韓国で無形文化財に指定されている「京畿民謡」の歌い手、イ・ヒムン。伝統音楽を真っ向から継承するアーティストでありながら、自身のプロジェクトでは民謡にロックやジャズなど多彩なジャンルをかけ合わせ現代的に構築したサウンドを聴かせてくれる。毎作ごとコンセプトに合わせたビジュアルメイキングも自ら手がけ、演出まで行う総合的なアーティストであり、言わば韓国の音楽シーンの開拓者だ。とは言っても、ここで名前を初めて知る人が、ほとんどだと思う。私たちもまだ彼を知って日が浅いのだけど、知るほどに新たな表現が幾重にもあらわれ、その度にイ・ヒムンというアーティストと出会い直すような感覚になる。
京畿民謡の名手と呼ばれる母と、在日コリアンの父のもとに生まれたヒムンが本格的に民謡の道に進むのは、意外にも27歳から。幼い頃、母とふたりで東京に暮らしていたことや、東京の専門学校に留学をしていた経歴など、日本との接点も多いヒムン。昨年末にリリースされた『GANGNAM OASIS』(カンナム・オアシス)で歌っているのは、ヒムンが民謡を始める前に在った家族の物語。ランちゃん、木村さん、大阪、ひとめぼれ……日本語も交えながら、母の記憶を歌い継いでいる。
そんな『GANGNAM OASIS』が、東京で体感できる公演が決定した。当日は3人組のジャムバンド・CADEJO(カデホ)とともに、スペシャルな演奏でこの世界観を表現してくれる。その公演への心の準備として、ヒムンが歩んできた道程と築いてきたスタイルについて触れるために、生まれ育ったソウル江南(カンナム)へ話を聞きに行った。民謡の道を志してから約20年。隣国に暮らす私たちが今、イ・ヒムンというアーティストに出会えた幸福をともに感じてみてほしい。
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日本で学び、MV監督を目指していたヒムン、27歳で民謡の道へ歩み始める
ーヒムンさんは、日本に留学していた経験があると伺いました。
ヒムン:はい。その前に韓国で大学に進学したのですが、適応できなくて。その後、ポップシンガーになろうと芸能事務所に所属して練習生生活もしたけど、それもうまくいかなかったんです。その時に、そもそも韓国の古いエンターテイメントシステムが悪いのではないかと感じたことをきっかけに、当時韓国より先進国で、かつ父の第二の故郷で親しみがあった日本に留学することに決めました。最初は、アーティストマネジメントの勉強がしたかったんだけど、学科がなかったんです。日本語学校に通いながら、どうしようかと考えていた時にマドンナの“Frozen”のMVを見て、「クリス・カニンガム監督最高!」と感動して(笑)。それでMV監督になりたいと思って、東放学園専門学校のプロモーション映像科に入学しました。
ーてっきり民謡歌手のお母さんの影響で歌の勉強をされているのかと思っていました。卒業後も日本でお仕事をされていたのですか?
ヒムン:卒業後は韓国に帰って、フリーランスの監督のもとで、MVの助監督として働いていました。仕事が休みの日に、たまたまお母さんの後輩の民謡歌手の公演があったので一緒に観に行ったんです。そこで、子どもの頃よく家に来ていた民謡歌手のイ・チュンヒ先生(Lee Chun-hee / 李春羲)に久しぶりに再会して。
ーお母さんと先生、幼い頃よく一緒にいた3人が集まったのですね。
ヒムン:そう。大人になってから初めて。公演を観ながら僕が無意識にハミングしていたら、先生に「ヒムン、民謡を知っているの? 歌いたくないの?」って聞かれて。生まれた時からずっとお母さんの歌を聴いていたし、お母さんの同僚の歌手が周りにたくさんいる環境で育ったけど、当時はそんなこと誰からも聞かれなかったんです。僕が子どもの頃は、民謡の歌い手はほぼ女性だったから、「息子に民謡を歌わせる」という考え自体なかっただろうし。でも、先生は僕が民謡を聴いて育った環境を知っているから、なにか可能性があるんじゃないかなと思ったのかもしれません。
ーきっと身体に馴染んでいる感覚が残っていたんでしょうね。
ヒムン:はい。そうは言っても、民謡は子どもの頃から始める人が多いし、20代半ばの僕がやるなんて遅いんじゃないかと思ったんだけど、歌うことは好きだったし、休みの日に習うくらいならいいかなと思って、何となくやってみることにしたんです。
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伝統音楽に本格的に集中すると決めるまでの葛藤と、心境の変化
ー最初から本格的に民謡の世界へ入ろうと決めていたわけではないんですね。
ヒムン:後日、先生の事務所に行ってみたら、まず「好きな曲があったら歌ってみて」と言われて、“長アリラン”という歌を歌ってみたんです。“長アリラン”は、特に決まったリズムがなくて、自分の呼吸に合わせて歌うもので。難しいけれど好きだったので、下手でもいいから歌ってみたら、それを聴いた先生が「ヒムン、民謡をやらなくちゃ」って言ってくれて。その言葉が民謡の世界に入る大きなきっかけになったと思います。
ー先生がヒムンさんの中に潜む才能を感じ取った瞬間ですね。でも、その時もMVの助監督の仕事も続けていたのですよね?
ヒムン:そう。先生の事務所に行った後、3ヶ月ほど集中して練習したあとにコンテストに出てみたら2位になって。先生が「ヒムン、プロの民謡歌手になるなら、大学で民謡を学ばないと認められないよ」と言うんです。まだ自分の気持ちとしてはMVの監督になりたいと思っていたけど、そう言われてみて、なんとなく学校に行くのも悪くないかなって(笑)。
ーなんとなく!(笑) それで、ソウル芸術大学の国楽科の民謡専攻に入ってしまう。
ヒムン:当時はコンテストの受賞歴があれば実技試験だけで入れたんです。運が良いよね(笑)。最初はMV制作の仕事も続けながら大学に通おうと思っていたんですけど、国楽科の授業がすごく厳しくて一日中練習していたから、仕事をする時間がない。適当に授業を受けていれば両立できたかもしれないけど、20代後半になって自分で決めて入学したのに、一生懸命やらないとバカバカしくないか? と思って。仕事を続けるか、民謡を本格的に学ぶのか、どちらかを選ぶタイミングだなって。
それと、2004年当時、韓国でも音楽をMP3でダウンロードする時代に変わってCDが売れなくなった影響で、突然MVの予算が減ってしまって。そんな風に時代とともに激しく変化する音楽業界に対して、伝統音楽は年を重ねて歌い続けていくことで価値が磨かれていく世界だ、と。そうやって半分自分に言い聞かせるような部分もあったけど(笑)、仕事を辞めて学校に集中することにしました。それから猛練習の日々ですね。
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今の時代になぜ自分が伝統音楽をやり続けているのか、という答えを探すために
ー鍛錬の日々を経てプロになったと思いますが、女性がメインの民謡界での苦労もたくさんあったと思います。
ヒムン:民謡のベースになっているのが女性の声なので、男性の声では音程にたどり着くことで精一杯。自分の歌唱テクニックを自由に使うこともできないんです。女性歌手だけの公演に混ざって歌うのもすごく大変で、だったらひとりでやってみよう、と。自分の音程で歌いたいと思ってからは、年に一度単独公演をすることにしたんです。
ーその時の公演では、今のような多ジャンルの音楽を掛け合わせたスタイルではなく、伝統的な民謡の曲を歌っていたのですか?
ヒムン:そう。でも少しずつ新しくしたいっていう気持ちがあって。伝統衣装も自分でアレンジしたり、パフォーマンスでは韓国舞踊のアーティストにディレクションしてもらって、韓国舞踊のチームと一緒に踊ったり。舞台は、歌だけではなく総合的な芸術にしたほうが楽しいと思っていたから。
特に民謡は、昔の単語がたくさん出てきて歌だけでは理解できない部分も多いから、内容を伝えるためにも別な表現法を加えて。この舞踏のチームと出会ってから曲のアレンジや演奏も現代的に少しずつ変化させて、伝統音楽を新たにしていきました。専門ではない人が見ると「変わらないじゃん」と思われていたみたいだけど、自分の中ではすごく大きな変化だったんですよね。
ーそうやってヒムンさんの今の表現のベースが築かれていったのですね。
ヒムン:あと、現代舞踊のアン・ウンミ先生(Ahn Eun-Me / 安恩美)との出会いは大きかったです。先生の舞台のオーディションに受かって、2006年から先生の現代舞踊作品に参加することになり、年に一度、10年間ヨーロッパをツアーで周りました。その公演で音楽を担当していたのが、後にSsingSsing(シンシン)で一緒に活動するチャン・ヨンギュ(Jang Young-gyu / 張領圭)という音楽家。このあたりから、自分の音楽活動の基盤ができてきて、個人の作品制作や、その後2015年からSsingSsingの活動も始まっていったんです。
ーSsingSsingでは、YouTube番組として有名なNPRの「Tiny Desk Concert」にアジアの歌手として初出演して、世界的に注目されました。伝統文化や民謡をベースにしながら、表現を進化させていくモチベーションは、ヒムンさんの中にどう根ざしているものなのでしょうか。
ヒムン:民謡を歌いたい、多くの人に聴いてほしいという気持ちが大きいんです。自分自身も活動しながら、心のどこかで「このままではつならない」って思っていたし、どうしたら多くの人に公演を観に来てもらえるのかと方法を探していたんじゃないかな。その一方で、こうして現代の音楽のアレンジを加えたり表現の幅が増えてくると、昔から歌い継がれている曲を一切変えずに歌うことも素晴らしいと感じたし、それが本物の民謡なんだとも思っています。
ーそう感じるきっかけがあったのでしょうか。
ヒムン:SsingSsingの活動をしながらも、今の時代になぜ自分が伝統音楽をやり続けているのか、という答えを探すために民謡を歌う作品も作り続けていたから。対極にある表現を両立していたから気づけたんじゃないかな。
その後、美術作家と一緒に『キップンサラン』(‘Deep舍廊Love’ Series)という3部作を制作しました。改めて自分が歌っている民謡のルーツを研究しながら作った作品です。3部作それぞれ描く時代を分けて作ったのですが、民謡歌手であるお母さんをモチーフにした歌もいれました。お母さんが民謡を始めてどんな人生を送ってきたのか。お母さんの話をすれば、民謡歌手の女性の歴史がみえてくるんじゃないかと思って。当然かもしれないけど、他の人の話は簡単に話せませんよね。でも、自分の話は自信をもって話せる。自分の話は、自分が一番良く分かっている、という自信ね。