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東博『空海と真言の名宝』展レポート 「強い個人」が求められる現代を問い直す

2026.8.7

#ART

国宝『五智如来坐像』(平安時代 9世紀 京都・安祥寺蔵) 通期展示
重要文化財『如意輪観音菩薩坐像』(平安時代 11世紀 大阪・大門寺蔵)

仏教が、これまでとは少し違うかたちで注目され始めている。数年前に、書店で『自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学』という、ポップな黄色い表紙の本が大量に平積みになっているのを見て以来、その感覚はいまも続いている。宗教というより、自分や世界を理解するための考え方として、仏教や東洋思想が読み直されているようなのだ。

そんな折、空海の生誕1250年を記念した展覧会『空海と真言の名宝』が上野の東京国立博物館で開幕した。空海は平安時代初期に、密教という教えを日本に広めた人物だ。おかざき真里の人気漫画『阿・吽』でそのキャラクターをご存じの方も多いだろう。日本の仏教界を代表するスーパースターである。その感覚の正体が分かるかもしれない、そんな期待を胸に展覧会へ向かった。

仏教界のスーパースター、空海に出会う

今回の特別展『空海と真言の名宝』は、空海生誕1250年を記念して企画された展覧会である。真言宗の十八本山と関係寺院の協力のもと、空海のゆかりの名宝や、秘仏が一堂に会する。

空海にちなみ空と海をイメージした青い背景の展覧会場入口 / 展示風景 弘法大師生誕1250年記念 特別展『空海と真言の名宝』 東京国立博物館、2026年

展覧会の入口には、弘法大師空海の像が鎮座する。和歌山・金剛峯寺に伝わる、この展覧会を象徴する作品である。『弘法大師坐像』は、思ったほど大きくはない。目線に近い高さに配されており、向かい合うと静謐さのなかに力強さがある。その視線は自分を越え、はるか彼方を見ているようだ。

『弘法大師坐像』(江戸時代 17世紀 和歌山・金剛峯寺蔵) 通期展示

そもそも空海とは、どのような人物か。彼は、仏教の最新形態だった密教を求めて唐に渡り、中国・密教界のレジェンドである恵果(けいか)に見込まれる。外国から突然来た空海は、名だたる弟子たちを差し置いてその教えのすべてを受け継いだ。漫画みたいでなかなか刺激的なストーリーである。

最初のエリア「空海と真言密教」では、その空海が唐から持ち帰ったと伝わる国宝『金銅錫杖頭』や、留学中のノート『三十帖冊子』といった品々が並ぶ。

国宝『三十帖冊子 第十八帖』(平安時代 9世紀 京都・仁和寺蔵) 前期展示

『三十帖冊子』は、想像していたより小さい。持ち運ぶことを前提にした、小ぶりなノートだ。薄茶色に変色した紙の質感から、長い時間の経過が伝わってくる。1200年以上もの時を経たものだと思うと、不思議な高揚感がある。

国宝『三十帖冊子 第六帖』(平安時代 9世紀 京都・仁和寺蔵) 前期展示

字はどれも丁寧で、淀みがない。思いつきで記したのではなく、書くべきものを確かめながら写し取ったように見える。紙の向こうから、何か凝縮した思いが立ち上ってくるようだ。

なぜいま仏教や東洋思想に注目が集まっている? 「関係でできた世界」

その空海が説いた密教の世界観が、面白い。世界は六大(地・水・火・風・空・識)という要素が互いに溶け合って成り立つとされ、それを図像化したものが曼荼羅である。多様な仏様が互いに関係しあい、世界というひとつのネットワークを作る。ひとことで言えば、それは「関係でできた世界」だ。

貴重な曼荼羅も出品されており必見 / 展示風景 弘法大師生誕1250年記念 特別展『空海と真言の名宝』 東京国立博物館、2026年

なぜ、1200年も前のこの世界観が、いまになって私たちに響くのだろう。

現代社会に生きる私たちは自立した強い個人であることを、絶えず求められている。SNSでは常に「自分らしさ」を発信し、入試や就職など多くの場面で自分にしかない「個性」を求められる。仕事では市場価値を高めよと急かされる。

『自分とか、ないから。』と同時期に話題となった本に、三宅香帆氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』がある。ここで描かれたのは、本を読む余裕すら失った現代人の姿だった。その着想のひとつとなった映画『花束みたいな恋をした』では、本や漫画を愛していた主人公が、就職後、仕事に追われるなかでスマホのパズルゲームしかできなくなっていく。その姿に、多くの人が自分を重ねたのではないだろうか。

「頑張れない自分」「成功できない自分」を努力不足だと責めてしまう。そこには、「まず独立した個人が存在する」という近代西洋思想の前提が、色濃く表れている。

対して、アジアで育った世界の捉え方である東洋思想では、まったく異なる考え方をする。仏教の「空(くう)」や「縁起(えんぎ)」は、あらゆるものは関係で成り立つ、とする思想だ。

人は関係のなかで生きている。関係が変われば自分も変わる。友人たちの中では陽キャなはずなのに、職場では静かな人と見られる、そんなことはしょっちゅうではないだろうか。確固とした「自分」などあるわけがない。あるはずのないものを、あると思い込もうとするから難しくなる。「自分とか、ない」のだ。

不動明王像など空海ゆかりの作品群 / 展示風景 弘法大師生誕1250年記念 特別展『空海と真言の名宝』 東京国立博物館、2026年

これは世界的な潮流でもある——関係論的転回

実はこの流れは、日本に限ったものではないようである。ずいぶん前からアカデミックな領域では、近代西洋的な「世界は独立したモノ(実体)の集まりだ」という考え方から、「世界は関係のネットワークだ」という見方へのシフトが起きている。人文・社会・自然科学といった広い分野にまたがるこの転換は、「関係論的転回」や「存在論的転回」と呼ばれている。

たとえば理論物理学者のカルロ・ロヴェッリは、2世紀の仏教哲学者・龍樹(ナーガールジュナ)の「空」の思想を論じながら、宇宙は観測者との関係を含む関係そのものでできているとする量子力学の「関係論的解釈」を提唱する。倫理学における「ケアの倫理」も、自立した個人ではなく、傷つきやすく依存し合う存在として人間を捉え直そうとしている。

もちろん、科学や哲学が仏教を証明した訳ではない。ただ、遠く離れたところで、同じ発想が響き合っている。そして日々の生活のなかで、なんとなく気になっていたものが、世界の第一線の問いと地続きかもしれないと知るのは、どこか心強い。

空海は、その「関係でできた世界」を、1200年も前に描いていたのだ。

快慶作の立像の向こうに大きな菩薩像が見える。密教美術はその大きさにも注目だ。国や貴族の庇護を受けて大作が数多く作られている。 / 展示風景 弘法大師生誕1250年記念 特別展『空海と真言の名宝』 東京国立博物館、2026年 

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