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吉井和哉とエリザベス宮地監督が語るドキュメンタリー映画『みらいのうた』制作秘話

2025.12.15

#MOVIE

2022年から3年にわたってTHE YELLOW MONKEYの吉井和哉に密着したドキュメンタリー映画『みらいのうた』。本人はもちろん、音楽の道に進むきっかけになった故郷の先輩EROを通して、吉井和哉の人生観が映し出されたドキュメンタリーである。第38回東京国際映画祭でも上映された本作に関して、吉井和哉と監督のエリザベス宮地の対談が実現した。

※本記事はスペースシャワーTVのアーカイブサイト「DAX」のインタビュー企画「My Favorite X」のテキスト連動版としてお送りします。

「もうロックという言葉自体が、死語を超えた使っちゃいけない言葉という感覚だった」(吉井)

―どういった経緯で撮影がスタートしたんですか?

宮地:事務所の代表・青木しんさんから依頼があったんです。元々すごく好きなバンドだったし、過去のTHE YELLOW MONKEYのドキュメンタリーが本当に素晴らしくて。日本でミュージシャンをあれだけ赤裸々に掘り下げたドキュメンタリーはそんなにないので、お話をいただいた時は、「僕に何ができるんだろう?」とは思いました。

写真左:エリザベス宮地(えりざべすみやじ)
1985年高知県生まれ。東京を拠点に活動。ドキュメンタリー手法を軸に、藤井⾵、back number、吉井和哉、anoなど様々なアーティストのドキュメンタリー映像やMusicVideoを監督。2020 年に監督した優⾥「ドライフラワー」MV は現在までに2億回再⽣を越える。また、2025年に監督したback number「ブルーアンバー」MVは、実在するドラァグクイーンを主役としたドキュメンタリーとフィクションが入り混じった内容が話題となる。ドキュメンタリー作品としては、俳優・東出昌⼤の狩猟⽣活に1年間密着したドキュメン タリー映画『WILL』を2024年に劇場公開。2⽇間で14万⼈を動員した藤井⾵の⽇産スタジアムライブに密着したドキュメント作品「Feelin’ Good (Documentary)」、SUPER EIGHT の安⽥章⼤がアイヌ⽂化を取材するテレビ番組「Wonder Culture Trip―FACT―」などを2024年に公開。また実在する独身プログラマーを主人公に起用し、現代の東京の独身生活をリアルに描いた短編映画『献呈』が2025年のモスクワ国際映画祭 短編コンペティション部門に日本人としてはじめてノミネートされた。

吉井:病気になる前から撮影は始まってたし、そもそも「吉井和哉のドキュメンタリーって面白いのかな?」と僕個人は思ってしまって。この映画にはEROや同級生、母親も出てくるけど、まずは自分の故郷、ライフワークである静岡を宮地さんに見てもらうところから始まりました。

―EROさんは普段どんな方なんですか?

宮地:吉井さんからは「自分が音楽の道に進むきっかけになった、とにかくカッコイイ人だから」と聞いてましたが、あの部屋、空間込みで無茶苦茶絵になる人だなと。

吉井:カメラが回り始めた頃のEROは、その後3年にわたった撮影が終わる頃のEROとは違いましたね。脳梗塞を発症したばかりで生活もままならなかったし、体もしんどい。「俺は吉井と違ってここにいるだけだから」というちょっとネガティブな要素もありました。ありがたいとは言ってくれていたけど、警戒というか、すごく繊細な人だから。そういう彼の心の鎧を解いていくのも、この映画の見どころなのかなと思います。

ERO / 映画『みらいのうた』場面写真
EROの家 / 映画『みらいのうた』場面写真

―ご自身ではこの映画を観てどんな印象でしたか?

吉井:僕もあの3年間で変わりましたし、自分のいろいろな部分を満遍なく映している感じがしました。僕が年をとったからかもしれないけれど、もうロックという言葉自体が恥ずかしい言葉で、死語を超えた使っちゃいけない言葉という感覚なんです、特に日本では。カメラが回り始めた時期は「もうロックって言葉を使うのはやめようよ」って思ってた。ライダースジャケットを着て、細いパンツ履いて喜んでるのはごく少数だよって。でも、撮影が終わってこの映画が上映されるタイミングになったときに、やっぱり自分たちはロックに影響された人間だし、その楽しみ方を知ってしまっている。

吉井和哉(よしい かずや) / 映画『みらいのうた』場面写真
1966年10月8日、東京生まれ。1971年、5歳のとき事故で父が死去。小学校入学後に母の郷里である静岡に引っ越す。10代でベーシストとして加入したURGH POLICE解散後の1988年、22歳の頃にTHE YELLOW MONKEYを始動。翌1989年から現メンバーのラインナップとなり活動が本格化すると同時にボーカリストへ転向する。1992年のメジャーデビューを経て、1995年にリリースした5thアルバム『FOUR SEASONS』が初のオリコンチャート1位を獲得、ブレイクを果たす。2001年に活動休止(2004年に解散)。2003年よりYOSHII LOVINSON名義でソロ活動を開始し、2006年からは吉井和哉名義に移行。2016年1月8日、THE YELLOW MONKEY再集結の発表。2020年4月に予定されていた東京ドーム2daysが新型コロナウイルスの蔓延のため中止に。翌年のソロツアー中に喉の不具合によりツアーを中断、後に喉頭がんと診断される。治療を経て復活のステージの場に選ばれたのは2024年4月の東京ドーム公演となった。その後10thアルバム『Sparkle X』の発表とそれに伴うツアーも成功させた。現在もソロ、バンド両方での精力的な活動を展開している。

宮地:吉井さんの中学時代の友人たちも登場してますが、彼らが凄く魅力的で。吉井さんはもちろんですが、その周りの方々にも魅了されてたことを思い出しましたね。実は最初はアルバムの特典映像のイメージで撮影がスタートしたんですが、撮影が終わって編集も進んだ段階で、これは映画として公開しようという流れになりました。それは彼らに出会って、彼らを通して吉井さんの人柄や人生観を映せたから、映画にしようと思えた部分もあります。

『みらいのうた』に込められた意味

―映画が『みらいのうた』というタイトルに決まったのはいつですか?

吉井:編集途中では「神様の贈り物」「GOD」「BEYOND」等などいろんなキーワードがあったんです。映画の主題歌も白紙状態でした。ただ、この撮影自体が“みらいのうた”のリリース時期に喉頭がんが発病してツアーが中止になるところから始まっているので、タイトルもエンディングも「みらいのうた」がいいんじゃないかとひらめいたんです。すぐにボスの青木や監督に相談したら、賛成してくれて。多分この映画を観た人は“みらいのうた”ありきで始まった企画だと思うかもしれないけど、全然違うんですよ。

宮地:映画の為に書き下ろした歌だと思う人もいると思うんですけど、全然その前に発表された曲なんですよね。

吉井:もはやEROの為の歌に聴こえるもんね。俺は未来を予知してこんな曲を作ったのかという(笑)。でも、もし最初からこの曲ありきで撮影が始まってたら、多分この内容にはなってないですよ。そういう作り方はしない監督なので。

宮地:ああ、そうかもしれないですね。

吉井:だから結果オーライというか、こんなに王道な映画になってるのは、最後にこの曲がハマったからなんだと思います。

映画『みらいのうた』場面写真

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