作家の「意図」と、その作品における「実現」が完全に一致しているものを目にしたとき、興奮や熱狂を覚えることがある。でも一方で、「なぜこんな作品を作ったのか」「どうしてこんな作品になったのか」を作家自身が説明できないタイプの作品があり、それに大きく心を揺さぶられることもある。
OGRE YOU ASSHOLEからのラブコールで実現した研究者の郡司ペギオ幸夫との以下の対話では、そんなことが話されているように思う。正直にいうと、私も編集者としてこの記事がどんなものであるのか、把握しきれてはいない。
自分にとって意味のあるものだけを取り込み、自らの世界や身体を拡張する知性を「人工知能」としたとき、その対極に浮き上がる「天然知能」の考え方。本稿はその入り口に触れながら、創造体験の深淵を覗き、考えさせられた約100分間の対話を記録したものだ。まずは、取材執筆を手がけた評論家の柴崎祐二による序文から。
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音楽は「情報」になってしまったのか? 私たちが、真の意味での「創造性」を見出すために
いつからだろう。本来は「創造物」であるはずの音楽というものが、すっかり「情報」めいたものになってしまったのは。いや、それは音楽に限られないだろうし、もしかすると「なってしまった」というのも正確な言い方ではないかもしれない。私たちがあらゆる物事を定量的に数値化可能な「情報」として扱うことに、あまりにも慣れすぎてしまったがゆえにそう感じているのに過ぎないのかもしれないからだ。
しかし、そう考えてみたとしても、音楽なりの創作物がますます定式化された情報コンテンツとしてこの世界を駆け巡り、アテンションと売上のゲームで勝ち残ったものだけが記憶され、多くの優れた「創造的」な事物は忘却の彼方へと消えていく……このような実感を私たち自身の内から拭い去るのはより一層難しくなっているのではないだろうか。かくいう私も、そういう傾向に与してきたところがまったくないのかと問われれば、不格好に言葉を濁すのみだ。
どうすればそれらを救い出せるのか。もっとはっきりいえば、現代のクリエイターはどうすれば自らの表現に「創造性」を賦活することができるのか。および、(しばしばクリエイターをも兼ねる)私たち鑑賞者は、いかにしてそれらに真の意味での「創造性」を見出すことが可能になるのだろうか。
そのための有効なヒントを、ナイーブな資本主義批判によって引き出すことが困難になってしまっているのだとしたら、今求められているのは、もっと別の次元の発想なのかもしれない。本記事では、それを「天然知能」という考え方を元に探ってみようと思う。早稲田大学工学部教授・理学博士の郡司ペギオ幸夫は、同ワードを冠した自著『天然知能』(2019年、講談社)で次のように述べている。
決して見ることも、聞くこともできず、全く予想できないにもかかわらず、その存在を感じ、出現したら受け止めねばならない、徹底した外部。そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。
——郡司ペギオ幸夫『天然知能』P.9より
「天然知能」は、昨今その飛躍的な発展によって大きな注目を集めるAI=人工知能があくまで「自分にとっての」知覚世界を構築し、有益性の尺度でのみ価値判断を行うのとは全く異なり、ただ世界を受け入れようと待ち構えながら、「外部」を鋭敏に感じ取ろうとする。
ただし、ここでいう「外部」とは、今はまだ学習していないだけでいずれ学習するであろう、なにがしかの未知の情報=想定可能な外部のことではない。そのような知のあり方とは無関係の徹底した外部を指しているのであり、創造とは、そうした外部から「やってくる」ものによってのみ達成される、本来的に計量化不可能な営みなのである。
今一度問うてみよう。人工知能的な思考法があらゆる領域を覆い尽くす勢いで伸長しつつある現在、創造という行為、芸術という存在は、何かの目的や便宜に従属させられるほかないのか。いいや、断じてそんなわけはないだろう。「天然知能」を全開にして創造を行うという行為は、もっと別の種類の、巨大で豊穣な「外部」を私たちに呼び込んでくれるはずだから。
OGRE YOU ASSHOLEというロックバンドこそは、こうした「天然知能」を今もっとも自覚的に我が身に引き寄せながら創作活動を行っている存在だ。彼らは、昨年のEP『家の外』リリース時のインタビュー(※)で、郡司ペギオ幸夫の著作『やってくる』(2020年、医学書院)に触れ、同書から大きな刺激を受けた旨を述べていた。それから約1年。この度、5年ぶりとなった新アルバム『自然とコンピューター』もまた、同書および郡司ペギオ幸夫の他著作を重要なインスピレーション源のひとつとして生み出されたという。
※音楽ナタリー掲載記事「OGRE YOU ASSHOLE特集|新作EP「家の外」で描く、“待つ対象の不在”と“宙吊り的な感覚”」(外部サイトを開く)
OGRE YOU ASSHOLEのメンバー出戸学は、本記事の企画段階でやりとりされたメールの中で、次のように語ってくれた。
制作中に「できた」「わかった」という感覚が突如くるのですが、それが何なのかよくわかりません。でもその時は外部からやってきたという感覚があります。
「天然知能」とはいったい何なのか? そしてまた「外部」とは、創造性とは、作品作りにおける「完成」とはいかなるものなのか。出戸に加え、同じくOGRE YOU ASSHOLEメンバーの勝浦隆嗣(Dr)、そして郡司ペギオ幸夫の三者による、貴重な鼎談をお届けする。
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心でも身体でもない場所から、創造性やリアリティーが「やってくる」
―出戸さんと勝浦さんにまずお聞きします。郡司さんの著作と出会った経緯を教えてください。
出戸:初めはどこかで『やってくる』の書評を読んだのがきっかけだったと思います。なんとなく面白そうな本だなと思って手に取ったんですが、10ページも読まないうちに、ひょっとするとこれはとんでもない本なんじゃないかと思って。それで、全て読み終わる前にバンドのみんなに勧めました。自分たちがぼんやりと考えていたことが、すごく明晰に書かれていると感じたんです。
勝浦:その後すぐに僕も読んでみたんですが、まさに出戸くんと同じ思いを抱きました。以前自分が経験した不思議な感覚が、「やってくる」体験だったんじゃないかとも思うようになって。
―どんな経験ですか?
勝浦:昔、リー・ペリーの来日公演を観に行ったときのことです。はじめのうちは気持ちいい音楽だな〜くらいに思っていたんですが、突然ステージから巨大な波が押し寄せてきたんですよ。比喩とかでなくて、今まで経験したことのない本物の「波」だったんです。自分の中の心でも身体でもない場所をいきなりグワッと掴まれて、海に浮かびながら波に乗せられているような感覚が続けてやってきたんです。
―クリシェじゃなくて、物理的なリアリティーを伴っている「波」を感じたということですか?
勝浦:そう。音楽的に面白いと思ったとかそういう範疇を超えた体験で、これが本当の「グルーヴ」というやつなのかなと思って。つまらない言い方をすれば催眠状態だったということだと思うのですが、自分にとってはとても大きな出来事で、今まで理性で捉えていたのとは別の世界があるということに気付かされたんです。
出戸:当時、驚いた樣子でその体験を話してくれましたよね。
勝浦:以前から僕はバンドと並行して精神科医として仕事をしているんですが、その体験をしてから数年後に過食症の患者さんと話していたときの気づきを経て、いろんな患者さんの話をそれまでは感じられなかったリアリティーを伴って聞くことができるようになりました。その患者さんが、「自分の心の中にある隙間を埋めるために食べるんだ」と言ったのを聞いたときに、ハッとひらめいて。もしかするとその「隙間」というのは、僕があのとき「波」を感じ取ったのと同じ場所なのかもしれないなと思ったんです。
郡司さんの言い方を借りるのならば、それまで「人工知能」的な生き方をしてきた自分がその限界の向こう側に触れるような体験をしたことで、想定もしていなかった外部があることに気付かされたということです。
郡司:とても興味深いエピソードですね。過食症や拒食症の起こるメカニズムについてはまだはっきりとわかっていないんですが、ひとつの仮説として提唱されているのは以下のようなものです。
人間というのは、自分の像を鏡などを通じて見ますよね。けれどそれはあくまで一人称的な、自分から見た顔なり身体のイメージです。一方で、二枚重ねの鏡を通して側面を見たり、後ろからカメラで撮った写真を見たり、つまり断片を重ね合わせることで三人称的なボディイメージも構築しているわけです。
そして、その三人称的なイメージと一人称的なイメージとの間のリンクが切れてしまうと、ダイエットを重ねて痩せてしまった一人称の像をいくら見ようとも、三人称的イメージがかつてのままなので、もっと痩せなければという気持ちに抑制が効かなくなってしまうんですね。
この仮説を発展させると、てんかんの患者さんが発作のときに経験する体外離脱感もうまく説明してくれるんじゃないかとも考えています。そこでは、ある特定の座標から眺めた一人称的なイメージの暴走が起こっていて、それらをなんとかひとつのイメージに留めようとするために、自分を身体の上から俯瞰するような映像が立ち上がってくるんではないだろうか、と。
勝浦:なるほど……。
郡司:他方で、脳科学の分野でも、体外離脱実験というのがあるんです。すごくシンプルな実験で、自分の背中の映像を後ろからカメラで撮ってもらって、ヘッドマウントディスプレイでその様子を被験者自身が見ているという状況の中で行われます。そこで、後ろから誰かに背中を触ってもらうと、自分の身体が体外に離脱しているような感覚を得られるというものです。
けれど、僕自身も研究室で再現してみましたが、どうもそこにリアリティーが感じられないんですよね。そうやって論理的な手順によって提出されたイメージと、実際に人間が体験している体外離脱時のイメージには決定的な違いがあるのではないだろうか、と。つまり、ここでいうリアリティーもまた、全くの外部からやってくるものなのではないかと思ったわけです。
勝浦:とても興味深いです。
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作品は、いつ、なぜ「完成」するのか。「あ、できた」という実感と「穴」
郡司:アートという営みも、この場合と同じ意味での外部からやってくるものがあってこそ成立するものだと思うんです。「これこれこうだから結果的にこういう表現になっています」ということではなくて、外部を感じる体験へと誘導する装置こそがアートなのではないかな、と。
つまり、一人称的な表現が単にたくさん並列されているだけではなく、それを「脱色」して、そこからヒョロッと外部へ抜け出ていく穴があるということが非常に重要ではないかと思うんです。ええと、だいぶ遠回りしてしまいましたが……(笑)、今回の鼎談にあたってOGRE YOU ASSHOLEの音楽を聴かせてもらって、まさにそういった意味での「アート」性を感じました。
出戸:それは嬉しいですね。自分が音楽を作っているときに、ふと「あ、できたな」と思う瞬間があるんですけど、今お話されたこととも関係しているような気がします。それは何か完成図を想定したうえで能動的に取り組んでいった末に訪れるんではなくて、例えば、ひたすらシンセサイザーを鳴らしたり試しに音を抜き差ししていく中で突然やってくる感覚で、言葉で説明できない類のものなんです。
自分でも、なぜそれをもって「できた」と判断しているのかわからないんですが……でもそこには確実な満足感があるんです。郡司さんの書かれた『創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界』(2023年、筑摩書房)という本に、何かを創造するにあたって、徹底して受動的になることによって能動的に構える、という話が出てくると思うんですが、もしかするとそういう状態にも近いのかなと思いました。
郡司:私たちは、自己意識をもって生きている限り完全に受動的になるのは難しくて、なにがしかの能動的態度を持たざるをえないわけですが、そういう矛盾した状況の中でこそ創造的行為が初めて可能になるんじゃないかと考えています。
そしてそれは、何か特別な鍛錬の末に到達できる「悟り」のような大きな話でもなく、案外日常のいろいろな場面にありうることだと思っているんです。そういう意味でも、「待つ」という受動的な状態を歌っている“家の外”という曲は、その感覚をうまく捉えていると感じました。
出戸:なるほど、そう言われると確かにそうかもしれないですね……。これもうまく言語化できないんですが、ライブで演奏していても、あらかじめ設計図を組み立てておくんじゃなくて、なにがしかのトラブルや想定外のことが起きる場合のほうが純粋にいい演奏だったなと思えることが多いんです。
だから、何度も練習してきた曲の中にわざと曖昧なパートを設けたりしています。あたかも知らない曲のように演奏するわけですけど、そうすると、さっき郡司さんがおっしゃった「脱色」に近い状態になるというか。いわゆる「完成度の高い上手な演奏」みたいな概念では推し量り難い何かが生まれてくる感覚があって……。
勝浦:それはわかるな。そもそも、僕は前提として「上手な音楽」が昔から嫌いで(笑)。自分たちが巧いプレイヤーであることの自覚が前面化している音楽を聴いたところで、「ここには何も起こっていないな」と感じてしまうんです。
かつては思い通りにドラムを叩きたいという気持ちもあったんですが、結局、自分の身体を介在させる時点で完璧に叩くなんて絶対に無理なので。最近はむしろ思った通りに叩けないからこそ面白いんだと思うようになりました。昔は演奏中にバンド全体のリズムが混濁したりするのをノイズだと思って排除しようとしていたんですけど、ここ数年は、無理に辻褄を合わせようとしないほうがいいと思っていて。
郡司:私も自分で造形物の創作をやっていますが、それはもう「あえて技術にこだわらないほうがいい」みたいなレベルの全く手前にあるものなのでおこがましいのを前提にお話しますね(笑)。
私は、「あ、これはできたな」という瞬間をちゃんと捕まえられるのが本当のアーティストなんじゃないかと思うんです。昨今の芸術というと、ポストモダン理論の影響もあって、ともすれば「できた」という実感を先延ばしにして生成変化していく状態がずっと続く状態こそが創作である、みたいに語られたりもするんですが、実際にものを創る人たちの中には、やっぱり「あ、できた」という実感があるはずなんですよね。
それは第三者からみたら全然完成してないじゃんっていう状態かもしれないけれど、当事者においては間違いなく「これで完成だ」というポイントがやってくる。それこそが、作品の中に外部に通じる「穴」を穿つことができたということなんじゃないかなと思うんです。そのリアリティーが客観的にどういうことなのかというのは、人工知能的な考え方の元ではそもそも記述不可能なものなんですよね。
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アートが本来持ち合わせる「穴」と「ダサカッコワルイ」感覚
―先ほどのライブ演奏の話を例に考えるならば、穴があるという不完全な状態を引き受けているからこそ、当事者として「いい演奏ができている」という実感を抱くことができるのかもしれないですね。
出戸:ああ、そうかもしれないですね。
郡司:ここでいう「穴」は、静止した造形物の場合はもちろん、音楽の演奏のような形態でも実現される何かだと思うんです。重要なのは、その「穴」は、言葉通り不在を表しているものなので、ないものをあたかもあるものかのように扱って操作的にあてがうことができるわけではなくて、あくまで当事者の中でのせめぎ合いや辻褄が合わなくなっている不完全な状態によって成されるものだということですね。
出戸:たしかに、僕らも「ここに穴を作ろう」という意識というよりは、曲の中にフリーな場所をとりあえず用意してみるという感覚が近いですね。外部の呼び水としてそういうパートを置いて、そこでとりあえずいろいろ試してみる、というか。実際、何が起きるかはバンド全体でそのフリーな状況に直面してみるまではわからないですし。
―勝浦さんはいかがですか?
勝浦:僕らの曲は反復的な構造のものが多いので、ともすると「機械的だ」と評されたりもするんですが、そう言い切ってしまうのも何かが違う感じがするんですよね。例えば、テクノミュージックの元祖であるKraftwerkにしても、機械的なイメージの反面、ズレとかモタリとか、かなり人間が演奏しているニュアンスが聴こえてくるんです。個人的に、そこにこそ魅力を感じてしまう。
ここ最近、OGRE YOU ASSHOLEは電子楽器の音に合わせて演奏することが多いんですけど、100%機械と同期しながら演奏するのは無理だし、そうしたいとも思っていなくて。機械との間にもグニョ〜ンっというズレが生じる瞬間こそが面白いと思っているんです。言ってしまえば、機械もメンバーの一員として考えて演奏しているというか。
―そういうズレ、ギャップにこそ音楽的なダイナミズム宿る、と。
勝浦:僕はそう思っています。
―郡司さんも、『やってくる』の中でPrince等を例に挙げて、音楽におけるギャップやズレについて書かれていますよね。その中で「ダサカッコワルイ」という表現を使ってその魅力を評されているのが印象的でした。
郡司:「ダサカッコワルイ」という字面だけみるとギョッとされるかもしれないんですが……(笑)。何といいますか、「カッコいい」というのが何らかの部品と部品がきっちりと整合的に配置されていて一部の隙もない状態を指しているのだとすると、その反対の「カッコワルイ」というのは、単にその配置がちぐはぐになっている状態ですね。
さらにいえば、全く無関係のこなれないものがただそこにポンと配置されているのが「ダサい」という状態。一方で、いわゆる「ダサカッコイイ」というのは、こなれないものが含まれているようでいて整合性が取れているもの。
かたや、本来的に無関係の存在によってズレが上手く外部から呼び込まれていて、よくわからない状態が作り出されているものが「ダサカッコワルイ」ということではないかと考えているんです。そしてそれは、創造という行為にとって非常に重要なものなんじゃないかなと思っているんです。
出戸:すごく面白いですし、直感的にも理解できる感覚です。
郡司:いわゆる純粋なエンターテイメントとアートというのを別のものとして考えた場合、ことさらに前者を批判するわけじゃないんですが、エンターテイメントというのは、閉じられた空間の中で過剰に異質なものを組み合わせつつも整合的な操作をしているだけであって、外部とつながりを持とうとはしていないように思うんです。
反面、アートというのは本来、そういう構造を脱色して外部とつながりを持ってしまうものじゃないかと考えているんですね。Princeの表現は一般的にエンターテイメントとして受け止められていると思うし、僕も当時友人から勧められてビデオクリップを見たとき、「なんてダサいんだ!」と思ってしまったわけですけど(笑)、繰り返し見ているうちに、これはスゴいかもしれない……と感動してしまって。
―Princeもまさにそういう作品が多くありますが、機械とともに演奏することでむしろその「ズレ」が際立ってくるというもやはり重要な論点に思います。そう考えると、最近のOGRE YOU ASSHOLEの電子楽器の使い方には「ダサカッコワルサ」が滲んでいるような気もします(笑)。
勝浦:そうだとしたら、嬉しいです(笑)。
―多様な音色を簡単に出せてコントロールのしやすいデジタル楽器ではなくて、モジュラーシンセサイザーのような、扱うのに手間のかかるアナログ式機材を積極的に使っているのには、どういった理由があるんでしょうか?
出戸:どうなんだろう。少なくとも感覚的な部分では、デジタルよりもアナログシンセサイザーのほうがいい音に思えるんですよね。
勝浦:アナログシンセの中でも、10分ごとに細かくチューニングしないとピッチがズレてきてしまうやつのほうが音がいいというのはあるよね。
出戸:そうそう。不思議なことに。