP. PICASSO(※)とか。Soul 2 Soulが来日したのもその頃ですね。渋谷の明治通り沿いにあったモンクベリーズってディスコもDJ DOC. HOLIDAY(須永辰緒)さんとかDub Master Xさんとかが出てて、よく行ってました。
tofubeats:1980年代末の、日本のクラブミュージックの黎明期って感じですね。
ミッツィー申し訳:で、その後、家具屋で1年くらい働いたあと、宇都宮に戻って実家のファンシーショップで数年ほど働くんですけど、とにかく万引きに悩まされるんですよ。それで、「万引きされない商売、在庫を持たない商売がしたい!」と思って、クラブをやることにしたんです。飲食の経験から水商売の感覚もわかっていましたし。だからクラブを始めた理由は「音楽が好きだから」とかじゃないです。
※P. PICASSO:1985年に設立された西麻布のクラブ(1985〜1989年)。SOUND MUSEUM VISION(2011〜2022年)やContact Tokyo(2016〜2022年)を手がけた(株)グローバル・ハーツの代表・村田大造がプロデュース。東京のクラブカルチャー黎明期を支えた

ミッツィー申し訳:それで、その宇都宮の地下のスペースでPLANETを始めたんですけど、最初は3年くらいでやめるつもりで。ところが、知り合うDJが、もう次々と売れてくんです。それで店も大きい場所に引っ越して、「クラブバブル」のような時代の中で営業していくんです。
INDEX
お客さんは毎回4人。『申し訳ないと』の原点は、DJやフロアへの嫌がらせ!?
─それが1990年代半ばですよね。「J-CLUB」という言葉はないけど、その中核となる人物が徐々に世に出始めた時期ですね。
ミッツィー申し訳:でも、毎日クラブにいると、クラブミュージックってものが、どんどんイヤになってくるんです。DJが音楽を「(選曲に)使える / 使えない」で判断するのとかも、よくないなーと思って。それで周囲に一番イヤがられることをしようと、「J-POPをクラブでかけよう」ということになるんです。それが『申し訳ないと』の原点ですね。
tofubeats:1990年代のクラブだと、日本語の曲をかけるのはご法度ですよね。
ミッツィー申し訳:そう、そこをオーナー自らやる。嫌がらせとしてのJ-POP DJですね。ただ、普通にかけるんじゃアンチテーゼにならないんですよ。ちゃんと技術のあるDJが、おふざけではなくちゃんとクラブマナーでJ-POPを繋ぐっていうのが大事。そのスタイルは日本全体のクラブの中でも早かったほうだと思いますね。
tofubeats:それが1996~7年ですよね。
ミッツィー申し訳:そう。その際、私より年上の、宇都宮のドンみたいな富豪(初期の『申し訳』メンバー)に「ミッツィー申し訳」と命名されて。だから、人にたまに言われるんですけど、別に自分から「光則だからミッツィー」と名乗ったわけではないんですが。とにかく、そうやって5名のDJで始めたのが初期の『申し訳』ですね。
tofubeats:アルセニオ申し訳でしたっけ? 名前だけで、存在しない謎のメンバーとかもいるらしいですけど(笑)。

ミッツィー申し訳:で、月一で『申し訳』が始まったんですけど、最初のころはお客さんが4人とかでしたね。毎回、4人。普通のイベンターならそこでやめるけど、オーナーだから辞めない。
すごいゲストを呼んで、そのゲスト回で他の回の分の赤字を埋める、みたいなやり方をするんです。そのゲストっていうのは、パパイヤ鈴木とおやじダンサーズとか、エスパー伊東さんなんですけど。
tofubeats:でも、そこもビジネス的な兼ね合いで面白いですよね。J-POPイベントという建付けなら、パパイヤ鈴木さんを呼べる訳じゃないですか。それを当時のクラブで考えて、やれる人っていなかったと思うんですよ。そういう経営者としての、いい意味での水商売っぽさのセンスがミッツィーさんはスゴいと思いますね。
─普通のクラブイベントだと接点がないけど、J-POPイベントなら「お茶の間」な有名人も呼べるということですね。
ミッツィー申し訳:まあ「森三中をクラブに呼ぶにはどうしたらいいか? まず西寺郷太を呼んで……」とか、そういうことをずっと考えていましたね。
tofubeats:(笑)
ミッツィー申し訳:まあお客さんにしても「ゲスト(有名人)が来るなら行く」って感じでしたからね。あと、店をやってるとどうしても「こわもての人」がやって来るんですけど、なぜか毎回、来るタイミングが『申し訳』の日で。モーニング娘。のパネルとかポスターとかベタベタ貼ってあるのを見て「ここはよくわからん」って感じでスゴスゴ帰ってましたね。