倍速視聴やショート動画の時代に、長編映画やクラシック音楽、演劇はしばしば「退屈」と語られる。しかし「演劇が流行っている / 流行っていない」が議論されていたように、若者も長編漫画やアニメを楽しむし、数時間付き合わざるを得ない演劇も一部で人気だ。
では、現代的な鑑賞体験に求められることはなんだろうか。そのキーワードの一つに「目撃感」がある。
AIで作品の生成や模倣が容易になっているが、人間が「ここにいた」という事実だけは、自分の人生からコピーも倍速もできない。そこに演劇が持っている物語を再び「出来事」にする力の原理が関わってくる。
2026年8月に行なわれた劇団不労社の西田悠哉、谷川嘉浩、渡辺祐真登壇のトークイベントでの議論を元に、現代の鑑賞体験に起こっている変化の核心について考察する。
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「演劇は流行ってない」。それでもなお、今問われていること
今、演劇を改めて捉え直そうとする動きが目立っている。大小さまざまな劇団やユニットが各地で上演を行なう一方、文芸や批評の側からも、「今、演劇とは何なのか」を問い直す議論が相次いでいるのだ。
その空気を端的に示していたのが、2026年6月に東京・三鷹のSCOOLで開かれた「『演劇は流行ってない』。それはそう。確かにそう。前からそう。で、じゃあこれからどうするの?の会」だろう。石黒麻衣、カゲヤマ気象台、関田育子、宮崎玲奈、本橋龍、山本ジャスティン伊等という6人の演劇作家が集まり、佐々木敦の進行のもと、「演劇は流行っていない」とするなら、これからどうすればいいのか、そもそも演劇が「流行る」とはどういう状態なのかが議論された。このイベントを受けて、山本浩貴(いぬのせなか座)は、現在を「ジャンルが人を引き上げる時代ではない」と捉え、良い作品を作るだけでは外部へ届きにくくなった状況と、同時に小劇場演劇が抱えるマイナーな価値をどう維持するかという問題を論じている(※)。
※参照:山本浩貴「ジャンルが人を引き上げない時代に、誰が、何を、どうやって?――蓮見翔発言と演劇イベント」『いぬのせなか座』note、2026年6月30日。
背景には、演劇というジャンルの社会的な流通力が弱まり、良い作品を作ればそれだけで次の観客へ届くという前提が成立しにくくなっている、という危機感がある。現在、作家や劇団は、自ら新しい入口を作り、演劇の外側へどう届けるかまで考えなければならない。だからこそ今、「どうすれば演劇をより広く開けるのか」と同時に、「それでもなお、演劇として守るべき固有の価値とは何なのか」が、改めて問われているのだろう。
さらにそのような現状を受けて、『新潮』2026年9月号では「令和演劇ニューウェーブ」特集なるものが企画された。『新潮』にとって初の演劇大特集で、岡田利規×大石恵美「百年後も上演される戯曲を書く」、野田秀樹×蓮見翔「演劇をまた流行らせるために」といった対談のほか、劇作家・演出家による「私はなぜ演劇を選んだか」というエッセイ群も組まれた。編集部が掲げた問いは、「芝居というものの、代替のきかないおもしろさ」は何に由来するのか、というものだった。

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劇団不労社『暗黒の喜劇』でもテーマとなる「現代において何が現実として信じられるのか」
以上のようなタイミングの中、2026年8月30日にロームシアター京都にて行なわれたのが、「『物語』の危機と演劇的想像力 ~世界と自己をつなぐフィクションの未来~」と題したトークイベントである。

登壇したのは、西田悠哉(劇団不労社)、哲学者の谷川嘉浩、書評家である渡辺祐真の3人。テクノロジーの発達によって現実感が急速に変容し、自動生成されるテキストや画像、無数に流通する言説の中で、何を信じ、どう世界とつながるのかが揺らぐ現在。その問題を、場所と時間、身体を共有する「演劇」から考えるという企画である。

1993年東京都生まれ富山県育ち。劇団不労社代表。劇作家・演出家。KAIKA芸術監督。2021年より無隣館4期を経て青年団所属。2024年に発起人として“関西舞台芸術シーンの再興/再考”を軸とした運動体「西陽〈ニシビ〉」を始動。立命館大学 非常勤講師、京都市立美術工芸高等学校非常勤講師。主な受賞歴として、「関西演劇祭2021」ベスト演出賞、「若手演出家コンクール 2022」優秀賞、「演劇人コンクール 2024」最優秀演出家賞・観客賞など。セゾン文化財団 2026年度セゾン・フェローⅠ。
現代において何が現実として信じられるのか、という問いは、実は西田の新作にもそのまま引き継がれている。西田は劇団不労社を主宰し、陰謀論的な思考から着想した新作『暗黒の喜劇』を、2026年10月9日(金)から12日(月・祝)までロームシアター京都にて上演する。

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観客が求めるリアリティの正体
トークの出発点になったのは、西田が手がけた劇団不労社の『サイキック・サイファー』(2025年)だった。恋人の失踪をきっかけにネット上の陰謀論的情報へとのめり込んだ女性が、ラップのサイファーを通じて自己を表現する言葉を獲得し、やがて現実と妄想の境界を揺らしていく作品である。
ここからまず、「自分の言葉」とは何か、という話が始まった。谷川は、人は完全に自前の言葉で喋っているのではなく、学校、会社、研究、あるいは陰謀論のような共同体が用意した語彙や世界観を一度インストールし、「こういうふうに世界を語ればいい」と学ぶことで饒舌になっていくのではないか、と指摘する。

1990年生まれ。大阪経済法科大学非常勤講師,本学非常勤講師,日本学術振興会特別研究員(DC2)、京都市立芸術大学特任講師を経て,2023年から専任講師。『スマホ時代の哲学』『信仰と想像力の哲学』『専門分野の越え方』など著書多数。講演やワークショップもしばしば行う。日本哲学会,応用哲学会,日本社会学理論学会などに所属。
西田はそこに、ラッパーと俳優を重ねる。ヒップホップでは歴史的に「keep it real」に象徴される真正性が重要な価値の一つとして語られてきたが、ラッパーは、多くの場合本名とは別の名を持ち、自分の来歴を物語化し、ときに「フレックス(=富や成功、能力、ステータスなどを誇示する)」によって自己像を演出し増幅させる。つまり、リアルを求める文化の内部に、すでに演技やフィクションがある。俳優も同じだ。戯曲という他者の言葉を与えられ、架空の人物を演じながら、その場に「本当らしさ」を発生させる。
つまり観客は、演劇が嘘であることを知っている。舞台上の人物が本当にその人物ではないことも、そこにある部屋が本物の部屋ではないことも分かっている。それでも、演技が「嘘っぽい」と、醒める。つまり観客が求めているリアリティとは、現実の忠実な再現ではない。
むしろ、「この作品では、何を本当として受け取るか」という約束がうまく成立していることが重要なのだ。棒読みに近い演技が日常のリアルとして成立するときもあるし、逆に大仰な芝居がリアルに感じられるときもある。リアリティとは固定された尺度ではなく、作品と観客の間にその都度作られる「枠」なのである。
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「こんにちは性」の今。メタ表現の常態化とメディア経験
この話は、西田が「こんにちは性」と呼んだ、近年の演劇の始まり方へと広がっていった。暗転し、照明がつき、観客など存在しないかのようにフィクションが始まるのではなく、演者が「こんにちは」と観客に話しかけ、私たちと同じ日常にいる人間として姿を現し、そこから徐々に劇へ入っていくというスタイル。西田は、特に東京の演劇ではこのような導入が増えていると語る。

これは演劇だけの話ではない。ドラマの俳優がSNSで役を離れて撮影の裏話を語る。アニメのキャラクターが現実の商品を宣伝する。テレビ番組ではスタッフやカメラの存在まで映し込まれる——。かつてフィクションを成立させるために「ないもの」とされていたものが、次々に可視化されている。もちろん、観客に直接語りかけたり、演劇が演劇であることを露出させたりする手法自体は、決して新しいものではない。演劇の歴史を遡れば、観客との境界を越える実践はいくらでも存在するし、近代リアリズム / ナチュラリズム演劇の中で強く意識されるようになった「第四の壁」(※)も、近現代の演劇によって繰り返し相対化されてきた。
※第四の壁:舞台上の左右の壁と、奥の壁のほかに、客席側に壁があるという考え方。舞台上と客席の間にあるフィクションと現実の境界を表す。フランスの思想家ドゥニ・ディドロが18世紀に提唱した。
だとすれば、現在起きている変化の核心は、メタ的な表現そのものの新しさにはないのだろう。むしろ、メイキングや舞台裏の発信が常態化し、フィクションとその外側を往復すること自体が、私たちの日常的なメディア経験になっていることのほうが重要なのではないか。
西田が『サイキック・サイファー』を屋外で上演した経験も、同じ問題につながっていた。劇場なら照明、美術、暗闇、壁によって、どこからが作品世界なのかをコントロールできる。だが屋外では雨が降り、風が吹き、救急車が通り、通行人が横切る。陰謀論についてのセリフが屋外に響き、劇を観るつもりのなかった人の耳にも入る。西田が印象的な出来事として語ったのは、通りかかった幼い子どもが、ラップを聴きながら「かっこいい」と繰り返していたことだった。劇場の囲いを解くことで、演劇が日常へと漏れ出し、予定されていなかった人にまで届く。


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現代の観客が求めているのは「作品にどうアクセスするかを選ぶ権利」
しかし、この日のトークが興味深かったのは、「ならば演劇はどんどん開けばよい」という結論には向かわなかった点である。渡辺はイマーシブ演劇について、観客自身が役を与えられ、作品の内部に介入していくことへの居心地の悪さを語った。物語には、自分が簡単には触れられない「特権性」があってほしい。受け手が自由に書き換えられるものではなく、自分より少し遠い場所にありながら、その輪郭を保っていてほしいという感覚だ。

1992年東京都生まれ。作家、書評家、ゲーム作家。毎日新聞文芸時評担当(2022年4月~)。共同通信社「見聞録」担当(2024年〜)。TBSラジオ「こねくと」レギュラー。TBS Podcast「宮田愛萌と渡辺祐真のぶくぶくラジオ」パーソナリティ。shueisha vox「これって教養ですか?」MC。著書に『物語のカギ』。編著に『みんなで読む源氏物語』、『あとがきはまだ 俵万智選歌集』。共著に『吉田健一に就て』、『左川ちか モダニズム詩の明星』、など。
一方、西田が高く評価した、イギリスの劇団・パンチドランクによるイマーシブシアター『Sleep No More』では、観客は仮面をつけて建物の中を自由に歩き、同時多発的に進行する場面のうちどれを目撃するかを自ら選ぶ。だが、その選択によって物語の大枠そのものが書き換わるわけではない。つまり、観客に委ねられているのは物語を改変する権利ではなく、物語への接近の仕方である。ここから仮説として浮かび上がったのは、現代の観客が求めているのは必ずしも「作品を変える権利」ではなく、「作品にどうアクセスするかを選ぶ権利」なのではないか、ということだった。
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ショート動画の時代における、「時間の芸術」のあり方
これは鋭い指摘である。というのも、これは、倍速視聴やショート動画の時代における時間の主導権の話にもつながるからだ。小説はいつ読むのを止めてもいいし、数ページ飛ばしてもいい。映画やドラマも、配信によって停止や倍速が可能になった。それに対して演劇では、幕が開けば、観客は原則として作り手が設計した時間に付き合わなければならない。西田は、演劇は「時間の芸術」であり、どこに間を置き、どこで加速し、どこで観客を待たせるかまで含めて演出なのだから、そこを自由に飛ばされては成立しないと話した。
ただ、現代人が長いものを一切受け付けなくなったわけでもない。若者も長編漫画やアニメを楽しむし、数時間付き合わざるを得ない演劇も一部で人気だ。重要なのは、完全な受動か完全な能動かではなく、その間にどのような選択権を設けるかである。谷川が指摘したように、TikTokは受動的に見続けられる一方、指一本でいつでも次へ行ける。主導権をすべて引き受ける必要はないが、「自分はここから抜けられる」「別のものを選べる」という感覚がある。そうした選択権が、現代的な鑑賞体験の快楽の一部を支えている。

この問いは、演劇というジャンルそのもののあり方にも重なる。観客との垣根を下げれば入口は広がるが、下げすぎると、舞台が持っていた「触れてはいけないもの」の感覚まで消えてしまう。実際、終盤に客席から「演じる側と受け手の間に一線があるからこそ、演劇には力が生まれるのではないか」という問いが出ると、西田は強く共感した。自身の原体験には唐組やSCOTのような、圧倒的な非日常性を持つ演劇があり、「お客さんのところに降りる」より「これを観よ」と提示したい感覚があるという。
ただしそれは、過去の演劇へそのまま回帰しようとしているわけでもない。西田は同時に、かつて強度ある表現を支えてきた一部の創作現場には、抑圧的・スパルタ的なトレーニングが存在し、それを現在ではハラスメントの問題と切り離して考えられない、とも語った。では、その暴力性を捨てながら、舞台の強度や超常性だけをどう取り戻すのか。俳優と演出家の共同作業によって、「触れられないほど強いもの」をどう作るのか。ここに、現在の演劇が直面する非常に重要な課題がある。
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価値の中心は「何を見たか」よりも、「どのような状況で、自分がそれに立ち会ったか」へ移動している
トークの終盤、紅テント(※)の思い出が語られた。夜の暗闇の中に、ぽつりと赤いテントが立つ。そこだけに明かりが灯り、人が集まり、劇が始まる。ここで議論の最後に現れた言葉が、「非日常性」と「目撃感」である。非日常性の価値は、比較的ピンときやすいかもしれない。旅行がそうであるように、日常とは違う空間、違う規則、違う景色の中へ身を置くことは、それ自体が快楽になる。劇場に入って照明が落ちることも、赤いテントの中へ入ることも、日常から別の世界へ切り替わる経験である。
※紅テント:劇作家 / 演出家の唐十郎が率いた唐組が使用する、移動式の赤いテント。このテントの中で演劇が上演される。1967年に新宿の花園神社で初めて行なわれたのが起源とされている。当時は劇場で上演される演劇が一般的だったため、前衛的な演劇として若者を中心に支持を集めた。
しかし「目撃感」は、それとは少し違う。非日常が「いつもと違う場所にいる」という空間の経験だとすれば、目撃とは「ある出来事が起きたその時間に、自分もそこにいた」という時間の経験である。その回、その場で起きた上演は、終演とともに過去になる。記録映像を残すことも、同じ戯曲を翌日再演することもできるが、それでもその日の俳優、その日の観客、その日の空気まで含めた出来事を、まったく同じ条件で再現することはできない。記録可能であるにもかかわらず、「そこに立ち会った」という関係だけは事後的に完全再現できないのだ。

では、なぜそのような一回性や代替不可能性が、今これほど重要に感じられるのだろうか。それは、ある情報が出来事として立ち上がり、自分自身の時間と交差したという関係そのものが、特別なものになりつつあるからではないだろうか。ストリーミングでは、同じ曲を世界中の誰もが好きな時間に聴くことができるし、映画やドラマも、昨日見ても来月見ても基本的には同じ作品へアクセスできる。AIは大量の文章を要約し、画像を生成し、あるスタイルを別の文脈へと移植する。情報は急速に、特定の場所や時間から切り離されている。
そうした環境では、作品そのものだけでなく、「自分がそれを経験した」という感覚まで、どこか交換可能なものへと近づいていく。いつでも見られるものは、裏返せば「今でなくてもいい」。どこでも触れられるものは、「ここでなくてもいい」。だからこそ、そうしたコンテンツに囲まれれば囲まれるほど、「今、ここ」でしか成立しない経験の価値が、かえって強さを増すことになる。
つまり演劇が観客に与えるのは、「2026年のあの日、京都のあの場所で、自分はこれを観た」という、自分の人生における座標である。代替不可能な経験が大切なのは、それを通じて、自分自身の時間もまた代替不可能だったと感じられるからではないか。ここは、ヴァルター・ベンヤミンが複製技術の時代に揺らぐものとして論じた、作品の「いま・ここ」における唯一無二の現存(※)という問題を思わせる。ただし、ここで考えたいのは、原作品の真正性そのものというよりも、「経験の側の一点もの性」に価値の重心が移りつつある、ということではないだろうか。AIによって作品の生成や模倣が容易になるほど、価値の中心は「何を見たか」よりも、「どのような状況で、自分がそれに立ち会ったか」へ移動していく。
※ヴァルター・ベンヤミンは1936年に発表した『複製技術時代の芸術作品』の中で、「いま・ここ」における唯一無二の現存を「アウラ」として定義した