「内容は一切口外禁止」の衝撃作、『シラート』が6月5日(金)より劇場公開される。
第78回カンヌ国際映画祭で4部門を受賞、第98回アカデミー賞では音響賞、国際長編映画賞にノミネートされた話題のスペイン映画だ。評論家・柴崎祐二が、物語の核心に触れることは避けつつ、本作で重要な役割を担っている音楽の存在について論じる。連載「その選曲が、映画をつくる」第39回。
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映像×音が爆発的な効果を発揮した、おそるべき傑作
あなたは闇の中でさまざまな音に操作される。しかもその音はスクリーンに映っているものと直接的な関係すら持っていないことが多い。多くの「音」はスクリーンに対して根拠がなく、論理的(ロジカル)でないどころか、理性的(ラショナル)ですらない。スクリーンの外の闇から、そして背後から聴こえてくる音にあなたは興奮し、恐怖を抱く。
あなたを能動的に包み込み、反応を誘発する現代的なサウンド・トラックは、「イメージの奴隷」などではあり得ない。映画の「サウンド+音楽」は、あなたの感覚を非連続的なものに並び変えるための鍵なのだ。あなたの後頭部に眼はないが、耳は背後の音も前の音も、振り向かずに等しく聴きわける。現代的なサウンド・トラックは、映し出されたイメージと再構築された空間を結びつけ、「聴」を「視」よりも強調する。――フィリップ・ブロフィ著、島内哲朗訳『シネ・ソニック 音響的映画100』p.18(フィルムアート社、2005年)
一般に言って、音とは、一つの個別物理的な現象であると同時に、それが受容者の耳に伝わり感覚を刺激するという意味において、神経的な作用を持っているものでもある。更に、その刺激がある感情を生起させ、加速させ、ときには別の感情との衝突に導くという意味においては、心理的な側面も持ち合わせていると言いうる。このような音の持つ機能は、映画という表象芸術にとって、単なる補完的な働き以上の何かを及ぼしてきた。私たちは、すぐれた映画音響と出会ったとき、そこに、「映像+音」という加算的な関係をはるかに超える爆発的な効果を感じ取る。そして、一見したところ映像的リアリズムと乖離しているように見える自然音以外の音――つまり音楽は、そのような「爆発」をさらに巨大なものとし、ときに映画それ自体を蕩尽してしまうかのようなカタルシスをもたらす。『ゴジラ』『エクソシスト』『ストーカー』『地獄の黙示録』『ロスト・ハイウェイ』……。(上記著作でブロフィが取り上げているものに限らず)映画史上には、そのような爆発的な効果を成し遂げた数々の傑作が存在している。
フランスのパリに生まれ、スペインのガリシアに育った気鋭映像作家オリベル・ラシェによる4作目の長編映画『シラート』は、そのような「シネ・ソニック」(※)作品の輝かしい系譜の最前に列せれるべき、おそるべき傑作だ。まずはあらすじを紹介しよう。
※シネ・ソニック:上記書籍(『シネ・ソニック 音響的映画100』)でフィリップ・ブロフィが提唱した概念
行方不明となった娘を探すため、父ルイスとその幼い息子エステバンは、モロッコの砂漠地帯で行われているレイブパーティーを訪れる。彼らは観客に娘の所在を尋ねて回るが、何らの情報も掴めない。一部のレイバーたちは、別のパーティーを目指してアトラス山脈を越え南へと移動していく。ルイスとエステバンも娘の手がかりを求め彼らの後を追うが、予測不能の事態へと導かれていく――。
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観客は「宗教的」な境地へと連れ去られる
映画のタイトルとなっている「シラート」とは、私たち日本の観客にとってはあまり馴染みのない語だが、イスラーム終末論における「シラート橋」の伝承を指している。映画冒頭にエピグラムとして引かれるように、その伝承は、天国と地獄をつなぐ橋についてのもので、橋の道幅は髪の毛よりも細く剣よりも鋭いと語られる。
このタイトリングが暗示する通り、本作には、全編を通じて異様なほどの緊張感とアポカリプス的な想像力が横溢しており、きわめてドライでいながら全く予測のつかないプロット展開も相まって、文字通り一瞬たりとも目を離すことができない内容となっている。おそらく、映画好きであれば、傑作中の傑作として名高いウィリアム・フリードキン版の『恐怖の報酬』や、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を頂点とする『マッドマックス』シリーズ等を想起するであろうし、文学ファンならば、コーマック・マッカーシーのディストピア小説『ザ・ロード』を思い起こす人もいるだろう。私としては、本作『シラート』は、それらに比肩しうる大傑作だと思う。

本作の凄みは、ある種の極限状態を描きつつも、その悲劇性ばかりに力点を置くのではなく、むしろ、そうした極限状態を経てはじめてたどり着くことのできる深淵と、そこに微かに瞬いている真理のようなものの姿が捉えられているという点に集約されるだろう。不在の娘というマクガフィン(※)を追うルイスとエステバン、そして彼らを深淵へと導いていく世捨て人のようなレイバーたちが、何の頼りもない荒涼とした砂漠の中で数々の危機にさらされながら、思いもよらない地平へと歩み出ていく――。ズタズタになりながらもなお何かに拐かされるように砂漠の地を往くその姿は、私たち観客を、もはや崇高――それを「宗教的」と表現することになんの躊躇もいらない――とすらいえる境地へと連れ去っていく。
※マクガフィン:物語を推進させるための装置、アイテム
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レイブの感覚そのものな音楽と音響デザイン
そして、本稿にとって何よりも重要なのは、音楽、あるいは音の存在こそが、まさにそのような深淵へ至るための最も重要な媒介者の役割を果たしている、という点だ。本作のスコアは、ここ日本でもかねてよりコアな支持を受けるフランスのテクノ〜IDM系プロデューサー / DJのカンディング・レイが担当している。彼が作り出す生々しく奔放なサウンドは、野趣あふれるレイブパーティーを重要なモチーフとする本作にとってまさに最適任というべき存在感を放っており、その本格派ぶりは、過去に一度でもレイブに参加した経験のある者ならば、感銘を受けずにはいられないはずだ。
地を揺らすベース、シャープな律動を刻む電子音、ときにドローンを伴いながら変幻していく研ぎ澄まされたハーモニーは、まさに劇中でレイバーの一人ジェイドが「聴くより踊るための音楽」だと表現する通り、純然たる機能性を伴いながら私たちの身体を射抜いていく。なお、レイの書き下ろしスコア以外にも、彼自身の過去作品や、他の既存トラックが使用される場面もあるものの、そのほとんどが同様の美意識のもとに配置されており、「どの曲がどのような歴史的コンテクストを孕んでいるか」と問うことは(通常の映画音楽の使用法とは異なり)あまり重要な意味を持ちえないだろう。とにかく、この映画において、音楽は、純然たる「映像×音(楽)」の爆発的体験を促す「シネ・ソニック」的装置として、十全以上の働きをしているのだ。
さらに、そのような音楽を含む音響デザイン全体も実に素晴らしい。スペインの音響監督ライア・カサノバスを中心とする音響チームによって成し遂げられた本作のサウンドデザインは、冒頭のレイブのシーンから顕著なように、その空間性の演出という意味において、ちょっと類を見ない次元に達しているように思える。同じくレイブパーティーの音響を経験したことのある者ならば、身体の近くで、あるいは遠くで響くビートやアトモスフェリックな電子音の巧みな再現ぶりから、あのお馴染みの恍惚感を即座に抱かされるに違いない。広大な空のもとに吹き荒れる風の音や、遠いこだまの音、そしてそれらと音楽の鼓動が不可分な形で混じり合っていくあの崇高な瞬間が、ほぼ完璧な形で捉えられているのだ。
