細野晴臣の記念碑的作品に再解釈を施した『HOSONO HOUSE COVERS』のリリースを祝した「短期連載:『HOSONO HOUSE』再訪」。
最終回の書き手は、柴崎祐二。カバー集にも参加したマック・デマルコを入り口に、細野晴臣と『HOSONO HOUSE』がどのように国外のリスナーや音楽家に受け入れられるに至ったのか、その経緯とともに、背景にある音楽を取り巻く現状について考える。
【編集部より】本連載、および本記事は昨年末に執筆・制作されたものです。2025年1月、数十万人の被災者を出した米カリフォルニア州・ロサンゼルスの大規模な山火事で、『HOSONO HOUSE COVERS』の共同プロデュースを手がけた「Stones Throw Records」をはじめとするLAの音楽コミュニティーは大きな被害を受けました。本作に参加したジョン・キャロル・カービーも被害にあった旨をSNSで報告しています。被災された方々に心からお悔やみ申し上げます。
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10年以上前から細野晴臣への敬愛を表明していたマック・デマルコ
私が『HOSONO HOUSE』の国外受容について認識するきっかけとなったのは、今から10年余り前、アメリカのレコード店「アメーバ・ミュージック」が制作しているYouTube動画シリーズ「What’s In My Bag?」のとある回を視聴したことだった。
旬のアーティストに同店を訪れてしてもらい、その場で選んだアイテムをアーティスト自身のコメントとともに紹介するこの企画は、後には優秀なウェブコンテンツに授与される「ウェビー賞」を受賞するなど、現在にわたるまで多くの音楽ファンから愛されている名物シリーズである。かくいう私も、暇があれば最新回をチェックするなど、随分前からこのシリーズのファンだったのだ。
そんな「What’s In My Bag?」の2014年9月9日更新回に登場したのが、3rdアルバム『Salad Days』のリリースを経てひときわ大きな注目を集めていたインディーミュージシャン、マック・デマルコだった。
アメーバ・ミュージックのサンフランシスコ店の店頭でブルース・スプリングスティーンの名盤『The River』(1980年)を手にしながら軽妙なトークを披露する彼の様子をみて、なるほど彼の前作『2』(2012年)のアートワークの元ネタはやはり『The River』なのかと納得しかけた私だったが、デマルコいわく、どうやら引用元は他にあるという。
そう、そのときに彼が名を挙げたのが、他でもない『HOSONO HOUSE』だったのである。ああ! 言われてみれば確かに色調も文字の感じも似ている……。が、それにしても『HOSONO HOUSE』とは、なんとも絶妙なチョイスだ。
2018年の“Honey Moon”日本語カバーや、2019年の細野のロサンゼルス公演へのゲスト出演といった後の彼の活動を未だ知る由もない当時の私にとって、『HOSONO HOUSE』と若手のインディーロックアーティストの組み合わせは、いかにも斬新なものに写ったのだ。

1947年東京生まれ。音楽家。1969年、エイプリル・フールでデビュー。1970年、はっぴいえんど結成。1973年ソロ活動を開始、同時にティン・パン・アレーとしても活動。1978年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成、歌謡界での楽曲提供を手掛けプロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント、エレクトロニカを探求、作曲・プロデュース・映画音楽など多岐にわたり活動。2019年に音楽活動50周年を迎え、同年3月に1stソロアルバム『HOSONO HOUSE』を自ら再構築したアルバム『HOCHONO HOUSE』を発表した。音楽活動55周年を迎えた2024年、13組によるカバーアルバム『HOSONO HOUSE COVERS』が発表された。
先月発売された『Pen』誌・細野晴臣特集号(2025年1月号)掲載のインタビュー記事によれば、デマルコは、「10代の頃に動画サイトで細野の音楽に触れて以来の“マニア”」なのだという。そう考えてみると、今回の『HOSONO HOUSE COVERS』で“僕は一寸”をあえてシンプルな弾き語りでカバーしていることにも、長年のファンである彼ならではの漲る気概を感じてしまうのだった。
同記事の中で彼はこうも述べている。
「当時の僕は、ジェームス・テイラーやニール・ヤング、ティン・パン・アレー周辺(※)など、いわゆる“アメリカーナ”が好きでした。その頃に友人の薦めで聴いた『薔薇と野獣』は、アメリカーナの要素と細野さん独自のハーモニーが混ざり合い、惹かれるものがあったんです」
『Pen』2025年1月号 特集「細野晴臣と仲間たち」P.68より
※筆者注:細野らによるミュージシャン集団ではなく、多くの作曲家が集ったニューヨーク・マンハッタンの「ティン・パン・アレイ」でかつて量産されたポピュラーソング(あるいはその伝統を継ぐいわゆる「ブリル・ビルディング・サウンド」)全般を指しているものと思われる

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アメリカでの細野晴臣の「発見」を考える2つのポイント
『HOSONO HOUSE』収録曲の中でも、この“薔薇と野獣”は、同作の国外受容を考えるにあたって、特に重要な存在に思われる。
今回の短期連載にも参加しているライターの松永良平は、同じく『HOSONO HOUSE COVERS』を取り上げた『ミュージック・マガジン』誌(2024年12月号)に寄せたコラムの中で、10年ほど前に訪れたハリウッドのアメーバ・ミュージック(またしても!)の店内で、女性DJが“薔薇と野獣”をプレイしていた旨を証言している。
その後に続く松永の文にも示唆されているとおり、どうやら彼女は「かっこいいファンク」の一種としてそれをかけていたらしい。なるほどそう言われてみれば、アルバムの中でもひときわグルーヴィーな“薔薇と野獣”は、そうした視点から聴いてみても大層魅力的な曲だ。
こうした“薔薇と野獣”の聴かれ方を裏付ける、もう一つの重要な例もある。UKのDJで「Japan Blues」の異名を持つディガー、ハワード・ウィリアムスが選曲を担当した英レーベル「ACE」発のコンピレーションアルバム『Lovin’ Mighty Fire – Nippon Funk * Soul * Disco 1973-1983』の中にも、“薔薇と野獣”が収められているのだ。つまりウィリアムスもまた、この曲を「ニッポンのファンク」と位置付けていたわけだ。
細野の音楽の「発見」を語るにあたっては、ヴェネズエラ育ちで現在はLA在住のシンガーソングライター、デヴェンドラ・バンハートの存在も忘れてはならない。
2017年に発売されたムック『Folk Roots, New Routes フォークのルーツへ、新しいルートで』(シンコーミュージック・エンタテインメント)の中で憧れの細野と対談しているのをはじめ、ステージで“Sports Men”をカバーするなど、彼もまた細野への敬愛を度々表明してきた一人だ。
上記対談や、筆者がかつて行ったインタビュー(『レコード・コレクターズ』誌2019年12月号)によると、バンハートが細野の音楽の魅力に開眼したのは、およそ2000年代初頭にまで遡るという。キーマンとなったのは、彼が若い頃にサンフランシスコへ移住して以来の友人にして、バンド、Vetiverのメンバーでもあるアンディ・キャビックだ。
バンハートいわく、キャビックはかなり早い時期から日本の音楽に興味を持ち、実際にアナログブームのはるか以前に渡日しレコードを買い漁った経験もあるなどかなりマニアックな志向の持ち主とのことで、浅川マキ(彼女の作品も後に海外で厚い支持を受けることになる)ら日本のアーティストの情報を積極的に共有してくれたのだという。
二人はかねてより「ブライアン・イーノとジョン・レノンとデヴィッド・ボウイとホーギー・カーマイケルが出会ったような音楽家がいたら最高だね」と語り合っていたというが、「まさにそんな人を見つけたよ!」とキャビックに言わしめたのが、他ならぬ細野晴臣であった。
バンハートはその後、件の対談の後に発表した自身のアルバム『MA』(2019年)で、細野へオマージュを捧げた“Kantori Ongaku”という曲を披露している。「Kantori」とは、Country=カントリーを日本風にローマ字表記にしたもので、これは、細野の”僕は一寸”に登場する一節から着想を得たものだという。その名のとおりカントリー色の強い曲調は、まさしく『HOSONO HOUSE』の世界とも重なり合って聴こえる。
こうやって様々な動きを振り返ってみると、細野晴臣というミュージシャン、および『HOSONO HOUSE』への後進世代アーティスト / リスナーからの注目度の上昇という現象には、カリフォルニアをはじめとしたアメリカ西海岸のコネクションが核心的な役割を果たしていたことが浮かび上がってくる(※)。
※筆者注:カナダ出身のマック・デマルコも、2016年から米ロサンゼルスに在住している。また、かねてより細野からの影響を公言している南カリフォルニア在住のGinger Rootことキャメロン・ルーの存在も重要だ