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その選曲が、映画をつくる

『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』元首相誘拐事件を描いた長編作の「if」

2024.8.8

#MOVIE

マルコ・ベロッキオ監督『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』が8月9日(金)より公開となる。1978年のイタリア元首相誘拐暗殺事件を、犯人グループの一人、被害者の妻、ローマ法皇など関係者の多角的な視点から、ときに幻想やあからさまな虚構をも交え、虚実の境界を曖昧にしながら描いていく大作だ。

評論家の柴崎祐二は、本作の「虚構」について、単に幻惑的な演出であるのみならず、歴史的事件を物語として扱うことについての内省的な問いになっているのではないかと指摘する。連載「その選曲が、映画をつくる」第17回。

※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。

イタリア元首相誘拐事件を「外」から多面的に描く

1978年3月16日、午前9時2分、ローマ市中心部のマリオ・ファーニ通り。元首相でキリスト教民主党党首のアルド・モーロが、何者かによって誘拐された。

当時のイタリア社会では、極右・極左によるテロが横行し、殺傷・誘拐事件が頻発していた。極左武装グループ「赤い旅団」によって引き起こされたアルド・モーロの誘拐とそれに伴う5人の護衛官の射殺、55日間に及んだモーロ監禁と「人民裁判」の末の殺害という衝撃的な顛末は、暴力闘争が猖獗を極めたいわゆる「鉛の時代」を象徴する出来事として記憶されている。これまでに膨大な研究が積み重ねられ、数多く書籍が刊行され、幾多の映像作品が生み出されてきたことからもわかる通り、同事件は今もなお多くのイタリア国民にとって、そのアイデンティティを揺さぶり続ける巨大なトラウマとして語り継がれている。

また、長らく政権与党の座についてきたキリスト教民主党と、イタリア共産党の「歴史的妥協」が実現し、諸党派による連立政権が動き出そうとする最中に起こったこの事件の背景には、マフィアや国内外の反共勢力等による様々な政治的な工作が絡み合っていた(とされている)。そのため、陰謀論のごときものがとめどなく溢れ、今現在もなお、膨大なバリエーションの「真実」が生み出されている。まさに、アルド・モーロ誘拐暗殺事件とは、イタリア現代史を考察するにあたって、最も重要なモメントの一つであり続けているのだ。

本作『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』(原題『Esterno notte』)は、イタリア映画界を代表する巨匠マルコ・ベロッキオが、そのアルド・モーロ事件誘拐暗殺事件を題材にして作り上げた、総尺340分に及ぶ一大巨編だ。本作は、元は全6話の連続テレビドラマとして制作されたものだが、実をいえば、ベロッキオが同事件を題材に映像作品を手掛けたのは今回が初めてではない。すでに2003年、「赤い旅団」メンバーであったアンナ・ラウラ・ブラゲッティの回想記『囚人』(1998年)を仰ぎながら、『夜よ、こんにちは』(原題『Buongiorno, notte』)というフィルムを撮っているのだ。

この映画は、それまでイタリアで制作されてきた「鉛の時代」およびモーロ事件を題材にした作品群とはだいぶ様相が異なっていた。歴史的事実の検証をするのでも、新事実の掘り起こしを行うのでもなく、ブラゲッティをモデルとする主人公の女性活動家キアラの内部的な視点から、監禁事件に関する夢と現実が混ざりあった「あり得たかも知れない歴史」を提示するものであったのだ。そこでは大胆にも、キアラの夢の視点、および劇中に登場する架空の映画台本(*)の展開に沿うように、モーロが殺害されず生き延びるという「if」すらをも提示していたのだった。

*キアラの正体を知らないある人物から手渡されたこの架空の映画台本の名が、まさしく「夜よ、こんにちは」というものだった。これは、以下で論じる通り、ベロッキオ作品のメタ的な構造をよく表したエピソードといえる。

アルド・モーロ役のファブリツィオ・ジフーニ。過去に他の映画作品や自ら脚本を書いた舞台でもモーロを演じている。

では、ベロッキオは、そうした自身の傑作から19年余りを経た今回の作品『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』で再びモーロ事件を取り上げるにあたって、どのような視点を採用しようとしたのだろうか。ベロッキオ本人によるステートメントの一部を引こう。

本作では最後の悲劇的なエピローグを除いては、モーロ監禁の外側に我々はいる。というのも、今回の主人公は、家族、政治家、神父、ローマ法王、教授、警察、シークレットサービス、逃亡中や獄中の赤い旅団のメンバー、さらにはマフィアや潜入者など、誘拐事件にさまざまな立場で関与した、モーロ監禁の外で行動した男女だからだ。

プレスリリースより

この言葉通り、本作では、捜査を担当した内務大臣フランチェスコ・コッシーガ、教皇パウロ6世、赤い旅団のメンバーであるアドリアーナ・ファランダ、アルドの妻エレオノーラ・モーロ等の視点から、事件前後の様子が映し出されていく。つまり、『夜よ、こんにちは』が、モーロの監禁事件の内部にいる人間が目撃(体験)した「夜」を描いていたとしたら、今作は、監禁現場の外部=「夜の外側」を、複数の視点を交差させながら描こうとしているのである。

ひとつの誘拐監禁事件が、それぞれ別の人間の視点から眺められ、それらがそれぞれの「語り」となって、ときに重なりあい、衝突し、相反していく。その様は、かつての『夜よ、こんにちは』で試みられたのと同じく、歴史的事実を単線的なプロットともに重ねていく通常の映画とは全く異なる映画的体験へと私達を誘い出す。

モーロと親交のあった教皇パウロ6世(トニ・セルヴィッロ)も、本作の主要な登場人物の一人だ。

ベロッキオ監督の特徴的な音楽使用

ベロッキオといえば、その特徴的な音楽の使い方でも高い評価を得ている作家である。クラシックに限らず、既存楽曲の鮮烈な引用を試みてきた彼だが、中でも観客に大きな衝撃を与えたのが、やはり先述の『夜よ、こんにちは』におけるそれであった。特に、主人公キアラが見る幻夢的な映像にPink Floydの“The Great Gig in the Sky(虚空のスキャット)”が重なるシークエンス、加えて、同じくPink Floydの“Shine On You Crazy Diamond(クレイジー・ダイヤモンド)”が流れるエンディングは、私個人の「映画×音楽」体験における生涯ベストの瞬間と断言できるほど、圧倒的な力強さを持ったものだった。

今作の音楽の使用法についてはどうだろうか。まずは、(日本での劇場公開順は逆だが)今春に公開されたベロッキオの最新作『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』でも音楽を担当していた若手作曲家ファビオ・マッシモ・カポグロッソのよるオリジナルスコアの素晴らしさを挙げることができる。昨今の映画では珍しいほどの重厚かつ実直なスコアが、映画全編に渡ってサスペンスフルなムードを持続させる重要な役割を担っている(彼は本作のスコアで、プーリア・サウンドトラック賞 作曲家オブザイヤーの称号を手にした)。

一方、既存曲の使用数は決して多くなく、長大な尺からすれば、むしろかなり少ない方といえる。しかし、そこに込められている(と観るものに想像させる)含蓄の豊かさは、やはりベロッキオ節としかいいようがないものだ。

得意のクラシック曲の引用に関していえば、これまでの作品でも度々使用してきたヴェルディの楽曲が、今回も重要な場面で使用されているのに気づく。有名なミサ曲“レクイエム”中でも特に有名な“怒りの日”に合わせて、いわゆる「十字架の道行き」の儀式を行うモーロの姿をパウロ6世が幻視するところは、今作の中でも最も崇高かつ重厚なイメージを伴ったシーンといえる。

もともとこの曲が、イタリアの詩人・作家・政治思想家アレッサンドロ・マンゾーニを追悼する目的でヴェルディによって書かれたものであると知れば、受難に満ちたモーロの姿との連関に、きわめて示唆深いものを感じざるを得ない。

また、「赤い旅団」の結成メンバーが裁判にかけられる場面にも注目したい。厳しい訴追を受けてもなお強硬な姿勢を崩そうとしない彼らがシンパとともに合唱するのが、かの有名な革命歌“インターナショナル”である。古今東西の左翼運動家たちがこの曲を歌う様子は、これまでも様々な形で多くの映画作品の中で描かれてきたものなので、それ自体に特別な驚きはない。ここで注目すべきは、はじめは廷内の被告達とシンパによるアカペラで斉唱されていたはずの同曲が、いつの間にか画面外から現れる壮麗な伴奏に付き添われながら展開していく、という点だ。

要するに、本来であればリアリズムの観点からあり得ないはずの「架空の伴奏」が、さも当然そうに映画のサウンドスケープを覆っていくのである(しかも、あくまで映画の舞台内で実際に流れているように錯覚させる「オン」の質感を伴って)。一見するとさりげないシーンではあるが、この部分こそは、「物語る」という行為に必然体に帯同する外部的な演出の恣意性を、音楽(の付け方)によって自らの手で巧みに暴き出しているという意味で、巨匠ベロッキオの特異かつメタ的な作家性を示しているとはいえないだろうか。

1曲だけ使用された、1974年のスペイン発ポップソング

たった一曲のみだが、ポップソングも使われている。これはおそらく、自身の嗜好を理由にポップソングを冷遇しているということではなく、この長大なドラマにあってただ一曲のみが選ばれているという事実をもって、むしろ同曲自体(とそれが流れるシークエンス)へとスポットライトを当てようとするベロッキオ自身の意図を嗅ぎ取るべきだろう。

そのシーンは、第一幕の終盤に訪れる。モーロ誘拐の報を受けて「赤い旅団」のシンパ達が歓喜の声を上げる様子、サイレンの鳴り響く中で子どもたちが親に付き添われて足早に学校を後にする様、内務大臣コッシーガが驚きと苦悩に苛まれる様、エレオノーラが事件現場上空に集まるヘリコプターを不安げに眺める様、そして、小さな木箱に押し込められ今まさに「赤い旅団」のアジトへと運ばれつつあるモーロの表情がゆっくりとしたリズムでモンタージュされる中、やや場違いの感を漂わせながら、スペインのポップシンガー、ジャネットが歌ったヒットソング“Porque te vas”(1974年)が流れ続けるのだ。

https://open.spotify.com/intl-ja/track/11rsK9GDZ9UdWsxtDqnMmN?si=65575255be77484f

“Porque te vas”(邦訳すれば「あなたが去ってしまうから」)は、ユーロポップの愛好家にはそれなりに認知されている曲だろうが、映画ファンにとっては、何よりもまずカルロス・サウラの『カラスの飼育』(1976年)の中で印象的に使用されていることで耳馴染みがあるはずだ。そもそも同曲は、1974年の発表直後にはほとんど話題にならず、当然スペイン国外でも広く知られる存在ではなかった。しかし、サウラが傑作『カラスの飼育』で使用したことで一気に人気に火がつき、広くヨーロッパ各地でヒットを記録したのだ。つまり、ヨーロッパの観客にとってこの曲は、1970年代半ばから後半にかけての集合的な記憶と深く結びついている存在といえる。

『カラスの飼育』の中で、両親を亡くし叔母と暮らす主人公の少女アナのお気に入りの曲として複数回劇中に登場するこの曲は、タイトルの通り、不安とともに別れと行く末を思案するような歌詞となっており、アナら登場人物の心理描写とも重なり合いながら、優れて演出的な使われ方をしている。

また、同曲は当時のスペインの内政と関連付けられて語られることも多い。1970年代半ばのスペインは、内戦期以降のフランコによる独裁政権が彼の死によって崩壊し、民主的な政体へと移行していく雪解けの時代だった。この曲は、まさしくそうした変化の時代における過去との別れと、希望と不安に揺れるスペイン社会の姿を映し出している、というのだ。

そう考えれば、本作『夜の外側 イタリアを震撼させた55日間』におけるやや唐突な“Porque te vas”の使用にも、同時代的かつ批評的な意味合いが込められていると考えるのが自然だろう。様々な人々の視点を横断するモンタージュに重なる形で、悲しげな色彩ながらどこか凛乎としたピュアさを湛えた“Porque te vas”が流れるとき、私達はそこに、「鉛の時代」に蠢いていた深い憂愁と危機感、更には政治青年たちがやみくもに追い求めていた未来の光がいびつに交差する様子を目撃することになるのである。

「この物語はフィクションです」の「意味」

もう一つ、この“Porque te vas”がかかる場面に関連して、重要な指摘をしておきたい。上で述べたモーロの不安げな表情に続いて第一幕が終えられると、暗転後も音楽が鳴り続けるまま、次のようなメッセージが表示される。

実在の人物と物事は再構築された
様々な現実の要素は自由に再解釈された
非特定の人物との関連性は偶然である

要するに、実話を元にした劇映画一般でおなじみの注意書きが表示されるわけだが、これまで論じてきたベロッキオの作家性に鑑みるならば、これを単なる事務的なメッセージと受け止めるのは、従順が過ぎるというものだろう。私はここに、ベロッキオという映画作家の一つの倫理が謳われていると考えてみたいのだ。

そもそも、歴史的事実とは一体何なのであろうか。映画における物語の構築・再構築とは、あるいは「現実」の解釈・再解釈とはどんな行為なのだろうか。さらにいえば、歴史的事件を題材にしたとき、映画は何を語り得る / 得ないのか、あるいは、何を語るべき / べきではないのか……。

事件解決に奔走する内務大臣コッシーガ(ファウスト・ルッソ・アレジ)、首相アンドレオッティ(ファブリツィオ・コントリ)、書記長ザッカニーニ(ジージョ・アルベルティ)(左から右)。モーロと対立関係にあったアンドレオッティには、事件に関与していたとする噂も存在する。

象徴的なシーンがある。それは、この長大な作品の冒頭に置かれ、しかも、いかにも象徴的な意図を伝えるように、再び終盤に現れる。歴史的な事実として「赤い旅団」に無惨にも殺害されたはずのモーロが、「死刑」を逃れ病院で療養しているという場面がそれだ。つまりベロッキオは、自身の傑作『夜よ、こんにちは』で提示した型破りの「if」を、ここでも再度踏襲し、より大胆なことに、さらにリアリスティックな構築を行った上で提示しているのだ。

言うまでもなくこれは、歴史的事実とは全く異なるフィクショナルな描写だ。これは死に行くモーロが観たおぼろげな「夢」なのだろうか? しかしベロッキオは、『夜よ、こんにちは』での描写と同じく、そういったプロット上のギミック性を超えて、ある信念をもってこのシーンを撮っているように思われる。つまりは、(あまりにも当然のことだが)これから始まり、そしてこれまで見てきたイメージの連なりは、あくまで映画であること=ある映画作家の視点を元に構築された虚構であることを、これ以上にない詮無さで提示してしまっているのである。

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