現代ハリウッドを代表する俳優となったティモシー・シャラメと、鬼才ジョシュ・サフディが手を組んだ最新作『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』は、1950年代に実在した卓球選手の人生をデタラメに、そして鮮烈にアレンジして描き出した。
不遜で自己中心的な主人公マーティがニューヨークを疾走しながら、周囲の人々を自分の欲望の渦へと引きずり込んでいく。その剥き出しのエネルギーは、何を表しているのか? ライター・木津毅が、癖のある配役や音楽などにも着目しながら掘り下げる。
※本記事には映画の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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ポップカルチャーが向き合い続けた「アメリカンドリーム」
アメリカの夢とは何なのか。幾多のアメリカ映画が……いや、アメリカ文化が繰り返し投げかけてきた問いだ。ときとして人間を飲みこみ破滅に追いこんでしまうほど巨大な「夢」は禍々しいものとしても捉えられてきたし、それが引き寄せる膨大な欲望が世界中に害悪をまき散らしてきたことも、さまざまな分野で何度となく指摘されてきた。ではここで、本作の主人公マーティ・マウザーの言い分を聞いてみよう。
「俺も人に助けは求めずすべて自力でやる。頼りは自分の才能だけ。そうでないと――成功は無意味だ。俺の場合はね」
そして端的に「夢が実現できなければ?」と問われれば、こう答えるのだ――「そんなこと考えもしない」。

つまり『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』(以下、『マーティ・シュプリーム』)は、1950年代を舞台にしてアメリカンドリームが叶うものだと信じて疑わない男を描くことで、ある時代のムードを捉えた作品だと言えるだろう。そこで冒頭の問いに戻ることになる。だとすると、その「夢」とはいったい何なのか。
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マーティが象徴する、自己中心的なアメリカンドリーム
これまでおもにジョシュ&ベニーの二人で作品を発表してきたサフディ兄弟だが、コンビを解消し、兄ジョシュが本作を、弟ベニーが『スマッシング・マシーン』(2025年)を監督。奇しくも両作とも実在したスポーツ選手をモデルにしたものだが、その作風はずいぶん異なっている。後者については、格闘家マーク・ケアーが内に抱えていた苦悩にフォーカスを当てた内省的な一本である。
一方の『マーティ・シュプリーム』は、1950年代に実際に活躍した卓球選手であるマーティ・リーズマンの人生やパーソナリティーに着想を得ながらも、きわめて自由な翻案としてぶっちぎる荒唐無稽な快作だ。1952年のニューヨークを舞台に、得意の卓球で世界チャンピオンになって名声を得ることを目指すマーティ・マウザー(ティモシー・シャラメ)が、その傍若無人な振る舞いで数々のトラブルを引き寄せながら、卓球の世界選手権に出るため金策に奔走する姿が怒涛のスピード感で映しだされる。

あまりに無責任で自己中心的な主人公が金を得るためにニューヨークの街を移動し続ける映画という点ではサフディ兄弟の前作『アンカット・ダイヤモンド』(2019年)とほぼ同じ内容と言えるが、時代設定と主人公の年代の違いはシンプルながら重要なポイントになっている。前作の舞台は2012年、アダム・サンドラー演じる宝石商はギャンブルに狂った中年男だったのに対し、今回は第二次世界大戦後間もない頃合いであり、マーティは世界を目指す若者だ。パックス・アメリカーナ――アメリカが経済的にも文化的にも世界の覇権を握ろうとするなか、よくも悪くもさらなる高みを目指していた時代。マーティの若さは、それだけで未来に対する無鉄砲な野心を体現する。
だがマーティはどこまでも不遜な人物で、彼自身はアメリカの威信を背負う気などさらさらない。国の期待を引き受けている人物として登場するのはむしろ、マーティの一番のライバルである日本人選手エンドウだ。演じるのはデフリンピックのメダリストの川口功人。彼の活躍を報じる偽の日本のニュース映像がなかなかよくできていて、そこでエンドウは「謙虚な一職人」として讃えられる。そして彼は、国民の期待を一身に背負って日本で開催される世界大会に出場することになる……一丸となって戦後の復興を目指すことが当時の日本の「夢」であったという描かれ方で、これはかなり的を射た解釈だろう。
対するマーティは個人主義的であり……というか、とにかくムチャクチャである。映画の冒頭から平気で嘘をつく人物であることがあっさりと示されるが、その後もつねに場当たり的な行動を続け、あらゆる人を利用することで自らの野心を叶えようとする。だから、本作はアメリカンドリームと言われるものがそもそも、デタラメなのだと言ってのけるようなのだ。
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タイラー・ザ・クリエイターからアベル・フェラーラまで。クセ者揃いの配役
そうした「デタラメさ」は映画のあらゆるところに意識的に仕込まれている。まずキャスティングが変だ。ティモシー・シャラメの決定的な1本として作られていることや、マーティの恋人レイチェル役にHBOのドラマ『I LOVE LA』などで注目される若手のオデッサ・アザイオンを起用しているのには納得できる。あるいはマーティの悪友ウォーリーとして、かつて悪ガキ的なイメージとともに登場したラッパー、タイラー・ザ・クリエイターことタイラー・オコンマが俳優デビューしているのも、気のきいた配役と言えるだろう。『アンカット・ダイヤモンド』のザ・ウィークエンドの使い方も痛快だったし。

だが、俳優としてのキャリアを捨て実業家の妻として生きるケイ・ストーン役として、近年はセレブリティとしてゴシップを賑わせてきたグウィネス・パルトロウが登場する辺りから「思い切ったことするな」と感じさせられ、その夫ミルトン・ロックウェル役としてリアリティ・ショーの出演者であり「ミスター・ワンダフル」として知られるケビン・オレアリーが映画初出演していることからも、ある種の俗っぽさが意図的に注入されていることがわかる。

そして何より、『キング・オブ・ニューヨーク』(1990年)や『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』(1992年)で知られるニューヨーク派の映画監督アベル・フェラーラが本作では俳優として登場し、謎めいたギャングとして強烈な存在感を放っている。彼が画面に現れるとき、フェラーラ作品の猥雑で不道徳なエネルギーが流れこんでくるのだ。

そんな風に本作は、シャラメの映画かと思いきや、癖の強い人間が次々に現れては去っていく、目まぐるしい群像劇でもある。私としては大道芸卓球の相方となるベラ・クレツキ役としてハンガリー出身の詩人であり『サウルの息子』(2015年 / ネメシュ・ラースロー監督)のサウル役で知られるルーリグ・ゲーザが登場し、収容所で仲間の囚人たちに自分の身体に塗った蜂蜜を舐めさせたエピソードを語るシーンに「何だこの話は」とぎょっとしたが、要は、そうした濃厚な人生を送る人々が無秩序にひしめいていた時代だった、というのがこの映画の主張だ。サフディによれば1950年代頃のアメリカにおける卓球は、アウトサイダーたちが集まるシーンでもあったという。マーティの「夢」は、そうしたカオティックな磁場から発生したものだったのだ。
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1980年代のシンセサウンドが彩る、1950年代アメリカという黄金時代
音楽の使い方も奇妙だ。1950年代のニューヨークが舞台なのに、Tears for Fears、ピーター・ガブリエル、New Orderといった1980年代のポップソングが次々と流される。いや、昔の話なのに時代の異なるポップソングが乗せられる……というのは昨今珍しくない手法ではあるのだが、本作の場合、それを1980年代に絞っていることが独特であり、マーティのめちゃくちゃな人物像ともシンクロするようだ。その理由について、サフディは「私は歴史家ではありませんが、リサーチしていると1980年代にアメリカンドリームが復活したのを発見したのです」と説明している(※)。
※IndieWire「Forever Young: Why the 1950s-Set ‘Marty Supreme’ Is So Obsessed with the ‘80s」より(筆者訳)
私は、1980年代に何が起こっていたのかを考えました。ポストモダニズムの登場があり、音楽やファッションにおいて1950年代を再現した最初の時代でもあり、そして敗北のあとで勝利の繁栄を求めたレーガン大統領がいたのです。
IndieWire「Forever Young: Why the 1950s-Set ‘Marty Supreme’ Is So Obsessed with the ‘80s」より(筆者訳)
ダニエル・ロパティンのスコアも1980年代風のシンセサウンドを使って1950年代頃のオーケストラ音楽を参照するという捻ったことを試みているが、そこには時代感覚の作為的な攪乱がある。つまり本作では、1980年代における1950年代リバイバルがこの2020年代にコンセプチュアルに引用されているのだ。アメリカ文化が何度でも再訪したがる1950年代の無邪気な夢……それを懐かしむこと自体を、批評的にあぶり出しているのである。