2020年5月。社会に閉塞感が立ち込め、人とのつながりや拠りどころが絶たれていったコロナ禍に亡くなった、1人の女性がいた。
プロデューサーが目にした1つの新聞記事をきっかけに、監督を務めた入江悠がその思いに共鳴したことからつくられた映画『あんのこと』は、実在したある女性の人生に基づいている。
個人では抱えきれない問題に「自己責任」を求める風潮や、弱い立場に置かれた人ほど不十分なシステムの影響を受けやすいこと、苦境にあえぐ人々がいるなかで勇ましく空虚な「希望」が掲げられること――。『あんのこと』は、そのような現在の社会のいびつさや、人が抱え持つ複雑さを、コロナ禍を背景に、香川杏(河合優実)という女性の人生に寄り添いながら描いている。
今回、監督の入江悠と、ライターの高橋ユキの対談を実施。薬物更生者のための自助グループをつくり、杏を支援しながらも、自助グループの参加者に性加害を行っていた、多々羅(佐藤二朗)のモデルになった元刑事に、実際に取材を行っていた高橋から見た本作の感想と共に、フィクションとノンフィクション、それぞれのつくり手としての立場から感じることについて語り合ってもらった。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
INDEX
入江監督が実話をもとにした作品に初挑戦。実際にその「生」を送った人々への責任
─お二人はどういう経緯で知り合われたのでしょうか?
入江:『あんのこと』の脚本を書こうとしているときに、高橋さんにお話を伺わせていただいたんです。
高橋:杏(河合優実)のモデルになった女性が亡くなったあと、新聞で彼女についての記事が出たんです。その記事には、映画の多々羅(佐藤二朗)にあたる、彼女を支援していた元刑事のことも書かれていて。あるウェブ媒体から、その元刑事にインタビューをしてみないかと言われたんですね。それでインタビューの依頼をしたところ、快諾してもらえて、滞りなくインタビューができたんですけど、その後、彼が逮捕されたんです(※)。
※警視庁在籍時、相談に訪れた女性の下着姿を撮影したことなどにより、特別公務員暴行陵虐罪で逮捕、起訴された。
高橋:その顛末についても裁判を見に行って記事を書かせてもらったら、映画会社の方を通じて「話を聞きたい」と連絡があって。女性のことを知りたいという話だったので、私が調べていたのは元刑事の方だし、期待に応えられないのでは、と思ったんです。それに、過去にテレビとかのスタッフがある事件について話を聞かせてほしいというときに、全然詳しくない人がやってきて、1から全部説明しないといけないことが、たまにありました。もちろんそうした人ばかりではないのですが、初対面のときには不安な側面もありドキドキしていました、すみません(笑)。

ノンフィクションライター。2005年、女性の裁判傍聴グループ「霞っ子クラブ」を結成。翌年、同名のブログをまとめた書籍を発表。以降、傍聴ライターとして活動。裁判傍聴を中心に、事件記事を執筆している。
入江:いえいえ(笑)。
高橋:そういうときにディレクターなど上層の方が来ることってあまりないんですけど、監督もいらっしゃったからすごく驚いて。でも期待に沿える話ができた感じがしなかったので、気にかかっていたんです。
入江:いえ、そんなことないです。僕自身は捕まった元刑事の方には会えていないので、実際に高橋さんが会われたときの印象を伺って、どういう人なのかがなんとなくわかった感じがしたんです。

映画監督、脚本家。2003年、日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。2009年、自主制作による『SR サイタマノラッパー』が大きな話題を呼ぶ。その後、2011年『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』で高崎映画祭新進監督賞。2019年『AI崩壊』で日本映画批評家大賞脚本賞。最新作『あんのこと』が2024年6月7日公開。
高橋:そうなんですね。よかった。
入江:僕にとって、この映画は初めて実話を基にした作品なんです。これは責任重大だと、脚本を書いている途中ではっと気づきました。実際にあったことを掘り起こして、1つの作品として形をつくっていく作業って、高橋さんのようなノンフィクションのライターさんがされている作業にかなり近いように思います。
僕は、高橋さんの書いた『つけびの村』(2019年 / 晶文社)を読んでいて。ノンフィクションって、取材しても作品になるかならないかわからないところがあるじゃないですか。そういう作業をされている方に興味があったので、高橋さんにお会いしたかったというのもあるんですよ。あんなふうに切り込んだ取材をされるのってどんな方なんだろうと思っていたら、すごくやさしい方でした(笑)。

あらすじ:2013年の夏、わずか12人が暮らす山口県の集落で、一夜にして5人の村人が殺害された。犯人の家に貼られた川柳は「犯行予告」として世間を騒がせたが、それは「うわさ話」にすぎなかった。ネットとマスコミによって拡散されたうわさ話を地道に調査・検証していく。
─高橋さんはどのように本作をご覧になられましたか?
高橋:杏のモデルになった方の人生については想像で補う部分が多いと思うのですが、今回、監督なりのイメージでこのように世界をつくられたんだなと、私としてはフィクションの部分も納得して、興味深く作品を拝見しました。
あらすじ:21歳の杏は、10代の頃から母親に売春を強いられ、過酷な人生を送る。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた杏は、多々羅という刑事と出会う。
薬物依存からの更生や、就職をサポートし、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。週刊誌記者の桐野は、「多々羅が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加者の女性に関係を強いている」というリークを得て、取材を進めていた。ちょうどその頃、新型コロナウイルスが猛威を振るう。杏がとうとう手にした居場所や人とのつながりが失われていく。
入江:杏のモデルになった方は亡くなっているので、物理的に会って答え合わせができません。その分想像で補完しなければいけないけど、モデルになった方に対しての責任があるので、その想像に失礼があってはいけないなと思いながらつくりました。
高橋:架空のキャラクターの場合は、その点もっと自由にされているというか。
入江:もしキャラクターの描写に破綻があっても、自分がつくったキャラクターの場合は、自分の責任で引き受けられるじゃないですか。今回はそこが違うんですよね。