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Emeraldの中野陽介が語る「他者との共存」 PaperBagLunchboxの解散も振り返る

2024.8.21

#MUSIC

Emeraldが7年ぶりのフルアルバム『Neo Oriented』を完成させた。バンドのルーツにあるネオソウルをもう一度見つめ直しながら、「日本」という場所の持つ様々な文脈を強く意識した中で楽曲を制作したという本作において、ボーカルの中野陽介がテーマに掲げたのは「他者との共存」。言うまでもなく、この7年の間にはコロナ禍があり、人と人との距離が遠ざけられた中で、僕らは「共生」という言葉の意味を突き付けられた。そして、バンドという集団はまさに共生社会のひとつの縮図だと言うことができるだろう。

中野はかつてPaperBagLunchboxというバンドで3枚のアルバムを発表し、音楽ファンからの高い評価を獲得したが、その活動は心身をすり減らすものであり、中野の失踪騒動を経て、バンドは2011年に解散している。PaperBagLunchboxからEmeraldへという、中野の喪失と再生の物語は、そのまま「他者との共存」というアルバムのテーマをより深く掘り下げることになるはずだ。意外にもこれが初めてだというソロインタビューでは、その長いキャリアを改めて紐解きながら、いかにして「バンドを続けること」と向き合ってきたのかをじっくりと語ってもらった。

続けられなかったバンド、PaperBagLunchboxを振り返る。

―中野さんがバンドを初めて組んだのはいつですか?

中野:大学1年でPaperBagLunchbox(以下、ペーパーバッグ)を組んだのが初めてです。その前は学祭でハイスタをカバーしたりとか、それくらいでしたね。

―ペーパーバッグの結成が2001年なので、それから23年。こんなに長くバンドをやっていると想像してましたか?

中野:いやあ……やってるだろうとは思ってましたけど、もうちょっと売れてるかなと思ってました(笑)。

中野陽介(なかの ようすけ)

―意外にもソロでのインタビューは今回が初めてということなので、デビューのときに聞くような質問ですが、バンドをやりたいと思った原体験を教えてください。

中野:原体験は明確に覚えていて、映画『スワロウテイル』が地上波で放送されたのを家族で見たんですよ。姉ちゃんが2人とも音楽好きで、主演だったCharaきっかけで見たんだと思うんですけど、その中でYEN TOWN BANDが“My Way”を演奏するシーンを見て、マジでかっこいいと思ったんですよね。バンドが物語の中で壊れていく、その姿もかっこいいと思って、そのとき明確にバンドをやりたいと思いました。

―それでペーパーバッグを結成して、最初から「売れたい」と思っていた?

中野:「売れたい」というよりは、まず自分のバンドを組んで、思いっきり転がしてみたいと思ったんです。そうしたら、大学3年のときに当時のレーベルと出会い、「東京に出てこないか?」と誘われて。その頃に“スライド”ができて、そのときに初めて「音楽でやっていこう」と思った記憶があります。

中野:あと実際にバンドをやってみて、周りの人の才能を持ち寄って、いいところを組み合わせて、「自分だけではできない物を作る」のが向いているなと思ったんですよね。それぞれの「味」を組み合わせて、その一部になるみたいなことが自分は向いてるなって。

ただペーパーバックの場合は自分の持ち味を他のメンバーの持ち味にぶつける感じだったんですよ。そこはEmeraldとは全然違います。自分がボンッてぶつかって、そこに入り込むことで形になるみたいなイメージ。音楽的な知識がすごく豊富なわけでもなく、スキルがすごく高いバンドでもなかったので、そういう激突みたいなものが音楽になる印象でしたね。

PaperBagLunchbox(ペーパーバッグランチボックス)
2001年、大阪芸術大学の音楽サークルにて、当時1年生で同級生の4名、中野陽介(現Emerald Vo)、恒松遙生、倉地悠介、伊藤愛によって結成される。2006年にROVOや当時七尾旅人などをリリースしていたwonderground musicより1stEPとアルバムでインディーズデビュー。SUPERCARのプロデューサーであったカナイヒロアキ氏をプロデューサーに迎え「PBLEP」「ベッドフォンタウン」をリリース。Snoozerなどで特集され、田中宗一郎にして「フィッシュマンズとシガーロスをつなぐミッシングリンク」と評されるなど、大きな話題を呼ぶ。syrup16gの企画でshibuyaAXに出演など、これからという場面でバンドは突如停止、5年もの間地道なライブ活動をするのみにとどまる。5年の月日が経った頃に、ライブ活動で磨き上げた楽曲を2ndアルバムとして会場限定でリリースし、全国ツアーを開始し好評を得る。その後間を開けず完全新曲のみで構成された3rdアルバム「Ground Disco」をリリース。キーボードの恒松をバンマスにし、バンドをデビューへ導いた加藤孝朗氏自らがプロデューサーとなる形でコンセプチュアルな楽曲の制作とライブを展開。長期のツアーを敢行するも、震災などを経てバンドは空中分解。札幌での2デイズを最後に、ツアーファイナルを迎えぬまま突如解散を発表。当時、Webメディアにてバンドをルポルタージュした長期連載「音楽を、やめた人続けた人」が話題を呼んだ。

―去年の11月にペーパーバッグの全楽曲がサブスクで解禁されたじゃないですか? あれはどういう経緯だったんですか?

中野:知り合いから「ペーパーバックの昔のライブ映像がYouTubeに上がってるよ」と言われて、レーベルのチャンネルを見に行ったらマジで上がってたんです。それで当時のサブマネージャーに連絡をしたら、「酔っ払って間違えて上げちゃった」って(笑)。

で、「こういうことするんだったらサブスクやろうよ」って話をして、結局2年くらいかかっちゃったんですけど。せっかくだからリマスターしたくて、ファーストは当時のプロデューサーのカナイ(ヒロアキ)さんに、セカンドとサードはそのサブマネージャーからROVOの益子(樹)さんを紹介してもらえて、足かけ3年ぐらいをかけてようやく配信された感じでした。

―リリースの情報が発表されたときのコメントで、「苦々しい思い出とセットのはずの全33曲。しかし10年も経てば響きは変わってくるものです」とありましたが、実際どんな変化がありましたか?

中野:やっぱり昔の音源なので、若いなとも感じるし、青いなとも感じるんですけど……でもマジで死ぬ気でやってたので、何としても聴ける状態にはしたいよなと思ったし……やっぱり当時の自分の精神状態や制作の状況をいろいろ思い出すと、まともじゃなかったんですよね。生活自体がまともじゃない中でよく頑張ったなと思ったし、みんな才能のあるメンバーだったなと思ったし、これはちゃんと残しておくべきだろうっていう気持ちになりました。

―当時は心身をすり減らしながら活動している部分もあり、中野さんの失踪騒動もあったりしました。その状況の中では客観的に自分たちの音楽を見つめることは難しかったけど、10年以上のときを経て、今では「作品」として俯瞰で見られるようになった?

中野:「作品」として見られるというよりは、自分の人生の一時期をすごく大事に思えるようになった感じですかね。それを黒歴史のように葬り去るのは嫌だったし、とはいえ触れるにはまだ自分が未熟だと思って、ずっと触れずにいたんですけど、メンバーみんな元気で暮らしていて、リリースをOKしてくれたのもあるし、当時衝突をしたマネージャーもよしとしてくれたので、「この時代のことをもう1回改めて大事に思おう」みたいなことだった気がします。あれが出たことで、長年背負ってきたものがちょっと……荷が下りたというと変ですけど、少し消化された感触はありました。

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