新津由衣のセカンドアルバム『傑作』が4月10日にサブスクで配信リリースされた。本作は2022年末に自身のライブとECサイトでまずファンに向けてフィジカルでリリースされていたが、満を持してのサブスク解禁となった。
2003年、当時高校生だった新津は「RYTHEMのYUI」としてメジャーデビューし、華やかな表舞台で活躍したのち、2011年にソロになってからは名義を「Neat’s」に変更し、DIYなスタイルでの活動をスタート。2017年に名義を「新津由衣」としてからは、自身の作品を発表するだけでなく、プロデュースや楽曲提供、音大の講師を務め、さらに2021年にはRYTHEMの再始動を発表して、現在も多岐にわたる活動を行っている。『傑作』はそんな20年間の音楽人生をすべて詰め込んだ、自伝のような作品だと言っていいだろう。
今回の取材ではレコーディング・ミックスからマスタリングまでを手掛け、ジャズやクラシックを内包した「令和のシンガーソングライターによるポップスのスタンダード」としての『傑作』に大きな貢献を果たしたプロデューサーの石崎光を迎え、新津とともに傑作誕生に至る濃密な日々をたっぷり振り返ってもらった。
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心が全て折れてしまったRYTHEMの解散。「今振り返ると、Neat’sは自分を再生させるセラピーだった」
―コロナ禍やRYTHEMの再始動など、近年は環境的にも多くの変化があったかと思いますが、『傑作』の制作はいつごろからスタートしたのでしょうか?
新津:2020年の4月にワンマンライブをやろうとしていて、そこに向けてアルバムを作り上げる予定だったんですよ。でも途中でコロナになってライブを中止にせざるを得なくなり、アルバムのリリースも1回なしになっちゃったんです。
―表立った活動がストップしてしまった一方で、他にはどんな活動をしていましたか?
新津:堀内まり菜ちゃんというアーティストのプロデュースのお仕事をいただいて、それで毎月曲を作っていました。あと2019年から音大(昭和音楽大学のサウンドプロデュースコース)の講師をやり始めていたので、そのふたつに重きを置いて、それによって外からの目が自分の中でどんどん育っていったんです。
堀内まり菜ちゃんから要望していただく私のエッセンスが、RYTHEMで開けていた箱ーーノスタルジックな世界観を求められているような気がして、改めて自分を見直すというか、「新津由衣という才能のどこの何がみなさんに提供できるものなんだっけ?」っていうのを洗い出しながら、プロデュースや先生をやっていた気がします。
―2011年にRYTHEMが解散して、Neat’s名義での活動を開始して以降は「自分の表現」とひたすら向き合い続けてきたように思いますが、他のお仕事もされることによって、自分に対しての客観的な目線ができてきたと。
新津:Neat’sというプロジェクトは、RYTHEMの解散で心が全て折れてしまったところから、自分を再生させるためのセラピーも兼ねていたんだと思います。当時は自分の心を失って、精神的にとても不安定になっていて。私の中で「音楽」と「生きる」ということはずっとセットで、その両方が共倒れになっちゃったのを、今一度立て直したい。そのためのプロジェクトがNeat’sだったのではないかと思ったりします。
―Neat’sとしては2012年、2013年、2014年と連続でアルバムを発表していて、とにかく動き続けることがセラピーにもなっていた。
新津:そうですね。とにかく作ることが生きがいで、救われている感じはあったし、それによって自分を肯定してあげられた時間でした。
今ふと思い出したんですけど、そこから新津由衣に名義を変えたときは、社会貢献みたいなことについて考えていたんですよ。それまでは自分のことで精一杯で、自分には何ができるのか、自分は何者なのか、それを見つけることに精一杯だったけど、心が修復して、自分のことを今一度認めたり、愛することができたときに、自分が社会の歯車としてーー普通に会社員として働くことはできないタイプだったんですけど、自分が持っている能力で世の中の人が欲してくれるものがあるのであれば、それを磨き続けたいと思った。そこもプロデュースや先生のお仕事をいただいたことで振り返れたんですよね。
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1年も音信不通に。石崎光が問いかけた「この曲じゃダメだよね」の真意
―石崎さんは2019年に新津由衣名義で発表されたミニアルバム『まるとさんかく』にも関わられていましたね。
石崎:僕が由衣ちゃんに会ったときはまだちょっと悩んでるというか、煮詰まってるなと思ったんです。やりたいことをやれてるんだけど、どこか腑に落ちてないんだろうな、みたいな。でも当時は呼ばれた身だったし、やんわり距離を取りつつ、どこで確信的な話をするか、チャンスをうかがっていました。そういうなかで、由衣ちゃんが1人で僕のスタジオに来るってなったときに、「今日はスタッフもいないしチャンスだな」と思って、心の内をちょっと探ってみようかなって。
新津:カウンセリングですね(笑)。
石崎:そんなつもりじゃなかったんだけどね(笑)。でもやっぱり煮詰まってる感があったから、「じゃあ、一回じっくり作ってみない?」って話をしたんです。それがこのアルバムの始まり。まあ、そこからまた苦悩の日々が繰り広げられるんですけど(笑)。
新津:光さんとはNeat’s時代から一緒にやりたいと思っていたので、私という人間とすごく向き合ってくれて本当に嬉しかったんです。でも当時はコロナ禍もあって音楽をやる人間としての整理がまだついてなくて……そこから私1年ぐらい音信不通になりましたよね(笑)。
石崎:そうそう。一回話をしてからね(笑)。
新津:まだ自分の中で覚悟が定まってないような感じがしたし、光さんと作る作品は本当にやばいと思えるものじゃないと自分も納得できないなと思って。
石崎:自分としても、今までの新津由衣とかNeat’sとかRYTHEMとかはどうでもよくて、とにかく今の新津由衣が新しい作品を出して、それが面白いと思われないなら全く意味をなさないと思っていました。その正直な思いを話したら由衣ちゃんも納得してくれたので、「だったらこの曲じゃダメだよね。もっと絞り出して作ったものを僕は見たい」って伝えて。
―新津由衣ならもっと面白い曲を作れるはずだと。
石崎:由衣ちゃんはホントすごく器用なんですよ。「曲作って」って言ったら多分、30分とか1時間でもできちゃうタイプ。でも果たしてそれでいいのか。その器用さは才能だし評価されるべきではあるけど、その楽曲を世に問うたときに、本当に評価してもらえるものなのか。やるならそこまでの気概でやらないと意味がないと思って、僕はある種それを突き付けちゃったんですけど……1年音信不通になる、みたいな感じでした(笑)。
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RYTHEMの再始動と、シンガーソングライターとしての最高峰の模索
―その1年は新津さんにとってどんな1年でしたか?
新津:ちょうどRYTHEM再始動の時期でもあったんです。コロナ禍になって、「私が音楽で世の中に貢献するには?」と考えるようになったときに、RYTHEMの音楽がコロナで寂れてしまった世界の人たちの心に届くんじゃないかとよぎったときがあって。本当にありがたいことに、ファンのみなさんはデビュー記念日とかに「今でも聴いてます」っていう声を毎年届けてくださっていて、「期待に応える準備が今の私ならあるぞ」と、その頃生まれた“メロディ”という曲の歌詞に「RYTHEMとしてもう一度歌を歌いたい」っていう気持ちを書きました。それで、YUKAに再始動の話をしに行ったんです。
―それもあって、新津由衣としての動きが止まってしまったと。
新津:RYTHEMとしてのクリエイティブの責任を取ることと、新津由衣として、人間の皮をブワッと上げて、自分の中のモンスターを表に出す作業は全然別ものだから、それを同じ熱量でやれるかどうかにはまだ迷いがあって。毎日3曲ぐらい曲を作って、1ヶ月で100曲ぐらいのデモができたんですけど、全部ボツボックスに入れてたんですよ。本当に大スランプ。曲は出てくるけど、全部知ってる世界っていう感じだったんです。
―まさに石崎さんが言う通りだったわけですね。
新津:「もうこれ以上の驚きは私の中にはないの? 感受性死んだの?」っていう感じ。それで光さんにZoomで相談をしたら、「由衣ちゃんは自由なものを作りたいんじゃない?」「ベートーベンとかバッハとか、そういう作曲家たちのように『作曲をする』っていうことをもっと突き詰めたら?」って言ってくれて。
石崎:何となく弾いて、何となく歌って、何となく作ったメロディじゃなくて、音符一音一音を突き詰めて、「ミの次は本当にソでいいのか」みたいな、1回そこまで考えてみたら? っていう話をしたんですよね。「本来の意味での作曲をしてみよう」みたいなね。
―クラシックであり、スタンダードと呼ばれる音楽を一度自分なりに解釈・理解して、その上で自由な創作を目指すのがいいのではないかと。
石崎:まさにそうで、フィジカルに感じるいい悪いではなく、本当に作品として捉えたときの良し悪しを俯瞰して、客観的に見れるようになって欲しいっていう話をしたんです。
新津:100曲ボツにしたのは感覚的なもので、そのときの気分とか心模様をただ吐き出してる感じだったんです。そうじゃなくて、「新津由衣が令和のシンガーソングライターとして出せる音楽の最高峰はここに詰まってるのか?」って、もう一回デモを聴き直して、「ここよさそう、今光った!」みたいな、そういう風に少しずつ音を紡いでいきました。アーティストとして自分を見ている目と、プロデュースや先生として自分を見ている目と、両極端な目ができちゃった感じだったので、そこからはその両方を使って、行ったり来たりしながら作っていくような作業でしたね。