作家の「意図」と、その作品における「実現」が完全に一致しているものを目にしたとき、興奮や熱狂を覚えることがある。でも一方で、「なぜこんな作品を作ったのか」「どうしてこんな作品になったのか」を作家自身が説明できないタイプの作品があり、それに大きく心を揺さぶられることもある。
OGRE YOU ASSHOLEからのラブコールで実現した研究者の郡司ペギオ幸夫との以下の対話では、そんなことが話されているように思う。正直にいうと、私も編集者としてこの記事がどんなものであるのか、把握しきれてはいない。
自分にとって意味のあるものだけを取り込み、自らの世界や身体を拡張する知性を「人工知能」としたとき、その対極に浮き上がる「天然知能」の考え方。本稿はその入り口に触れながら、創造体験の深淵を覗き、考えさせられた約100分間の対話を記録したものだ。まずは、取材執筆を手がけた評論家の柴崎祐二による序文から。
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メロウなサイケデリアで多くのフォロワーを生む現代屈指のライブバンドOGRE YOU ASSHOLE。00年代USインディーとシンクロしたギターサウンドを経て、サイケデリックロック、クラウトロック等の要素を取り入れた「homely」「100年後」「ペーパークラフト」のコンセプチュアルな三部作で評価を決定づけた。『FUJI ROCK FESTIVAL』では、WHITE STAGE(2014年)、RED MARQUEE(2022年)のステージにそれぞれ出演。2024年9月、新作『自然とコンピューター』をリリースした。
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音楽は「情報」になってしまったのか? 私たちが、真の意味での「創造性」を見出すために
いつからだろう。本来は「創造物」であるはずの音楽というものが、すっかり「情報」めいたものになってしまったのは。いや、それは音楽に限られないだろうし、もしかすると「なってしまった」というのも正確な言い方ではないかもしれない。私たちがあらゆる物事を定量的に数値化可能な「情報」として扱うことに、あまりにも慣れすぎてしまったがゆえにそう感じているのに過ぎないのかもしれないからだ。
しかし、そう考えてみたとしても、音楽なりの創作物がますます定式化された情報コンテンツとしてこの世界を駆け巡り、アテンションと売上のゲームで勝ち残ったものだけが記憶され、多くの優れた「創造的」な事物は忘却の彼方へと消えていく……このような実感を私たち自身の内から拭い去るのはより一層難しくなっているのではないだろうか。かくいう私も、そういう傾向に与してきたところがまったくないのかと問われれば、不格好に言葉を濁すのみだ。
どうすればそれらを救い出せるのか。もっとはっきりいえば、現代のクリエイターはどうすれば自らの表現に「創造性」を賦活することができるのか。および、(しばしばクリエイターをも兼ねる)私たち鑑賞者は、いかにしてそれらに真の意味での「創造性」を見出すことが可能になるのだろうか。
そのための有効なヒントを、ナイーブな資本主義批判によって引き出すことが困難になってしまっているのだとしたら、今求められているのは、もっと別の次元の発想なのかもしれない。本記事では、それを「天然知能」という考え方を元に探ってみようと思う。早稲田大学工学部教授・理学博士の郡司ペギオ幸夫は、同ワードを冠した自著『天然知能』(2019年、講談社)で次のように述べている。
決して見ることも、聞くこともできず、全く予想できないにもかかわらず、その存在を感じ、出現したら受け止めねばならない、徹底した外部。そういった徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。
——郡司ペギオ幸夫『天然知能』P.9より

1959年生まれ。東北大学理学部卒業。同大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。神戸大学理学部地球惑星科学科教授を経て、現在、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授。著書『生きていることの科学』(講談社現代新書)、『いきものとなまものの哲学』『生命壱号』『生命、微動だにせず』『かつてそのゲームの世界に住んでいたという記憶はどこから来るのか』(以上、青土社)、『群れは意識をもつ』(PHP サイエンス・ワールド新書)、『天然知能』(講談社選書メチエ)、『やってくる』(医学書院)、『TANKURI』(中村恭子との共著、水声社)など多数。
「天然知能」は、昨今その飛躍的な発展によって大きな注目を集めるAI=人工知能があくまで「自分にとっての」知覚世界を構築し、有益性の尺度でのみ価値判断を行うのとは全く異なり、ただ世界を受け入れようと待ち構えながら、「外部」を鋭敏に感じ取ろうとする。
ただし、ここでいう「外部」とは、今はまだ学習していないだけでいずれ学習するであろう、なにがしかの未知の情報=想定可能な外部のことではない。そのような知のあり方とは無関係の徹底した外部を指しているのであり、創造とは、そうした外部から「やってくる」ものによってのみ達成される、本来的に計量化不可能な営みなのである。
今一度問うてみよう。人工知能的な思考法があらゆる領域を覆い尽くす勢いで伸長しつつある現在、創造という行為、芸術という存在は、何かの目的や便宜に従属させられるほかないのか。いいや、断じてそんなわけはないだろう。「天然知能」を全開にして創造を行うという行為は、もっと別の種類の、巨大で豊穣な「外部」を私たちに呼び込んでくれるはずだから。
OGRE YOU ASSHOLEというロックバンドこそは、こうした「天然知能」を今もっとも自覚的に我が身に引き寄せながら創作活動を行っている存在だ。彼らは、昨年のEP『家の外』リリース時のインタビュー(※)で、郡司ペギオ幸夫の著作『やってくる』(2020年、医学書院)に触れ、同書から大きな刺激を受けた旨を述べていた。それから約1年。この度、5年ぶりとなった新アルバム『自然とコンピューター』もまた、同書および郡司ペギオ幸夫の他著作を重要なインスピレーション源のひとつとして生み出されたという。
※音楽ナタリー掲載記事「OGRE YOU ASSHOLE特集|新作EP「家の外」で描く、“待つ対象の不在”と“宙吊り的な感覚”」(外部サイトを開く)

OGRE YOU ASSHOLEのメンバー出戸学は、本記事の企画段階でやりとりされたメールの中で、次のように語ってくれた。
制作中に「できた」「わかった」という感覚が突如くるのですが、それが何なのかよくわかりません。でもその時は外部からやってきたという感覚があります。
「天然知能」とはいったい何なのか? そしてまた「外部」とは、創造性とは、作品作りにおける「完成」とはいかなるものなのか。出戸に加え、同じくOGRE YOU ASSHOLEメンバーの勝浦隆嗣(Dr)、そして郡司ペギオ幸夫の三者による、貴重な鼎談をお届けする。
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心でも身体でもない場所から、創造性やリアリティーが「やってくる」
―出戸さんと勝浦さんにまずお聞きします。郡司さんの著作と出会った経緯を教えてください。
出戸:初めはどこかで『やってくる』の書評を読んだのがきっかけだったと思います。なんとなく面白そうな本だなと思って手に取ったんですが、10ページも読まないうちに、ひょっとするとこれはとんでもない本なんじゃないかと思って。それで、全て読み終わる前にバンドのみんなに勧めました。自分たちがぼんやりと考えていたことが、すごく明晰に書かれていると感じたんです。
勝浦:その後すぐに僕も読んでみたんですが、まさに出戸くんと同じ思いを抱きました。以前自分が経験した不思議な感覚が、「やってくる」体験だったんじゃないかとも思うようになって。
―どんな経験ですか?
勝浦:昔、リー・ペリーの来日公演を観に行ったときのことです。はじめのうちは気持ちいい音楽だな〜くらいに思っていたんですが、突然ステージから巨大な波が押し寄せてきたんですよ。比喩とかでなくて、今まで経験したことのない本物の「波」だったんです。自分の中の心でも身体でもない場所をいきなりグワッと掴まれて、海に浮かびながら波に乗せられているような感覚が続けてやってきたんです。
―クリシェじゃなくて、物理的なリアリティーを伴っている「波」を感じたということですか?
勝浦:そう。音楽的に面白いと思ったとかそういう範疇を超えた体験で、これが本当の「グルーヴ」というやつなのかなと思って。つまらない言い方をすれば催眠状態だったということだと思うのですが、自分にとってはとても大きな出来事で、今まで理性で捉えていたのとは別の世界があるということに気付かされたんです。
出戸:当時、驚いた樣子でその体験を話してくれましたよね。

勝浦:以前から僕はバンドと並行して精神科医として仕事をしているんですが、その体験をしてから数年後に過食症の患者さんと話していたときの気づきを経て、いろんな患者さんの話をそれまでは感じられなかったリアリティーを伴って聞くことができるようになりました。その患者さんが、「自分の心の中にある隙間を埋めるために食べるんだ」と言ったのを聞いたときに、ハッとひらめいて。もしかするとその「隙間」というのは、僕があのとき「波」を感じ取ったのと同じ場所なのかもしれないなと思ったんです。
郡司さんの言い方を借りるのならば、それまで「人工知能」的な生き方をしてきた自分がその限界の向こう側に触れるような体験をしたことで、想定もしていなかった外部があることに気付かされたということです。
郡司:とても興味深いエピソードですね。過食症や拒食症の起こるメカニズムについてはまだはっきりとわかっていないんですが、ひとつの仮説として提唱されているのは以下のようなものです。
人間というのは、自分の像を鏡などを通じて見ますよね。けれどそれはあくまで一人称的な、自分から見た顔なり身体のイメージです。一方で、二枚重ねの鏡を通して側面を見たり、後ろからカメラで撮った写真を見たり、つまり断片を重ね合わせることで三人称的なボディイメージも構築しているわけです。
そして、その三人称的なイメージと一人称的なイメージとの間のリンクが切れてしまうと、ダイエットを重ねて痩せてしまった一人称の像をいくら見ようとも、三人称的イメージがかつてのままなので、もっと痩せなければという気持ちに抑制が効かなくなってしまうんですね。
この仮説を発展させると、てんかんの患者さんが発作のときに経験する体外離脱感もうまく説明してくれるんじゃないかとも考えています。そこでは、ある特定の座標から眺めた一人称的なイメージの暴走が起こっていて、それらをなんとかひとつのイメージに留めようとするために、自分を身体の上から俯瞰するような映像が立ち上がってくるんではないだろうか、と。
勝浦:なるほど……。
郡司:他方で、脳科学の分野でも、体外離脱実験というのがあるんです。すごくシンプルな実験で、自分の背中の映像を後ろからカメラで撮ってもらって、ヘッドマウントディスプレイでその様子を被験者自身が見ているという状況の中で行われます。そこで、後ろから誰かに背中を触ってもらうと、自分の身体が体外に離脱しているような感覚を得られるというものです。
けれど、僕自身も研究室で再現してみましたが、どうもそこにリアリティーが感じられないんですよね。そうやって論理的な手順によって提出されたイメージと、実際に人間が体験している体外離脱時のイメージには決定的な違いがあるのではないだろうか、と。つまり、ここでいうリアリティーもまた、全くの外部からやってくるものなのではないかと思ったわけです。
勝浦:とても興味深いです。