細野晴臣の記念碑的作品に再解釈を施した『HOSONO HOUSE COVERS』のリリースを祝した「短期連載:『HOSONO HOUSE』再訪」。
3人目の書き手は、原雅明。レイ・ハラカミ、サム・ゲンデルの2組のカバーをお題に、そのサウンドが時を越えて示した細野晴臣含む三者の繋がりについて執筆してもらった。
INDEX

1947年東京生まれ。音楽家。1969年、エイプリル・フールでデビュー。1970年、はっぴいえんど結成。1973年ソロ活動を開始、同時にティン・パン・アレーとしても活動。1978年、イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成、歌謡界での楽曲提供を手掛けプロデューサー、レーベル主宰者としても活動。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント、エレクトロニカを探求、作曲・プロデュース・映画音楽など多岐にわたり活動。2019年に音楽活動50周年を迎え、同年3月に1stソロアルバム『HOSONO HOUSE』を自ら再構築したアルバム『HOCHONO HOUSE』を発表した。音楽活動55周年を迎えた2024年、13組によるカバーアルバム『HOSONO HOUSE COVERS』が発表された。
細野晴臣、レイ・ハラカミ“owari no kisetsu”の間にあるもの
レイ・ハラカミが一番好きな細野晴臣のアルバムは、『マーキュリック・ダンス』(1985年)だった。そう本人から聞いたことがあり、ブログで書いていたのを読んだ覚えもある。このアルバムは「モナド観光シリーズ」(※)の一作と位置づけられているが、レイ・ハラカミから話を聞いた2000年代初頭(1990年代末だったかもしれないが)には、あまり振り返られることがない作品だったと思う。
時流のアンビエントテクノやエレクトロニカにはフィットしないサウンドだった。アメリカ西海岸あたりからニューエイジミュージックのリバイバルが起こり、こういったサウンドが受け入れられていったのはもう少し後のことだった。
※編注:1985年に発表された『コインシデンタル・ミュージック』『マーキュリック・ダンス 〜躍動の踊り』『パラダイスビュー』『エンドレス・トーキング』を、細野晴臣は「観光音楽」と呼んでいる。これらの作品は細野が1984年に発足させた「モナドレーベル」よりリリースされた。
『マーキュリック・ダンス』は、アンビエント的な揺蕩(たゆた)うようなサウンドの前半と、抽象性が高く躍動的なエレクトロニクスの響きが増す後半でテイストが異なる。いま思えば、この2つの要素はレイ・ハラカミの、特にノンビートの曲に聴かれるものだった。テクノやエレクトロニカ(という呼び名を本人は嫌ったが)を背景とした音作りから、次のフェイズに向かうとするときに参照したのは、『マーキュリック・ダンス』だったのかもしれない。

ギターやベースを弾いていて、打ち込みの音楽をやるつもりなどなかったレイ・ハラカミが、結果的に選び取ったのは一人で制作するエレクトロニックミュージックだった。そこに、宅録であることも付け加えるべきだろう。
『lust』(2005年)に収録された“owari no kisetsu”の本人のボーカルは、インストゥルメンタルの楽曲が並ぶ中に違和感なく馴染んでいた。原曲よりもさらに抑揚を抑えた、ぶっきらぼうでもある歌い方には、宅録派の面目躍如たるものが感じ取れた。もともとは矢野顕子とのyanokamiでカバーした“終りの季節”のデモで制作したバージョンが、そのままレイ・ハラカミ・バージョンの“owari no kisetsu”になった。歌に対して確信的なものがあったのかはわからないが、宅録である『HOSONO HOUSE』と繋がる何かを見出したのかもしれない。