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その選曲が、映画をつくる

『メイ・ディセンバー ゆれる真実』実在の事件を安易なエンタメにしない誠実さ

2024.7.11

#MOVIE

36歳の女性が13歳の少年と不倫関係となり逮捕、獄中出産し出所後に結婚——

実際にあった衝撃的な事件をモチーフに、『ベルベット・ゴールドマイン』『エデンより彼方に』『キャロル』などで社会的な題材を巧みに扱ってきたトッド・ヘインズ監督がメガホンを取り、ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーアが共演した映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』が、7月12日(金)に公開となる。

音楽ディレクター / 評論家の柴崎祐二は、本作の特異な音楽使用や、作中にも登場するキーワード「認識論的相対主義」に着目。本作から垣間見える製作陣の誠実さと批評性を読み解く。連載「その選曲が、映画をつくる」第16回。

※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

象徴的な、「feel seen」という慣用句

「I want you to feel seen」。本作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』の冒頭、テレビや映画を舞台に活躍する女優エリザベス(ナタリー・ポートマン)が、次回の出演作で自らが扮することになる女性グレイシー(ジュリアン・ムーア)宅のホームパーティーを訪れるシーンで、初対面のあいさつに続けて発する台詞だ。直訳するならば、「私は貴方に、見られていると感じてほしい」となる。しかし、ここで用いられている「feel seen」とは、いかにも現代アメリカらしい慣用句の一種で、「(自分を見透かされていると感じるほどに)心から共感する」といった意味を持つ。

日本語版の字幕では「安心していただきたくて」と更にスムーズな意訳が当てられているので、ついスルーしてしまいそうになるが、この「feel seen」という文字列の原意と、慣用句としての意味の(よくよく考えなおしてみると)微妙な距離感こそは、本作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』が湛える妙な不可思議さを象徴しているように感じられる。なぜ「見られている」ことが「共感」や「安心」につながるのか。人は、内面を見透かされたら、見透かした側の人間に共感と安心を覚えるものだろうか。もっといえば、「見透かす / される」とは、そもそもどんなことなのだろうか。

エリザベスを演じたナタリー・ポートマンは、本作のプロデューサーにも名を連ねている。

本作『メイ・ディセンバー ゆれる真実』は、『キャロル』や『アイム・ノット・ゼア』など、多くの作品が高く評価されてきた現代の巨匠トッド・ヘインズが、ナタリー・ポートマンとジュリアン・ムーアという現代を代表する名優二人とタッグを組んだ、目下の最新作だ。

『エデンより彼方に』からのヘインズ組の常連であるムーアと、初顔合わせとなるポートマンが見せる演技合戦の見事さや、元はキャスティングディレクターを務めていたという新鋭サミー・バーチによる卓越した脚本、そしてもちろん、ヘインズ監督一流の審美的な演出 / 画面づくりなど、昨年のカンヌ国際映画祭でのプレミア上映以来、多くの点で批評家や観客からの高い評価を集めている作品である。

あらすじを紹介しよう。主人公は、女優のエリザベスと、彼女が次回作で演じる役柄のモデルとなる一般女性グレイシーの二人だ。グレイシーは、かつて彼女が36歳の時、当時務めていたペットショップのアルバイト店員と不倫関係にあった。いや、不倫というのは穏当すぎる表現だろう。なぜならそのアルバイト店員のジョーは、彼女の息子ジョージーの友人で、関係が発覚した当時はたったの13歳という若さだったのだから。しかも、グレイシーはジョーの子供を身ごもっており、児童への性暴行の罪で逮捕され実刑判決が下った後の服役中、獄中でその子を出産したのだった。この事件は、多くの人々にショックを与え、グレイシーとジョー当人たちのみならず、彼らの家族や知人たちをも巻き込みながら、様々な憶測と誹謗中傷が吹き荒れる一大スキャンダルとなった。しかし、そのような逆風の中にあってグレイシーは出獄後にジョーと正式に結婚、新たな家庭を築いていったのだった。

ボタンをかけ違えたまま進行するような、妙な感覚

驚くべきことにこの設定は、1996年に起きた実在の事件=通称「メイ・ディセンバー事件」を元にしている(*)。実際の事件も、(固有名詞や細かな設定の外は)上に書いたのとほぼ同じ顛末をたどっており、当時のアメリカ社会に大きな衝撃を与えたことで知られている。

*「メイ・ディセンバー」=「5月12月」とは、極端に年の離れたカップルを指すスラング。

とすると、この映画も事件に至る道程や発覚後の喧騒をスキャンダラスに取り上げているものと思われるかもしれないが、そうではない。事件の顛末自体は描かれておらず、二人の結婚から更に20数年後を舞台としているのだ。

上で述べた通り物語は、次回出演映画でグレイシーを演じることになったエリザベスが、グレイシーとジョーの一家の元へ、役作りの取材のために訪れるシーンから始まる。日常を共にすることでグレイシーの真実の顔へと迫ろうとするエリザベスは、徐々に、グレイシーおよび件の出来事に対して単なる取材を超えた強い興味を抱くようになっていく。「真実」の追求に没頭し、いつしか自らとグレイシーを重ね合わせるように変幻していくエリザベスは、一体どこへ向かおうとしているのだろうか。彼女は、ジョーをはじめ、彼の子どもたちやエリザベスの元家族たち、知人たちとの邂逅を通じて、「真実」を追い求めていくが、それは果たして彼女が欲していた「真実」なのだろうか。それとも……。

グレイシー(ジュリアン・ムーア)とジョー(チャールズ・メルトン)。

本作は、題材の重苦しさもあいまって、いかにも重厚なミステリー映画の外見をしている(ように見える)。暗示的なほのめかしが張り巡らされたプロットは、一種の謎解き的な鑑賞へと観客を誘っていく。しかし実際のところは、これみよがしなフリに対して答えが置き去りにされることもしばしばで、「伏線の回収」の見事さで観るものの欲望に応えようとするような、一般的な意味でのエンターテイメント性に貫かれているとはいい難い。むしろ、どこかでボタンをかけ違えているのに、しかもそれに自らがうっすらと気付いているのにも関わらずそのまま歩みを進めていくようなチグハグ感が全編に渡って持続していく。注意深く画面とプロットを追っていくほどにその注意が想定とは異なる別の場所へ運ばれてしまうような、そういった妙な感覚が、始まりから終わりまで、うっすらと付いて離れることがないのである。

「異化効果」をもたらす音楽の転用

こうした感覚は、ショット、編集、役者のセリフや身体の動き、あるいは一部の小道具に至るまで、実に細かな各要素によって醸成されているものだが、中でも最も鮮烈な効果を上げているのが、音楽の存在だ。

冒頭のタイトルバックから、ピアノとストリングスによるやけにかしこまったような、それでいてミステリアスで叙情的な音楽が付けられており、多くの観客は、これから始まる映画が湿潤な情感に満ちたミステリー作品であることを期待してしまうだろう。しかし、それにしたとしてもこのトラックは、2023年に制作された映画のスコアとしては妙に古めかしく聴こえないだろうか(音質の面でも、ところどころ音がひび割れてしまっているのがわかるはずだ)。

実をいえば、この曲を含め、本編で使用されている音楽のかなりの部分は、過去のある映画作品からの(再構成を経たうえでの)転用なのだ。その作品とは、ジョセフ・ロージー監督による1971年公開の傑作メロドラマ『恋』である。ここで使われているのは、巨匠ミシェル・ルグランが同作のために書き下ろしたスコアなのだ。

https://open.spotify.com/intl-ja/track/087dQqg5DDTXsclUJi9QL7?si=cfd18f5dc2a74b35

過去の作品のサウンドトラックを新たな作品のために転用する例は、映画史を紐解いてみればそれほど珍しいものではない。だが、そうした用例においては、「過去」(当該過去作品自体を含め)の表象として記号的に引用される例がほとんどを占めてきた。たしかにロージーの『恋』は、本作と同じく年の離れた男女のロマンスとそれによってもたらされる悲劇を題材にしている。しかし、ここでの『恋』のスコアの転用の仕方は、単に題材が類似した作品との連関をほのめかすのとは、少し様子が異なるように感じられる。ヘインズおよび音楽担当のマーセロ・ザーヴォスが企図しているのは、シネフィルへの単なるトリビア的な目配せを超えた、もっと劇的な効果であるはずだ。

その効果とはまさしく、先ほど触れた「ボタンをかけ違えている」ような感覚への誘導と持続にほかならないだろう。

象徴的なシーンがある。冒頭のホームパーティーの中、冷蔵庫を開けてホットドッグが足りないことに気付いたグレイシーの深刻そうな表情に被せる形で、この重厚なメインテーマの一部が鳴り響くのだ。それでいて、ホットドッグの不足は、その後の展開と具体的につながっているわけではない。このくだりは、端的にいって相当に滑稽である。些細な出来事に、いかにもミステリーの導入めいた音楽を流すというのは、いわゆる音楽の「異化効果」の確信犯的な転用というべきものだろう。

本作における音楽の使用法は、日常的な光景を奇特なものへと変幻させてしまう異化効果とミステリー惹起の機能を十二分に自覚しつつ(*)、その先にある劇的な結果の提示をあえて回避することで、ミステリーそれ自体を不安定な宙吊り状態に保ってしまうのだ。ハッとしたところで、だからといってその先に何か謎解きの核心めいた何か(=「真実」)が待ち構えているわけではないことを、音楽と映されるものの明らかな不協和が巧みに予告しているといえる。

*「(その形状から男根を想起させる)ホットドッグの不足」という、精神分析的な意味を見いだせなくもなさそうなモチーフに音楽を当てているのも、実に確信犯的である。

その後映画は、幾度となくエモーションに満ちたメロドラマの方へと進んでいこうとする(ように見える)。そして、それらの各場面で、やはり音楽が多義的な作用を司っているのがわかる。冒頭のホットドッグのくだりを経てもなお心のどこかで正道的なメロドラマ〜ミステリーの展開を期待してしまう私たちは、ルグラン(およびザーヴォスによる)いかにも情感豊かなトラックがここぞとばかりに現れるたび、(そうは意識せずとも)そっとポケットからハンカチを取り出す準備をしてしまうのだ。しかしながら、それと同時に、またしても確信犯的なミスリードへと誘われているかも知れないことへ、必要以上に敏感になっている自分自身を発見することだろう。

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