村上春樹の新刊発売は、ある種の「お祭り」だ。読んだ誰もが一言言いたくなるし、人の感想にうなづいたり、あるいは反駁することもまたその祝祭性を構成している。
NiEWでは今回、全国でインディペンデントな書店を営む店主たちに『夏帆 The Tale of KAHO』の「感想文」を依頼した。本好きにとって「街の身近な目利き」ともいえる彼らは、村上春樹3年ぶりの新作長編をどう読んだのか。村上作品へのスタンスもそれぞれな3人による三者三様の読書体験を、『夏帆』とあわせて楽しんでもらえたら幸いだ。
※本記事には書籍の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
INDEX
「村上にとって初めて腹を括って書いたおとぎ話なのではないか」(twililight 熊谷充紘)
文芸誌『新潮』で連載されていたのは知っていたが未読だった村上春樹の最新長編『夏帆』。
前情報を整理すると、本作の初出は、川上未映子とのコラボで2024年3月1日に早稲田大学大隈講堂で行われた『春のみみずく朗読会』で、作者が自ら朗読して発表された「夏帆」とのこと。その後、雑誌『新潮』2024年6月号に創刊120周年記念特大号の目玉として掲載され、以後3回にわたり断続的に連載された。刊行にあたり作者は、計4回のシリーズに加筆修正して長篇の体裁を整えた。女性単独の主人公は初めて。

三軒茶屋で本屋&ギャラリー&カフェ『twililight』を営む。出版社としても、レベッカ・ブラウン/柴田元幸訳『体の贈り物』、大崎清夏『私運転日記』、きくちゆみこ『人といることの、すさまじさとすばらしさ』などを刊行。本と出会う場を広げるべく、イベント企画や選書、執筆も行う。これまでに「SHIPS HAPPY HOLIDAYS」選書、渋谷PARCO「あいとあいまい」選書&出店、LUSH「BATHING & POETRY」選書&インタスレーションなど。屋上でぼんやりする時間が好き。
この情報を持って第一章「夏帆とモーターサイクルの男」を読んだ感想は、川上未映子との関係性から生まれた、とても朗読向きの作品ということだった。十代から村上文学の愛読者だった川上は、村上への計13時間に及ぶ比類なき超ロングインタビューを『みみずくは黄昏に飛びたつ―川上未映子訊く 村上春樹語る―』(2017年)という本にまとめた。インタビュアーとしての川上の真摯な姿を、村上が信頼して、誠実に答えている様子が伝わってくる。
中でもこのインタビュー集の白眉と言えるのが、「女性の性的な役割」についての質問。村上文学内で女性たちは女性としての役割を負わされるあまり、男性である主人公の犠牲になっているのではないか、という違和感を川上は村上に正面からぶつける。
その問いに村上はもちろん誠実に答えているのだが、時を経て、新たなひとつの回答として、イベント用に女性単独主人公の短篇を書いてみたのではないだろうか。しかも朗読が前提だったので、耳から聞いても混乱せずに追うことができるように、文章は凝らずにシンプルで、時系列も錯綜しないストレートストーリーで、そして聴衆を眠らせないようグリップするために、「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」という強烈な台詞から始める。そういう取っ掛かりから書き始めたのではないか。だからその後書き継いでいった連載も、かつてないほどシンプルな文体を採用しているのではないか。
シンプルな言葉のストレートストーリーと言えば、親が子どもに読み聞かせる絵本が思い浮かぶ。そしてその元になった昔話、童話、神話が。そこでは、物語はもともと現実と明確に分かれておらず、予測を超えた何かが起こる。それはすべてが好ましいものとは限らない。それが自分の身に生じた理由は完全には明らかにできず、突き詰めれば偶然でしかないかもしれない。それでも自分の人生にとってその偶然を受け入れるかどうか、そこから自分の生をつくっていけるかどうか、が描かれる。夏帆はまさにそういった神話的物語に巻き込まれて、自分自身とあらためて出会い、私が、私という存在になって、生還する。そして夏帆自身の職業が絵本作家であるのも必然だろう。自身の経験を、行って、戻ってきた者として絵本にし、開放的で、互いを受け入れて、与え合うような物語を世界に向けて提案する。
これは私にとって大事な意味を持つ夢なのだ。私の人生は帳簿で操作されたり、貸方と借方で簡単に処理されたりする種類のものではない。
(「夏帆とモーターサイクルの男」より)
おとぎ話とはただのファンタジーではなく、人間の暗くて、深いところで実際に起きていることを提示してくれる物語だと思う。分析的に論理的に解釈できないからこそ、私というものが大きな一つの声に収斂されない、自由が生まれる。
The Tale of KAHOという標題。もしかしたら村上にとって初めて腹を括って書いたおとぎ話なのではないか。
今の社会には十全に生きることを阻む「何か」があり、それゆえ本当に生きるのが難しいということこそが、私たちの日々の生活にしんどさをもたらしている。そこで必要とされるのがおとぎ話だ。物語によって社会構造の外に出ることで、一人ひとりが独自の本当の部分に触れることができて、癒される。
善き物語を語り継いでいくんだという村上の強い意志を感じ、次の作品がさらに楽しみになった。私も本屋として善き物語をお客さんに手渡していきたいし、村上の本を開く時に読者が出会う自由や遊び心を、twililightの扉を開けた時にもお客さんに出会ってもらえるよう、日々チャレンジしていきたい。
(twililight 熊谷充紘)
INDEX
「こんなふうに村上作品で泣かせられるとは」(BOOKNERD 早坂大輔)
いやはや、お恥ずかしい限りなのですが、村上春樹作品は『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)以降まったくと言っていいほど読んでいないのです。いや、正確を期するならば『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)や『女のいない男たち』(2014年、文藝春秋)などの短編集は好んで読んでいますし、『炎天雨天』(1990年)や『意味がなければスイングはない』(2005年)などのエッセイはほぼ読んでおりますが。どうにもこうにも、ある時期からの村上作品が内包する肥大化したメタ文学性といいますか、あのような世界観がどうにも苦手で。ですからまず、ぼくのような村上作品の熱心ではない読者が村上作品を語る資格などあるのだろうか、というのがこのお話をいただいたときに考えたことで。丁寧にお断りしようとメールを返信しかけたのですが、待てよ、物の見方を変えるならば、今回の『夏帆』もおそらく今後一生手に取ることはないでしょうし、ならばこのようなお話をいただいたことで、半ば強引に村上春樹の長編を読むことができるのではないか。そう思いとどまった次第です。

1975年生まれ。サラリーマンを経て、2017年に岩手県盛岡市に新刊・古書店〈BOOKNERD〉を開業。書店経営の傍ら、出版も手がける。
読み終えてみて、結論から申し上げるならば、過去の村上作品でぼくがいちいち引っかかっていた要素はなりをひそめていたような。いや、ありくいの夫婦だとか、ケルアック的な守護天使だとか、相変わらず荒唐無稽な登場人物はもちろん出てきたわけですが、そうした現実離れしたキャラクターはむしろ良いアクセントになっていて、主軸にある母と娘のシンプルで静的な物語を純粋に追いかけることができたような気がします。
そういえばこの『夏帆』は、村上作品でも珍しい主人公が女性なんですよね。『ニューヨークタイムズ』紙で、村上作品における女性の描き方について「一面的で、周縁化され、過度に性対象化している」と批判されたことも影響しているのでしょうか。三人称で書かれていることもあってか、主人公である夏帆への書き手としての寄り添い方、その眼差しがどことなく父親的であることが印象に残りました。
例えばある時代の映画や小説というのは、物語の主人公である男性が己の生や実存を確認するための目的がセックスで、女性はその手段であるような描かれ方をずっとされてきた。村上作品もきっとそうであったわけなんですけど、今は書き手が自身のOSを社会のコンプライアンスに沿うようにアップデートさせないと、あらゆるところから投石されてしまう時代なんですよね。そこのところを彼は今回の作品でようやく意識的に配慮したんでしょうか。
まだお読みになっていない読者のためにもちろんネタばらしはしませんが、この作品の主題は母親との関係において、無意識下で抑圧されてきた一人の女性が「母親殺し」によって晴れて母の影響下から自立し、成長していく、言うなればカミング・オブ・エイジ的な筋書きだと思うんです。社会に出てもなお、母親を理解できず、その関係性にモヤモヤしながら生きている娘。支配者と従者、ある種のコインの表と裏のような同一性を持った母子関係があることをきっかけに瓦解し、ユングが言うところの「母親殺し」によって、娘が主体性を獲得し人間としても成長していく。
最後の母親の台詞は母子分離によって心理的な離乳をはたした娘への離別の言葉とも言えるし、自分を乗り越えていった娘へのはなむけの言葉とも取れますよね。ぼくもいちおう一人の人間の親であるわけなのですが、こんなふうに村上作品で泣かせられるとは。かつては想像もしなかったですね。主人公が自立し、成長してゆく物語と、絵本作家である主人公が描く絵本のストーリーの入れ子構造とか、極限までに贅肉を削ぎ落としたナラティブに潜む、揺るぎないヒューマニズムだとか、70代後半を迎え、病を経験した老作家が開拓した新境地なのではないでしょうか。いや、長編読んでないお前が偉そうに語るなって話なんですけどね。
(BOOKNERD 早坂大輔)