シンガーソングライターの澤田空海理が新曲“己己巳己”をリリースした。2021年に「Sori Sawada」から本名に名義を変えて活動している澤田は、「自分の人生の切り取り」と自認する私小説的な歌詞と、その言葉に付随する心象風景を緻密なサウンドデザインで映像的に立ち上げる作風が特徴で、個人的にはジェイムス・ブレイクに近い世界観を感じる。これまでも澤田が楽曲のモチーフとし続けてきた特定の人物に対し、改めて向き合って書いたメジャーデビュー曲“遺書”に続く“己己巳己”(いこみき)は、自らを「惨めな化け物」と呼びながら、その先での心と心の交流を希求する願いのような一曲だ。
澤田の人生哲学の指針となったのは、音楽よりも小説や漫画だという。小学校から大学まで野球部に所属していた彼は、20代以降に江國香織をはじめとした女性作家・漫画家の作品と出会い、そこから自分の思考をアップデート。「20代半ばでやっと人生が始まった」とも語っているように、その影響力は絶大だ。そこで今回の取材ではこれまでに感銘を受けた小説や漫画を持ってきてもらい、それについて語ってもらうことで、澤田空海理という特異な作家性の背景を紐解いた。
INDEX
「日記を書き続けている感覚。美しい言葉を書こうと思ってやってるわけではない」
―澤田さんの楽曲はもちろん「音楽」なんですけど、私小説的であり、映像的でもあって、一般的な「ポップミュージック」の範疇に収まりきらない魅力を持っているようにも感じて。変な質問ですけど、澤田さん自身としては、自分は何を作っているとお考えですか?
澤田:外向けには「手紙」という言い方をしてるんですけど、それはちょっと整えた言い方だなと思っていて、平たい言葉で言えば「日記」に近いものだと思います。人生の中で変わっていくもの、生きていく中でどうしても残しておかなきゃいけないものに対して……「自分が生きてきた証」というほどでもなく、日記を書き続けている感覚ですね。詩集とかではないと思います。美しい言葉を書こうと思ってやってるわけではない自覚があるので。
―「芸術」という呼び方はどうですか?
澤田:「芸術」と言いたいところではあるんですが、そう言うには自分の作っているものはあまりに子供だなと思うし、確実に文化的なものではないと思います。芸術が文脈に対するリスペクトや理解があって初めて成り立つものだとしたら、僕はそれがそんなにないんですよ。音楽をすごくたくさん聴くわけでもない。ってなると、「自分の人生からはみ出ない範囲で創作をしている」という言い方が正しいのかなと思います。
―やはり自分の人生の切り取りであり、日記的なものだと。
澤田:そうですね。自分の創作の芯の部分みたいなものは最近よく考えるんですけど、探せば探すほどそれがないことに気がついて、これはすごく危ういことだと思ってるんです。つまり、どこかでちょっと熱意が落ちたときに、僕は簡単に音楽を手放せるなと思ってしまって。僕の周りには文化的な愛を持ってる方が多いんです。よく友達がルームシェアしてる家に行くんですけど、みんな音楽好きで、暇さえあれば「誰々の新譜が良かった」みたいな話をしてて、でも僕はそこに混ざれないんですよね。僕がやってるのは音楽制作であって、音楽という文化をやってはいないんだなと思うことが最近は増えて……寂しい気持ちです。
―周りにはクリエイターが多い?
澤田:それはボーカロイド時代の遺産というか、サークルでコンピレーションを作っていたので、イラストレーターさんとか、そのとき仲良くなった人とは今でもみんな交流があるんですけど、やっぱり僕だけ飛びぬけて音楽という文化への理解がないことを思い知らされるんですよね。ただそれを今から得ようとするのは「好き」ではなく「努力」になっちゃうと思っていて、今から付け焼刃のものを身につけるぐらいだったら、これまで培ったものを更新していく方がいいと思ってるんです。
INDEX
『ハチクロ』、江國香織、『カステーラのような明るい夜』――「僕は25歳か26歳まで人生が始まってなかった」
―「作家性」という意味では、おそらく音楽以上に澤田さんに大きな影響を与えているのが今日持ってきてもらった小説や漫画だと思うので、一冊ずつ紹介していただければと思います。まず、羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』。
澤田:羽海野チカ先生の作品全般がそうだと思うんですけど、漫画というフォーマットを使っているだけであって、羽海野チカ先生の思想であるとか、この人が思う美しい人の生き方にずっと触れてる感覚があって、『ハチミツとクローバー』はそれが特に顕著だと思うんです。
『ハチミツとクローバー』全体を薄目で見ると、美大を舞台とした恋愛ものと捉えられていると思うんですけど、その中に挟まる創作論の話みたいなものも、芯を食ってるんですよ。途中自転車で旅をする話が出てくるんですけど、それは僕と同じような葛藤を抱えてるからなんです。「僕だけ文化的に音楽を好きになれない」という話をしましたけど、それと一緒で、周りには本物が集まっているのに、自分だけが偽物だと感じて、「自分は何者なのか?」を見つけるために旅に出る。でも彼が持って帰ってくる答えは「別にそれでいい」なんですよね。何か特別なものを見つけて帰ってくるというわけでもないんです。そういう羽海野チカ先生の思想、創作に対する向き合い方みたいなものがさらっと入れられてるのに、これだけ恋愛ものとして質が高いっていう……これは自分にとってお守りですね。
―江國香織さんの『落下する夕方』。江國さんの名前は過去のインタビューでもよく出てきますね。
澤田:江國さんは一番敬愛する作家さんで、最初に読んだのが『落下する夕方』。ちょっと危ない言い方ではありますけど、僕が女性性で生まれていたら、多分江國香織を読んで、どうしようもない絶望をずっと手に入れてるんだろうなと思うんです。
江國さんの作品に対する感想をネットとかで見ると、「普遍的な恋愛の中に何かを落とし込む」みたいに書いてあることが多いんですけど、僕の中ではイマジナリーに近いというか、「ここまでやっちゃうと、もうそれはドラマの域だろう」と思う。でも江國さんは絶対解像度を落とさない。知らないことを知らないまま書かないというか、江國さんの芯から出ている言葉として書かれているから、僕にとっては江國さんの思想に見えちゃう。本当はそんなこともないのかもしれないけど、もしそうだとしたら、江國さんの作家としての力量はものすごいものだと思うし、僕も作詞のときに意識するんですけど、独りよがりの歌詞であったとして、人に絶望を叩き込むことって大事だと思うんですよ。その強度が落ちたら絶対ダメだと思うので、そういう意味で敬愛する作家さんの1人です。あとヒロインの華子が人物として大好きすぎて、人生ファーストに置いてますね(笑)。
―もう一冊、江國さんの小説で、『ホリーガーデン』。
澤田:江國さんの小説でこういう言葉を使いたくはないんですけど、ギミックがあまりに刺さってしまったんです。途中で缶の話が出てきて、僕は勝手に「呪い缶」と呼んでるんですけど、主人公が自分の元彼や大切な人の写真とかを缶に詰め込んで、自分の手の届かないとこに保管してるんです。実は僕も同じようなことをやっていて。
江國さんの小説全般ですけど、どの登場人物もすごく強いんですよ。か弱く書かれることもあるんですけど、一本筋が通っていて、その一本筋を他人にも誇示するんです。「私はただ恋愛に狂ってるだけで、それ以外の部分は正常です」っていう見せ方をする。でもその人の未練の残し方が「缶に入れて手の届かないところに保存する」というすごく安易な方法で、そこに人間臭さがあるというか、それをやってしまう人間の甘さみたいなものがある。結局はみんな大きくは違わないんだなっていう、そのバランス感覚ですよね。本当に素敵だと思います。
ー続いては唯一の詩集で、尾形亀之助さんの『カステーラのような明るい夜』。
澤田:もともと江國さんの小説に引用されて出てきて、「なんだこの美しい一節は」と思って読んだんですけど、僕はやっぱり詩は絶対できない。自分の想像したものをぼやけさせて、何となくの情景を読者に与えなきゃいけないって、僕にはすごく難しいことなんです。詩みたいな歌詞を書ける人は、僕以上に歌詞のことを1回か2回分多く考えると思うんですよ。「これだと伝わりすぎる」みたいな。でも解像度を落としすぎるとただの綺麗な言葉になるので、そのバランスをうまくとってる人が好きです。
「カステーラのように明るい夜」という一節を読んで、夜空にカステーラを連想させられた時点でこっちの負け、「僕はもうあなたの世界に完全に取り込まれました」と思いました。言葉の力はこういうふうに使うと一番美しいんだなと学びましたね。
―ちなみに、『ハチミツとクローバー』や江國さんの作品と出会ったのはいつ頃ですか?
澤田:遅いんですよ。『ハチミツとクローバー』がたぶん20歳くらい。江國さんはもっと最近で、2020年とかだと思います。
―それまでは野球中心の、男の子的な世界にいて、その先でこれらの作品と出会ったと。
澤田:やっと自分が収まるべきところに出会ったという感覚ですね。あんまりインタビューで言ったことはないと思うんですけど、僕は25歳か26歳まで人生が始まってなかったというか……今となってはですけど、頭で考えることをあんまりしてなかったなと思って。いろんな人に出会い、いろんなことを考え、趣味嗜好が自分にフィットするものに寄っていったときに、初めて自分の輪郭みたいなものが見えた気がする。それまでは本当に真逆の文化にいたので、もう絶対あそこには戻らないって決めている自分もいたりします。
INDEX
4冊の漫画――「残りの生きる時間とか、素敵だったと思える時間を増やすことはできるはず」
―続いて、田島列島さんの『水は海に向かって流れる』。
澤田:これも衝撃でしたね。絵柄はポップというか、柔らかくて、書き込みも多くないタッチなんですけど、田島列島先生は全体を通して、重たいはずの言葉を重たくなくずっと差し込むんです。捨てられた猫を拾ってきたときの「君は幸せになるよ」とか、当たり前の言葉で、でもあとあとすごく納得させられるってすごいことだなって。この人は絶対に遠回りをしない、直接伝えることに重きを置いている方だと思うんです。2人で傘に入ってるシーンの、「俺がいなければ、この人の肩が濡れることはなかったのに」っていう、これだけで全部伝わるというか、やろうと思えばもっと言葉を増やせると思うんですけど、それをやらない強さがある。3巻完結なので、よかったらぜひ。
ー入りやすいですね(笑)。次が平庫ワカさんの『マイ・ブロークン・マリコ』。
澤田:親友が自殺したところから始まる話で、喪失の話ではあるんですけど、でも「私が何かしてあげられたかな?」ではないんですよ。「なんで死んだ?」ももちろんあるんですけど、「自分が死んだら相手は置いていかれる。そのことを想像しなくてもいい存在だったんだ」っていうところとかにもフォーカスを当てていて。
自死を選ぶマリコという女の子がもうずっと壊れてるんですよ。よく「穴の空いたバケツ」って言い方をしますけど、どれだけ注がれても下から出ちゃう人がいて、その人を救うことは不可能だとわかりきってる。それでも自分だけはそうじゃない、自分だけはその穴を修復できる人物だと思いたい、みたいなものにはやっぱり引っ張られちゃいますね。それを諦めたら、今後の人生で嫌な達観の仕方をしてしまう。「こういう人たちは救えないからさ」って。
僕もその穴を埋められるとは思ってないですけど、せめて水の流れを遅くすることはできる。その人の残りの生きる時間とか、その人たちが素敵なものであったと思える時間を少しでも増やすことはできるはず。そういうところにも絶対触れている作品で、僕もそうありたいです。
―はらださんの『ワンルームエンジェル』。
澤田:これは友達にもらったものなんですけど、どれどれと読んだら、やられましたね。「天使くん」という男の子がいるんですけど、この子は人間の感情に左右されちゃうんですよ。そばにいる人間が悲しければ、羽が抜け落ちていってしまうし、その逆も然りで、そばにいる人間が温かい気持ちなら、羽がどんどん回復していく。そういうギミックがたくさんある中で、要は心に触れる話をずっとしてるんですね。
もう一人の主人公は優しいけど風貌ゆえに周りからはちょっと敬遠されがちで、結果的にはお互いがお互いを救うための存在だったことがわかる。だから漫画全体としては「あなたが思ってるほど人間って悪いもんじゃないんだよ」っていうのを伝えようとしているというか。与えているから与え返される。その暖かさのバランスがとれていて、優しくなればなるほど、人として適切な対応をすればするほど、さよならが近づいていくことも含めて、「これはずっと心の話をしてるんだ」と思いました。
―幌山あきさんの『マーブルビターチョコレート』。
澤田:これは消費のお話です。小説家の女性が主人公で、パパ活をやってる女の子に突撃して、本意でなくともルポライターみたいなことをやるんですけど、そこでそのパパ活をやってる子に惹かれちゃうんですよ。恋愛的にというより、人間として。自分が馬鹿にしていて、「しょうがないからこいつらでお金を稼ぐか」と思った対象が、自分の想像を超えてしまっていたどころか、自分に手を差し伸べられる存在かもしれなかったっていうところから始まる。でもこの人のやってることは消費で、「パパ活女はこんなんだった」みたいなのを書かされて、自分も疲弊していくんです。最終的にはその子のためにも自分はもう手を引きたいって話をするんですけど、出版社からは「もうあなたは逃げ出せないよ」みたいなことを言われてしまう。あなたがやったことはとっくに消費であり、おぞましいことで、急に「もう加担しない」は許されない。それも恐ろしく正論だと思うんです。
僕も音楽で他の誰かのことを消費してしまって、それを僕は攻撃だと自負はしている。でも自負してりゃいいって話じゃねえぞっていうのがここに書かれていて、できることはその事実を受け入れることだけ、その後の言葉は何も意味をなさないっていう話でもある。これは結構食らっちゃいましたね。