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輪島裕介×唐木元「日本ならではの音楽」と「文化の脱植民地化」をめぐる対話【後編】

2026.7.22

#MUSIC

バッド・バニーやロザリアのような、自らのルーツに根差したポップミュージックの表現は、日本でどのように可能なのだろうか――

音楽学者・輪島裕介とミュージシャン / ライター・唐木元による「文化の脱植民地化」をめぐる対話は、実に5時間に及んだ。

前半では、モーダルな音楽の再獲得と、日常的な場での気軽な演奏の実践=「音曲」の復権にそのヒントを見出しつつ、また「植民者であり被植民者である」という日本の二重性について検討した。

後半では、安易なナショナリズムへの傾倒を抑止する方法、そして、「脱西洋」ではない西洋ヘゲモニーとの戦い方を模索する。そのキーワードは「仮面ライダー」だ。


※この記事は「後編」です。「前編」はこちら。

「ポップス」という和製英語の含意

唐木:今日輪島さんとお話できるということでぜひお伺いしたかったのは、日本のポピュラー音楽にとってヤマハが果たした功罪がいかに大きいか、という話です。というのも音楽における私の出自は、エレクトーン出身でブラバン出身なんですね。つまりヤマハから出でて、自らの内なるヤマハとの格闘をを何十年もやっているわけです。

輪島:えっと、本当にまさにいま、ヤマハの話をしようと思っていたタイミングでした。というのは、「コード進行がきれいな曲が優れた曲だ」という感覚は、ヤマハ音楽振興会が本当にシステマティックにインストールしたものだと僕は思ってるんですよ。いわゆる「バークリーメソッド」(※)を日本で広めたのもヤマハですよね。バークリーメソッドって変な言葉ですけど。和製英語だし。

※バークリーメソッド:バークリー音楽大学が体系化したポピュラー音楽の理論

唐木:その通りです。僕は一応バークリー卒なんですけど、行ってみたらあそこに「バークリーメソッド」っていう言葉は無くて、日本でそう言われている科目は大文字の「HARMONY」って呼ぶんですよ。つまり、我々の教えていることこそが普遍的な和声理論なのだ、という、めちゃめちゃ奢った自負がある。

輪島:あれって要するに、効率的に商業的な音楽を量産するためのティップス集みたいなものじゃないですか。けど、日本ではそれがポピュラー音楽の「楽理」と呼ばれるものになっていますよね。僕は「音楽には単一の理論なんてものはない」と考える派なので、授業では学生に、調性音楽のルールのことを「音楽理論」「楽理」と呼ばずに「近代ヨーロッパのコモンプラクティスと言いましょう」と言っています。それを楽理と言ってしまうと、普遍妥当的なもののように思えてしまうので。そこから外れるものはいくらでもある……と言っても実際には、いまの日本でそこから外れているものはそんなに無いんですよね。

唐木:そうですね。むしろ強化されてきていると僕は思います。いかにも音大の授業で習うようなモーダルインターチェンジとかトライトーンサブスティテュート(※)みたいな手癖が、DTMの習得とセットになってチュートリアル化してるんですよ。いわゆるボカロ曲の中には、ちょっとフリーキーなものも生まれたけど、教科書の強化の方がむしろ本筋だと思います。

※モーダルインターチェンジ、トライトーンサブスティテュート:ともに、音楽に複雑な響きをもたらす理論的手法

輪島:あともうひとつ、僕はポップスっていう言葉が嫌なんですよね。ポップミュージックとは言うけど、複数形のポップスとは英語圏で言わないですよね。怪しいなと思っているのは、日本語の「ポップス」の語源は、「ボストンポップスオーケストラ」みたいな「シンフォニーオーケストラがちょっと軽いものもやってあげよう」的なやつにあるかもしれないな、と。だとしたら、ポップスという和製英語自体「クラシックが低俗になったやつ」のようなニュアンスを帯びてしまってるんじゃないかという気がしているんです。

唐木:たぶんその通りで、ブラバンの世界では、マーチとかクラシック曲といったカテゴリーのひとつとして「ポップス」というのがあるわけですよ。そのポップスというのは、まあ一種の蔑称なんですよね。王道ではないけどコンサートでやると客が喜ぶからやる、っていう、そういったスタンスを言葉自体が内含している。

輪島:だから、そういう意味でクラシック中心主義はまだ全然抜けてないんですよね。

唐木:はい。私たちにとって共通の苗床であるヤマハというものの正体が、非常にユーロセントリック(ヨーロッパ中心主義的)で、かつクラシックの方が上等だっていう世界観が陰に陽に組み込まれている。

輪島:そうしたヤマハ的な価値観の浸透が、前半で話した、巷のカジュアルな歌ったり踊ったりの実践の場も奪ったと僕は思っています。音楽教室と発表会システムが、日常的な楽しみのための演奏を遠ざけたわけですよね。吹奏楽の人たちが普段からアンサンブルするわけでもないし。

唐木:それはほんとうに痛感します。他方で、ヤマハの功罪の、功の部分はインフラ面ですよね。山奥の学校にまでピアノから金管木管、パーカッションまで備えられていて、こんなにアンサンブルの教育がなされている国は稀有じゃないですか。それはやっぱりヤマハの楽器製造や販売システムの賜物であって、偉大なものと言っていいと思います。それは同時に巨大な毒でもあるわけですが。

「仮面ライダーになるべきなんじゃないか」

輪島:はい。そこでですが、この前ある本に、ショッカーと仮面ライダーの例えを書いたんですよ(『生活と音楽 三田村管打団?』和久田書房刊)。ブラスバンドというのは歴史的に、まぎれもなく西洋の軍事テクノロジーで、西洋の軍隊が世界征服をしようとするためのツールだったわけです。つまり、ショッカーだと。しかし、世界中のローカルなブラスバンドというのは、仮面ライダー的な性格を持っている。土着化 / ローカル化したブラスバンドは、世界にたくさんありますよね。ブラジルやアフリカ、インドにもあるし、そもそもニューオリンズだってそうだと言えるかもしれない。彼らは、ショッカーによって改造された強靭な肉体=西洋的な楽器と理論を使って、ショッカーと戦うわけですよ。

唐木:なるほど。ポストコロニアルの理論でも、自分たちにインストールされた植民地主義を解体して再利用する、撹乱して奪い返す、ということを多くの思想家が言っていると思うんですけど、そういうことですよね。

輪島:はい。ショッカーになるのか仮面ライダーになるのかは大きな違いで、日本のブラスバンドや「日本の洋楽」の多くはショッカーですよね。仮面ライダーになるべきなんじゃないか。楽器の技術や和声の知識を、西洋ヘゲモニーに立ち向かうためにこそ使うべきでしょう、と思っているんです。

たとえば神戸・塩屋を拠点に活動する「三田村管打団?」は、プロのパフォーマー集団とも「お稽古→発表会」型のアマチュア楽団とも異なり、生活と隣り合わせの音楽実践を行う稀有なブラスバンドの例と言えるだろう。

唐木:いま思い浮かんだことがあるんですが、いわゆる「ポップス」では、(鍵盤楽器上で)白鍵メインのキーが多いじゃないですか。CだったりGだったりFだったり。それが、ブラックチャーチで一番多いキーっていうのは、D♭なんですよ。次がA♭、G♭。つまり、黒と白との割合が転倒してるんです。

輪島:おおー。

唐木:ピアノから始めた人間にとっては難しいキーに思えるはずです。なんでそんなことになるかって言うと、飛び出ている黒鍵だけ弾けば勝手にペンタトニック(※)になるからなんですよ。彼らの音楽ではペンタトニックが基本の音律なんで、D♭とかG♭のほうが都合がいい。そっちの方が簡単だ、っていう理由なんです。

※ペンタトニック:5音音階

輪島:鍵盤をペンタトニック的な発想でハッキングしてるわけですよね。楽譜を読めなくても曲にしやすい、とかはあるんでしょうね。

唐木:そうです。それで驚いてたら、「お前ここをどこだと思ってんだ、ブラックチャーチなんだからここでは黒鍵の方が偉いに決まってんだろ」って言われて(笑)。だから、そういったハッキングの仕方っていうのは、いろんなレベルで可能だとは思います。

ブラックチャーチで演奏する唐木

私たちは固有のリズムを持てるか

唐木:もうひとつ僕が思っているのは、日本のポップミュージックのフィールドにおける、オリジナルなリズムフォームの不在です。バッド・バニーにせよロザリアにせよ、全世界的に起きているスペイン語楽曲のメガヒットというのは、単なるグローバルヒットという話ではない。圧倒的に英語圏が牛耳ってきたポップカルチャーのヘゲモニーを、これまで奪われるばかりだった者たちが奪い返す、という反撃ののろしです。そしてそれは常にカリブの強靭なリズムを武器として用いてきた。プエルトリコならレゲトン、バルバドスならラガソカ、みたいに「俺らの島はこのリズム」っていうはっきりしたプライドを持ってるわけですよ。で、それをテコにアメリカ国内外のスペイン語話者に語りかけるということをやった。こういう例を見るに、音楽的な脱植民地化においてはリズムがひとつ大きなキーになるのかな、という感触があるんです。

でも、日本が強靭なリズムを手に入れる、自分たちの肉体と話し合って整合性がとれるリズムを獲得するというのは、一足飛びに出来ることではない。それを、例えば音頭とかドドンパみたいな、過去にリファレンスを求めることももちろん大事だと思うんですけど、僕は割と未来志向で考えていて。いつかアマピアノとかラガソカみたいな、もしくはファンコット(※)とかポンチャック(※)でもいいけど、そういった強靭なリズムフォーマットを日本人が獲得できる未来を、生きている間に見ることができたらいいな、と思っています。

※ファンコット:インドネシアの歌謡曲とハウス / トランスが混交したダンスミュージック
※ポンチャック:韓国のテクノ歌謡

輪島:そうですねえ……。リズムはもちろん、僕も本を書いてるぐらいだし(『踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽』NHK出版刊)めちゃくちゃ興味があります。反復的なリズムっていうのは、やっぱりアフロ / カリブから派生した、奴隷貿易を背景とした文化圏の中での脱植民地化において、強力な武器だったのは間違いない。とは思うんですけど、東アジアで考えると、そこじゃないかもしれないなあという気がする。やっぱり浪花節とかにしても、語りのリズム、言語に引っ張られてリズムが伸び縮みするっていうのがかなり長い間の我々の感覚だったと思うので。2拍とか2小節、4小節の、例えばクラーベを中心としたようなドライブというのは、なかなかそれをそのままやろうとしても難しいかなという気はします。

―先月には民謡クルセイダーズのニューアルバム『日本民謡より愛をこめて』、中西レモンの2ndアルバム『夜明け烏の渡るまで』が発売されました。民クルは世界発売で、北米ではジャズの名門Blue Noteレーベルからのリリースです。民謡や盆踊りを再解釈する動きは近年盛んですよね。それ以外でも、藤井風、米津玄師、あるいは小袋成彬、岡田拓郎など、いまさまざまな日本のアーティストが、日本ならではの表現の探究に挑んでいるようにも思います。こうした取り組みについてはどう感じていますか?

https://open.spotify.com/intl-ja/album/6mzbwEWVx5LWor1eUPGqgF
https://open.spotify.com/intl-ja/album/78ZU13F6w5LviZKixlzUv4

輪島:民クルはパーティー音楽としてすごく良いと思うけど、何がしかの「日本らしさ」を体現しているとはあんまり思えなくて。日本のスタンダードな歌にラテンのスタンダードなリズムを合わせた、マッシュアップ的なDJ音楽だし、もっと言えば福生の基地的な音楽だなと感じます。その意図的なハイブリッド感とかマッシュアップ感が日本なんだよ、っていう言い方はできるけれど、「それが日本の今の音楽です」あるいは「在来の感覚です」と胸張って言えるかというと、それはちょっと違うよね、と思うところはあります。

唐木:DJ的な感覚というのは同意します。

輪島:僕は「世界に通じる日本の音楽」みたいなビジョン自体、どうしてもちょっと浅ましいなと思ってしまいはするんだけど……それで言うなら、おとぼけビ~バ~じゃないですかね。関西弁の音の響きとか面白さに、カタコトの英語を混ぜ込むことで英語話者にぎりぎりの内容伝達もして、演奏はポストパンク的なものだけど、リズムの反復ではない。ストップアンドゴーが基調のパンクだから、日本・関西の言葉のノリと合わせやすい。相当独自な何かだという気がします。合いの手とか飲み会のコールとか、そういうものともたぶん地続きだと思うんですけどね。

https://www.youtube.com/watch?v=OkCEWOKHP5w

輪島:あと、民謡関係で言うと、俚謡山脈のDJは面白いですよ。太鼓と鳴り物と歌だけでできているような民謡レコードを、爆音で鳴らしたり低音を強調することで、ヒップホップマナーのダンス音楽としてプレイして成り立たせていたりします。だから、コード進行化される前の日本の「節回し」が土台にある曲で踊るとか、そういうものが社交の場でガンガン鳴っているというのは、不可能ではないと僕は思っているんですね。踊るための音楽ではないですけど、すずめのティアーズのポリフォニー民謡も、2つの旋律が共鳴してなにか強烈な響きが生じる、というハーモニーの原初的な快楽を再発明している点ですごく面白い。

https://www.youtube.com/watch?v=zZEa1EmWBaY

来るべき未来のために、ダサさを我慢する

唐木:僕、すずめのティアーズは一聴して面白いなと思ったんですよ。ちょっと昔なら、金沢明子と寺田創一のコラボレーションがあって、あれも良いな、ハマってるなと思ったんです。かたや、よさこいソーランとか、三味線フュージョン的なものには、困ったな、地獄だな……と思ってしまう。その「イケてるな」と「しんどいな」の差異がどこにあるのか、僕は自分の中ではっきりした評価軸をまだ持てていなくて。そういった接木、ハイブリッド、あるいは再解釈を、自分は何を手がかりにふるいにかけているのか、自分でもわからないんです。でも、明らかに違いがありますよね。

輪島:あるある。西洋由来の要素のさじ加減をどのぐらい意識的にコントロールできているか、なのかなという気もしますけど、どうでしょう?

唐木:自覚の度合いってことですか?

輪島:うーん。料理をするときの塩加減のような感じなのかな? それとも、メソッドとして西洋由来の要素をどの程度ちゃんと吟味するか。どっちなんでしょうね。新しい素材や調味料を使って、今まで食べたことがない、でも美味いものを作ろう、という態度と、こういう新しい素材や調味料を使うのが「向こうで流行ってるらしい」とか、「そうするのが正しいと海外のレシピ本に書いてあった」から、美味いとは思えないけど取り入れてみる、という態度はやはり全然違うと思うんですよね。結果として出てきたものがどっちなのかわからない、ということもあるかもしれないけれど、少なくとも後者の態度が見え見えのものはやっぱり浅ましいと思う。

でも、よさこいソーランって、伊藤多喜雄のロックソーラン(“TAKiOのソーラン節”)ですよね。仮にいまの文脈で使われていなければ、もしかしたら曲としては、1980年代後半ぐらいにはかっこよかったんじゃないかなと思うんですよね。いまはもう“オリーブの首飾り”を手品と切り離して想像できないのと同じように、よさこいソーランの曲としてしか聴けないけれど。問題は、1980年代後半にはちょっと新鮮だったようなハイブリッドが、お約束として40年変わらずに擦られ続けていることの方にあるんじゃないですかね。

https://www.youtube.com/watch?v=hKvQaQ46cQs

輪島:あと、これはなんの裏付けもなく言いますけど、ダサさに耐えないといけないフェーズがあるのかなっていう気がするんですよね。ブルースとかジャズだって、あれを支持したタイプの黒人ナショナリストと、支持できなかった人がいるじゃないですか。

唐木:はいはいはい。

輪島:ブルースやジャズはアートフォームとして素晴らしいと今の我々は信じているけれど、ああいう形で黒人文化をリプレゼンテーションするのは害悪だって思った当時の黒人知識人はいっぱいいるんですよね。たぶんサンバとか、バイーアのアフロ系の音楽でも、真面目なインテリのアフリカ系知識人の中には、「そういう方向はおかしい、見せ物化するようなものではよくない、楽器の響き以外は全部西洋のそれじゃないか」みたいに言う人もいたと思うんです。だから、いま我々がダサいと思っているものも、継続的に成功していくとある日「あれ、なんかもう全然良いじゃん」と思えるのかもしれないし、我々の次の世代がそう思うようになるのかもしれない。だから、そのときは、我々は潔く捨て石になるべきなんじゃないかな、という気もしています。これは思考実験ですけどね。

―よさこいソーランが、日本にとってのラガソカやレゲトンになる日が来るかもしれない……?

輪島:もしかしたら。あと、たとえば和楽器バンドや吉田兄弟をダサいと感じる人も、三味線自体はダサいとは思わなくなってきてますよね。むしろ彼らの登場によって三味線の存在はリマインドされるし、三味線をやること自体はかっこいい、につながるわけですよね。だから、そこにはちょっと希望があるかもしれない。

歴史を学ぶことが、ナショナリズムの害悪を予防する

唐木:でも、受忍限度を越えたしんどさとどうやって折り合っていったらいいのか……。よさこいソーランは大衆運動だし、もちろん無碍に否定できない。一方で、容易に排外的なナショナリズムと結託する例も見てきました。自分たちの音楽を獲得できるかというハードルと別に、それが害悪化しないかっていうハードルもあって。

輪島:パトリオティズムやローカリズムと、国家を同一視しない、というところですよね。そのためには、伝統と言われているものについて、「そこにはこういう歴史があってね」と愚直に言っていくことが、無意味ではないような気はするんですよね。

唐木:つまりその、歴史的なパースペクティブを持たせることで。

輪島:脱歴史化された伝統とか、神話的な伝統に対する解毒効果としては、やっぱり歴史をちゃんと学ぶのがひとつ重要だと思うんです。それを全ての人に求めることができるのか、とも思うけど、でも、そういうことを、真っ当なオルタナティブな語りを提示していくことは、重要になるのかもしれない。

唐木:そうですね。本当にそうだと思います。

輪島:2016年に演歌議連(演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会)っていうのが出来たときに、「日本の伝統文化である演歌云々」という設立趣旨が出たんですけど、みんなが僕の本(『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社刊)を引用して、「いやいや、演歌のいまの形が出来たのってせいぜい50年前くらいですから」等と言ってくれたんです。その後演歌議連の話はぱったり聞かなくなったので、もしかしたら良いことをしたのかもしれない、と思っています。

輪島裕介
『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)

演歌という概念の成立と、その前史を含めた変遷を解き明かした同書は、サントリー学芸賞、国際ポピュラー音楽学会賞なども受賞した

日本流「フォークリバイバル」という希望

唐木:すごい。本は書いておくものですね。

輪島:少しは歯止めになったかもしれません。わかりやすい話で伝えることって、重要な気がするんですよね。だから、フォークリバイバル(※)的な方向をちゃんと真面目にやる、みたいなことかなあ。アメリカでフォークリバイバルが果たした役割は――まあ白人インテリ中心ではあるんですけど――過去の庶民の音楽をどう再生するかという意味で重要だったと思うんですね。でも、日本だとそれはアメリカの大学生の流行として輸入されたがゆえに、「簡単なコードで自作自演をする」という部分だけが踏襲されて、「洋楽」的なものの蔓延をむしろ促したわけじゃないですか。

唐木:そうではなく、日本の音楽におけるピート・シーガー(※)になるような。

※フォークリバイバル:アメリカ各地の民謡を発掘・収集した1930年代の運動
※ピート・シーガー:その中心人物のひとりだったシンガーソングライター

輪島:そうそう、そういう人が出てきてほしいような気はします。ピート・シーガーが出てきて、その上でのディランみたいな。あとはそれで日本におけるレッドベリー的な人が発見されるとか、マディ・ウォーターズ的な人が発見されるとか。それがインテリ的な動きだけではなくて、裾野まで広がっていく、みたいなことができたらいいな、とは思っています。わかりやすくするためにアメリカの例を挙げましたが、僕の知る限り似たような過程はブラジルにもあるし、おそらく他の国や地域でもあるはずです。「アメリカがすごい」ということではなく、世界的な脱植民地化と脱ヨーロッパ覇権のなかで共通する動きだということです。ただそうなってくると、いわゆるメインストリームのJ-POPやロックバンド的なものよりも、もしかしたらヒップホップとかの方に可能性があるのかな? って気はせんでもないですね。過去のものを参照するっていうことが、ジャンルの規範の中に組み込まれているので。その中で、右翼的・排外主義的にならずに、過去の日本の在来の表現に属するものをうまいこと結びつけていく、みたいな。千葉雄喜が北島三郎と一緒にやるとか、不可能じゃない気がするんだよな。

唐木:いま仰ったことって、すごく未来があると思います。たとえば「黒人の魂」のように語られるブルースだって、要素に分解してしまえば、西洋由来のギターという楽器を使っていて、和声的にもほぼほぼ西洋音楽のフレームワークに収まるものですよね。でも、それで、黒人は自分たちの誇りを獲得することに成功した。なぜかと言えば、自在に曲が伸縮する即興性やコールアンドレスポンスみたいな奏で方が、他ならぬアフリカ的だからです。西洋の道具でも使い方によって脱西洋性を展開することができる。その意味では、我々がいま持っている、西洋音楽由来のセオリーであるとか、もしくは肉体的なディシプリンとかも、それをうまく乗っ取って運用することができれば、我々が劣等感に苛まれず胸を張れるような、借り物じゃない自分たちの音楽というのを、獲得できる日が来るかもしれない。

輪島:洋楽というのはけっきょく「日本の中で外来の権威性として機能する音楽」の総称なわけですよね。だから、洋楽というのは日本にしか存在しない。K-POPは洋楽に含めるのか、みたいな議論がありますけど、そうした認識の枠組み自体が問題なんだと思います。借り物にも、いつの間にか身につくタイプの借り物と、いつまでも借り物であり続けるものがあると思うんですよね。ラーメンやカレーライスまでも借り物と見なすのか。そのぐらい熟れていればもう日本のものだよね、というふうに見てもいいのか。実態として変わるべき部分もあるけど、我々の歴史の見方が変わることで見えてくるものもあるんじゃないか、と思っています。

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