2018年にデビューをして、バーチャルシンガーとして初めて日本武道館でのワンマンライブを成功させるなど、数々の達成を果たしてきた花譜(かふ)。今年20歳を迎えたことを機に、彼女自身が制作したオリジナル楽曲のみを歌うシンガーソングライター「廻花(かいか)」としての活動を開始し、1月14日に開催された『花譜 4th ONE-MAN LIVE「怪歌」』にてその存在が初お披露目された。ライブはオーディエンスに好意的に受け止められたものの、これまでアバターを用い、提供楽曲を歌ってきた花譜との差異に戸惑いを感じる声も少なくはなかったというが、花譜と廻花は決して切り離すことのできない、地続きの関係なのである。
そんな廻花の楽曲、“転校生”“ひぐらしのうた”“スタンドバイミー”のミュージックビデオ三部作を手掛けたのが、映画監督の山戸結希。2019年公開の映画『ホットギミック ガールミーツボーイ』の主題歌を花譜が担当した縁のある山戸によって、廻花が高校生のときに感じていた孤独や不安が物語性の高い映像で見事に具現化されている。
そこで今回は、11月に開催された『花譜 4th ONE-MAN LIVE「怪歌(再)」』で2度目のライブを終えた廻花と山戸との対談を実施。丁寧に言葉を選びながら、自身の率直な想いを口にする廻花と、その想いを受け止めて、「廻花」の実像を解像度高く言語化していく山戸の対話は、誰もがリアルとバーチャルの垣根を超えて、自らのアイデンティティを握りしめ、自由に花を咲かせる時代を希求する、祈りのような時間に感じられた。
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「花譜はバーチャルで、廻花は素の自分」みたいな二項対立ではない。人には、あらゆる可能性がある
ーお2人は今日が初対面だそうですね。
山戸:もう胸いっぱいです。でも『ホットギミック』の主題歌を担当していただいたときから、真に気持ちのこもった歌をいっぱい届けてくださって、曲を通じてたくさんお話をしてきた感じもしています。不思議な気持ちです。
廻花:花譜としての活動の中で、映像を作ってくださっている方だったり、曲を作ってくださる人とも実際にはお会いしないことが多かったんです。こうして直接山戸さんにお会いできて本当に嬉しいです。
ー『ホットギミック』に関しては、山戸さんがデビュー前の花譜さんのカバー音源を聴いて、その声に心をつかまれたことが起用のきっかけになったそうですね。
山戸:尊敬しているPIEDPIPERさんから、まだ世に出られる前だった花譜さんの音源をいただき、その中に入っていた“Lemon”のシンプルなカバーが、今でも心の真ん中にあります。曲の持つ歌詞の意味と込められた想いが、倍音のように広がって届いてきたんですね。まるで今ここで歌が生まれたみたいに、みずみずしく弾けていて。他者が描いたメッセージを、全身全霊で、自分自身を削り出すように歌い上げる力というのは本当に稀有で、私たちの物語もこの方に託したい、信じたいと心から思いました。そのとき、PIEDPIPERさんと花譜さんの孤独が共鳴しあったような美しい出会いだと、もう一つの物語にも深く感動していたのだと思います。まだ青さも残る頃の花譜さんに、あの季節にご一緒いただけて、青春映画の魅力を何倍にもしていただけたことに、今でも感謝しています。
廻花:当時はまだ試写などに伺えず、地元の映画館で『ホットギミック』を見たんですけど、こんなに素敵な作品の最後に自分の歌が流れるのは信じられないことで。こちらこそ、ありがとうございました。
ーそんなお2人の出会いから約5年。花譜では提供してもらった楽曲を歌ってきたわけですが、今年から廻花として、自らが書いた詞と曲を歌い始めた。山戸さんから見て、廻花という存在に対してはどんな印象をお持ちですか?
山戸:まず、ものすごくいいお名前だなと思いました。きっと、輪廻のイメージですよね。そして「花譜はバーチャルで、廻花は素の自分」みたいな二項対立ではない部分も。人間は誰しもが色々なペルソナを持っていて、様々なコミュニティに入ったり、成熟したりする中で、多様な自分と出会える分岐を持っているはずですよね。その可能性が廻花というネーミングに表現されていて、無限の自分が現れてゆく中の一つ、眼前の自己像もまた数え切れず輪廻する中の一つなのだという、本当に普遍的で素晴らしい発想だな……と。

2012年、上智大学哲学科在学中、独学で映画『あの娘が海辺で踊ってる』を監督。2016年、小松菜奈・菅田将暉主演『溺れるナイフ』が60万人以上を動員し、20代女性の監督作品において前例のない興行記録となり、10カ国以上へとセールスされた。2021年、吉田羊・國村隼主演ドラマ「生きるとか死ねとか父親とか』にて、初のテレビドラマのシリーズ構成、監督を務める。現在、新作長編を制作中である。
山戸:自身の多重性を、「本音と建前」や「外面と内面」というふうに、単純な二項対立に押し込めるのではなく、自分のあらゆる可能性のグラデーションの一つとして理解、把握すること。こういう考え方をできたら、誰しもにとって呼吸しやすくなるヒントがあるだろうなと思います。これは何年間も、先人がいない道を歩いてきた花譜さんならではの、廻花さんならではの発見であり、提案なんだろうなと受け取りました。
ー1月の代々木での初お披露目を終えて、廻花さんご自身はどんな心境でしたか?
廻花:披露するときは怖さもあったんですけど、これまで花譜を好きでいてくれた多くの方が予想していたよりも好意的に捉えてくださって、それにびっくりしたし、本当に嬉しかったです。アバターが変わる、ということの延長線ではあるけど、廻花は花譜と全く違う姿をしているので。受け入れてくれた人は歌で花譜と廻花を繋げてくれたんだと思います。自分にとっての活動の本質は歌なので、そこを大事にしてくれている人が自分以外にこんなにもいるんだと知れて、なんというか、救われた気持ちになりました。
その後、自分がうまく伝えられなかったからかもと思うんですけど、「廻花が自分の書いた言葉で表現していくのなら、今までの花譜は何だったんだ?」「花譜が光で廻花が闇なんじゃないか」みたいなご意見を見たことがあって。

―まさに二項対立のように受け止められてしまった。
廻花:でも、絶対にそうじゃないんです。廻花が歌っていることは、花譜が活動してきた中でしか芽生えなかったであろう感情がいっぱい詰まっているので、「分けないでほしい」と思って。バーチャルな世界では、アバターの中で喋ってる人を「魂」と呼ぶことがあって、例え同じ魂でも、バーチャルの人生を終えて、また新たな形で出てきたときに、全く別物だと見られる風潮があるんですね。でも、たしかに目に見える形は変わったかもしれないけど、同じ人が同じ気持ちでそこにいたことは変わらないから、自分がまた新しい形になったときに、今までのことを全部なくして、何も知らない感じで始めるのは違和感があったんです。
―だからこそ廻花は、「花譜のもう一つの姿」なんですね。

新世代のバーチャルシンガーソングライター。2024年1月14日、国立代々木競技場第一体育館で開催された花譜 4th ONE-MAN LIVE『怪歌』よりデビュー。幅広いジャンルの音楽に対して、多彩なアプローチや表現が出来る「花譜」の新たな分岐点として、彼女の内側から湧き上がる自身の衝動的な気持ちを歌にして解き放つ。彼女自身の独特の感性で、日々の思考や感情、記憶を音と言葉にしていく。誰にも壊すことの出来ない、力強く美しいエネルギーが開花する。
山戸:廻花さんと花譜さんの歌は決定的に声で繋がってると思う。初めて花譜さんの声を聴いたときに、避けがたく声に真実性が乗る方だなと思いましたし、嘘のなさ、純粋さ、その真実性は変わらずに廻花さんの歌にも響き続けていて。もしもその響きが損なわれることがあったならば、「別物だ」みたいな嫌疑はかけうるのかもしれなかったのですが、私には疑いようがないというか、花譜さんの声と廻花さんの声が繋がっているのは信念に裏打ちされている事実で、絶対的なことだと思います。揺るがない声だなって。
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不安を感じた実体験から生まれた“転校生”と、その複雑性が反映されたミュージックビデオ
ー今回山戸さんは三部作として3曲のMVを作られたわけですが、全体のイメージがあったのか、それぞれ個別で作ったのか、どちらが近いですか?
山戸:「三つの物語は同じ世界線で起こっている」という想定で脚本を書いていました。探していただくと、実は全く同じ人物や楽器、道具も登場しているんですよ。
廻花:え! そうなんだ!
山戸:目を凝らして見てみると、「あっ!」っと気づいていただけると思います! これは裏側の設定となっていますが、この物語において登場人物たちは、いつか辛いとき、歌によって繋がる可能性のある人物たちで、それも物語の一部として描いていました。廻花さんの歌に、それぞれ本当に運命的に出会うのだろうなと、それを劇中に明示するのかはすごく悩んだのですが、結果的に、表には描きませんでした。それでもやっぱり、いつか出会うのだろうなと今も思っています。
ー最初にMVが公開された“転校生”はいつ頃どういうきっかけで書いた曲なのでしょうか?


廻花:高校生のときに書きました。私は小学2年生のときに転校したんですけど、そのときのことを思い出して。
山戸:実体験がもとになっているんですね。
廻花:そうなんです。震災の影響で、4月に転校するはずがちょっと微妙な時期になっちゃったんですよ。転校したのはみんなが顔見知りのような小さな学校で、学年全員の前で自己紹介をさせられて、雨が降っていて、みんなから見られて、嫌ではなかったけど、すごくざわざわして、「大丈夫かな?」と思ったのを覚えていて。そこから友達ができたり、教室や自分の席がわかるまでの間の不安とか、「浮いてるかも」みたいな気持ちが歌詞には表れていると思います。
山戸:“転校生”はすごく面白い曲ですよね。テンプレートな構成を踏襲せずに、<火付けの鼓動 ドドドン ドドドン>など世界観を飛び越えるような歌詞も面白いし、一つの歌という渦に巻き込まれていくような曲で、1人の少女の原体験に回帰していくような体験をもたらしてくれるなって。
シンガーソングライターのフォーマットに乗せるというより、まだ見たことのない景色を歌によって立ち上げようとする人の構成のあり方で、そこにオリジナリティがあって、だからこそ、映像の構成もまた必然的に複雑な描出になるだろうという予感がありました。曲がもたらしてくれる複雑さや転倒を引き継いで、記憶が大胆に錯乱してゆく時間感覚を目指して、ミュージックビデオでは、転校する前後、髪を切る前後の時系列が入り混じって映されています。
ー廻花さんは実際の映像を見て、どのシーンが印象的でしたか?
廻花:最初の少女が走り出すところで、「まさにこれは“転校生”のMVだ!」と感じました。一番印象に残っているのは体育館で、バスケをしている女の子を、体育館のステージにいるもう1人の女の子が見ているシーン。全然違うことをしてるのに同じ空間にいて、ステージという特等席から女の子を見てるのが印象的で。

山戸:確かに、ステージは本来まなざされる側なのに、逆転してますね。
廻花:それがすごくいいなと思いました。あとは女の子が髪を切るところ、あれはどういう気持ちだったんだろうなって。思いを馳せていたであろう女の子に、自分が近づきたいと思って髪を切ったのか、もしくは、叶わないと思ってるからせめて見える形で意思表示をしたかったのかなとか、いろいろ考えました。女の子が髪を切るって、ドキッとするじゃないですか。

山戸:イニシエーション、儀式みたいな感じですよね。
廻花:自分の書いた歌詞が、1人では想像できなかった方向の物語と繋がるのは初めてのことで。今までの花譜としてのMVは、花譜と歌の物語が一緒になるものが多かったけど、廻花は自分の曲だけど自分が出てこないから、それがすごく新鮮でした。
山戸:廻花さんのお話を聞きながら、髪を切るというイニシエーション、生まれ直し感は、花譜さんが廻花さんに生まれ直すという岐路の季節、きっとそこからインスピレーションを得てるんだなと思いましたね。
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「廻花さんは大きな秘密を誰にも言えずに抱えながら、多感な時期を闘い切ったからこそ、純度の高い光景をいろんな人にもたらすことができる」(山戸)
ー“ひぐらしのうた”も、高校生の頃に書いた曲だそうですね。
廻花:そうですね。一時期歩くのにハマっていて、2時間くらい歩いて下校してたんです。そのときにいろんなことを考えて……自分の性格もあるかもしれないけど、当時花譜の活動のことは友達に言ってなかったんですよ。でも時々、「普通に言ってたらどうなってたんだろう」って思ったりとか、単に学校生活でうまく喋れなくなることとか……いろんなことを考えてるときのことを書いた曲です。


山戸:なるほど……冒頭の、「花譜さんにしかわからない体験が廻花さんのアウトプットに出ている」というのは、そういう意味でもあったんですね。具体的に話していただけて、腑に落ちる思いがします。かつ、この曲を聴いている10代の方たちは、歌詞の<みんな>をきっと教室の<みんな>に重ねたりされていて、不思議な重なりをもたらしてくれますね。
足踏みをしてるぼくを横目に追い風が攫ってく
あの子の体
それでいいならいいんじゃないかなんて思ってしまうから
惜しくもないさよならにわざと時間をかけてる
みんなと一緒に泣けなくって、同じとこで笑えなくて
もう誰もこの話はしてなくて この涙は急なんかじゃなくて
なにがいいたかったんだっけ
廻花“ひぐらしのうた”
ー山戸さんはこの曲をどう受け止めて、映像にしようと思いましたか?
山戸:聴いたファーストインプレッションで、ただならぬ気持ちがこもっていることが満ち満ちて伝わりました。日常のささやかなすれ違いとか、そういう規模感の事象ではないのだなと。映像自体はミニマルに、主人公1人の小さな世界で見せている一方で、その心の中には、ものすごい大問題が起こっている、荒波が心と体に起こっているようなイメージで、聴きながら溢れ出してきたのが今の物語でした。楽曲をインプットして、映像でアウトプットする中で、“ひぐらしのうた”は映像にしたとき、出力に力みが入るというか、ブレーキよりもアクセルによって強く紡ぎ出された部分があって。もちろん音楽と映像は別のメディアなので、どうあっても完成形は違う形になるのですが、それでも、もしかして廻花さんにとって不本意な形で、イメージの外側に出てしまうのではないかという怖さを、最後まで感じながら撮っていました。
ー廻花さんは実際どう受け止められましたか。
廻花:いやもう、大好きなMVになって。見るたびに泣いてしまうというか……すみません。(涙を流しながら)ごめんなさい、なんでだろう。
ーゆっくりで大丈夫です。
廻花:学校で、みんなが同じ制服を着て、同じ場所で同じことをしている中で、主人公の子が1人でプールを掃除しながら踊ってるときに、急に色がついて、また色がなくなって、息苦しい中でも解放される時間があって、またそれも終わって……。でも今度はプール掃除をしながら他の子たちと笑い合っていて、私はあのシーンが大好きで、その後のプールに水が入った状態で、制服のままスイスイ泳ぎ出すところもすごく好きで……閉塞感みたいなものを打ち破って、その瞬間だけはどこまでも泳いでいける。それが映像から感じられて、すごく勇気づけられた作品でした。本当にありがとうございます。


山戸:今、心の大事な部分を使ってお話してくださって、こんな冥利に尽きることはありません。ありがとうございます。
ー映像と高校生の頃に感じていた閉塞感がシンクロしたのか、それとも現在の廻花さんの心境とシンクロしたのか、思わず涙が出た理由はどちらが近いと思いますか?
廻花:どっちもあるとは思うんですけど……でも自分と重ねてというより、そこに行くか行かないか、それを超えていいのか超えない方がいいのか、そういうもどかしさや葛藤がありながら、映像の中の子がその一歩を超えて、その先でもきっともがいたり苦しむこともいっぱいあるかもしれないけど、それでもあんなに綺麗に泳いでいる姿にすごくグッときたんです。だからやっぱり、自分に重ねるというよりも、「勇気づけられる」というのが、自分の抱いた気持ちとして正しい表現だと思います。

山戸:笑顔で他者と笑い合ったり、水を得た魚みたいに自由に泳ぐシーンでこそ涙が込み上げるということは、苦悩の先に光を見て、それでも進んでいくという希望に共鳴されているのだと思いますし、それがああ、廻花さんなんだなと感じます。最初に「光と影」みたいなことは誤解だとおっしゃっていたように、光の真ん中に行くために、廻花さんという人格が生まれて、今でも自分の生をより良くするために闘いが続いている。

山戸:“ひぐらしのうた”は自分だけのことを話しているようで、でも誰に向かってるかわからない<ありがとう>が出てくるじゃないですか。それは「私」が「私」としてこの生を受けて、苦しさとともに歩めていることへの、世界への<ありがとう>として受け取っていたんです。ただ自分が苦しいという地平で終わりではなくて、それでもこの世界に何かを還元していきたいという想いがぎりぎり凌駕する。


山戸:“ひぐらしのうた”自体がエンパワーメントする力というか……いや、もっと儚い、その一歩手前にある「エンパワーメントしたい」という願いや気持ちに満ちていて、それを主人公の子は受け取って、あんなふうに泳いでいってくれたのだと思います。歌にあるものが映像に可視化されて、当時の廻花さんの言葉と今の廻花さんの気持ちがこうして出会ってくれたのかなと思うと、すごく心が震えます。
廻花:でも本当に、山戸さんが作ってくださったもののおかげで……。
山戸:そんな! 廻花さんが書いた歌だから、この映像は廻花さんの作品でも当然ありますし、生みの親なんです! 10代のときに直面する逃れようがない状況、心から夢見ていた世界とはいえ、大きな秘密を誰にも言えずに抱えながら、多感な時期を闘い切ったからこそ、純度の高い光景をいろんな人にもたらすことができるアーティストなんだろうなと思います、廻花さんを。
