『文學界』での連載を書籍化した、柴田聡子初となるエッセイ集『きれぎれのダイアリー 2017〜2023』(文藝春秋)。シャネルの9色のアイシャドウから自立心に思いを馳せたことや、独立洗面台のある理想の家について。ひさしぶりの飲酒をきっかけに考えた才能というもののありよう、ビキニで海岸に行った日のこと、手持ちの服をすべて捨てて生まれ変わりを夢見ること、なぜか引っ越しの手伝いに呼ばれないこと。およそ7年にわたる日々の中での、さまざまな発見や世界への手触りが、軽やかに綴られている。
音楽家であるとともに、詩人であり、近年は小説や絵本の文章の執筆も行なうなど、文筆家としての印象も強い柴田だが、エッセイの執筆には、音楽をつくることとは違う難しさがあったと話す。日頃から日記をつけることを習慣にしているという柴田が、どのような姿勢でこのエッセイに取り組んだのかを聞いた。
INDEX
「面白くないと意味がない」と、さくらももこを意識していた連載のはじまり
─後書きで、過去の原稿に対して「ものすごく恥ずかしい」と思ったと書かれていましたね。
柴田:「こんな考え方してたの?」って、ゲラの作業でうわーとなってました。いまよりもさらに支離滅裂でめちゃくちゃな人間だったんだなと思います。この連載が始まった時点で私は30代になっていたんですけど、読み返していて、25歳くらいでこれだったらまだ許せるなって(笑)。
─自分のことだと、どうにも許せなかったりしますよね。
柴田:立派な人間になりたいという気持ちに、どうしても諦めがつかなくて。
─柴田さんの思う「立派な人間」ってどういうことですか?
柴田:「人に尊敬されたい」とか「頼れるね」とか「いい人だね」とか、そういうのです(笑)。無理だってことは薄々勘づいてるんですけど、希望が捨てられなくて。
連載の最初の方は特に、「面白くないと意味がない」という気持ちがいまよりもっと強くて、ちょっと大げさに書いてみたりしているのも結構恥ずかしいんです。エッセイといえばさくらももこさんのように爆笑できるものというイメージがあったんですよ。
─さくらさんからの影響があったんですね。
柴田:かつて読み漁りましたね。さくらさんのあのポップネスってすごいです。だけどさくらさんがどうやってそれをやっているのか、あんまり分析しないまま自分は挑んでしまった感じがします。でも、読者のみなさまは別に「爆笑」みたいことはあんまり求めていないんだなって、最近になって気づきました。『文學界』のエッセイ特集で松尾スズキさんも、「読者が文章に『おもしろ』を求めていない、ということにも気づいた」と書いていて頷きました。
─『きれぎれのダイアリー』の柴田さんの文章は、ユーモアはありつつも、同時に「折り目正しさ」みたいなものを感じていました。
柴田:崩したフランクな感じよりは、新聞みたいにプレーンでかたい文章が読んでいても好きなので、こういう機会をいただいて、一つ意識していたところではありますね。
─例えば「天声人語」的なイメージですか?
柴田:ああ、そうですね。私、あれに憧れるんです。システマチックで正しい日本語というか。面白みがないと言えば面白みがないのかもしれないですけど、結局書いてあることが伝わりやすくて。
─「伝わりやすさ」は柴田さんの中で大事なポイントですか?
柴田:私、伝わりやすい文章なんて書いていないですね……(笑)。