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NEWS EVENT SPECIAL SERIES

日本のチェーホフ上演におけるひとつの到達点 ケラ版『桜の園』レポート

2025.1.24

#STAGE

撮影:宮川舞子

チェーホフ作品は虚無感を抱えた人物たちが登場する普遍的な喜劇

ロシアの小説家 / 劇作家であるアントン・チェーホフ(1860年~1904年)の作品は、現代に至るまで演劇の代名詞である。女優を夢見る『かもめ』のニーナが放つ、「私はカモメ」は有名な台詞だ。演劇を知らない人でもチェーホフの作品を見聞きする機会があるのは、他の作品にしばしば引用されるからだろう。女子高校の演劇部を舞台にした中原俊監督の映画『櫻の園』(1990年)では、『桜の園』の本番2時間前の女子高生の群像が描かれる。劇作家・清水邦夫の戯曲『楽屋』(1977年)は、『かもめ』を上演中の楽屋を舞台にした、俳優4人の舞台である。演劇をテーマにした作品に劇中劇として引用されることもあって、チェーホフはシェイクスピアと並ぶ「THE演劇」としての知名度を獲得している。またチェーホフ作品の主要登場人物たちは、華やかな衣装を身にまとう上流階級の女性である。そのためか、チェーホフを引用する作品には、女性たちの耽美な世界観が押し出されがちだと、個人的に感じている。

撮影:宮川舞子

しかしそういったイメージとは違い、チェーホフの劇世界には、苦境にある状況を好転させたいのにどうにもならない立場に置かれた人物たちばかりが登場する。どの作品にも主人公らしい人物はいるが、輝かしい過去に執着し、到来する未来への不安を抱く大勢の中の1人に過ぎない。個人的な悩みから脱することができない彼らの境遇は悲劇と言える。そのどうしようもなさが、要領を得ない独り言や、噛み合わない会話、すれ違って成就しない恋愛関係といった、ボタンの掛け違いとなって表れる。そんなやり取りが続くために物語は進展せず、個人の抱える問題も好転することはない。

したがってチェーホフの作品では、虚無感を抱えた人物たちが点在する風景が描かれることになる。チェーホフは悲劇的な境遇にある人々を、写真を眺めるように距離を持って冷静に見つめる。自分の意志や行動ではどうすることもできず、なぜ自分が苦境に立たされているのかも、夢が叶わないのかも分からない。生まれた時代や社会によって、一生は大いに左右されてしまう。そのことに人間が翻弄される理不尽さは、チェーホフが生きた19世紀中盤~末のロシアや21世紀の日本といささかも変わりがない。時に登場人物たちは100年後、200年後の人間や世界がどうなっているのか哲学論議をする。自分たちの不幸はより良き未来の糧になると、彼らは自身を慰めるようにせめてもの希望を語る。その台詞を、彼らにとっての未来人である現代の観客が聞く時、まさに人間や世界の変わらなさを、大いなる皮肉と共に受け取ることになる。チェーホフ自身は、自作を喜劇と称している。100年以上前の世界と現在が酷薄な滑稽さで直結する点に、チェーホフ作品の喜劇性と普遍性があるのだ。

〜四大戯曲= 「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」〜

1895年、後にいわゆるチェーホフ四大戯曲と言われることとなる、その第1弾「かもめ」が執筆されたが、同年の初演はみじめな大失敗に終わった。この結果、「もう二度と戯曲は書かない」と決意したチェーホフだったが、1898年12月スタニスフラスキーとダンチェンコの共同演出で、モスクワ芸術座こけら落し公演として上演され、画期的な大成功を収め、チェーホフの文壇での地位も揺るぎないものとなった。

その後、1897年に戯曲『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、1899年に転居したヤルタで短編小説の傑作『犬を連れた奥さん』を執筆。1900年に『三人姉妹』(1901年初演)を執筆。「三人姉妹」でマーシャを演じたオリガ・クニッペルと1901年に結婚。1903年に『桜の園』を執筆し、モスクワ芸術座で初演された。

しかし、その翌年1904年、結核のため、この世を去った。

シス・カンパニー公式サイトより

ケラ演出の『桜の園』は日本のチェーホフ上演におけるひとつの到達点

世界演劇史の視座から言えば、明確な主人公の葛藤や権力闘争を詩的に描く、16世紀末から17世紀初めのウィリアム・シェイクスピアの作品とは異なる。またチェーホフ作品から物語を一切排除すれば、20世紀後半以降、全世界の演劇に影響を与えた、サミュエル・ベケットの不条理演劇になる。ベケットの作品は時間も場所も不明なまま、苛烈な状況に置かれた人物の様態を描く実験劇 / 前衛劇だ。したがってチェーホフの作品はベケットを準備する、プレ不条理劇に位置付けられる。

観劇を長く続けると得られる喜びの一つは、そんなチェーホフの劇世界の面白さが分かって来ることにある。戯曲を読むだけでは、大きな事件や問題が解決する前に宙吊りにされる物語や、登場人物たちのすれ違う会話の妙味が掴みにくい。現代においてチェーホフの作品を上演する際は、演出家による再構成や大胆な翻案を施し、作家性を押し出す傾向が強い。私が感銘を受け、チェーホフの作品への理解を深めた舞台もそのようなものであった。しかしナイロン100℃を主宰するケラリーノ・サンドロヴィッチが、シス・カンパニーと協働創作するチェーホフの4大戯曲の上演は、それとは真っ向から対峙する。

第1弾『かもめ』舞台写真 撮影:谷古宇正彦
第2弾『三人姉妹』舞台写真 撮影:加藤孝
第3弾『ワーニャ伯父さん』舞台写真 撮影:加藤孝

『かもめ』(2013年)、『三人姉妹』(2015年)、『ワーニャ伯父さん』(2017年)と続き、本来なら2020年に大竹しのぶ主演の『桜の園』を上演するはずだったが、新型コロナウイルスの蔓延によって上演直前で中止。そのため、キャストを大幅に変更してこの度、足かけ11年の歳月を費やして本プロジェクトが完結した。これまで3作と同じく、台詞回しをケラ風に変えてはいるものの、休憩込みで4幕3時間、戯曲をそのまま上演した。正攻法でありオーソドックスな上演である。とはいえ全世界で上演されてきた古典であるが故に、現代において再構成を試みて新解釈をせず、あえて真正面から上演することはかえって難しい。そのことにあえて挑戦した本企画は、自身も不条理演劇から多くの影響を受けて演劇活動を開始したケラだからこそなしえた仕事である。原点回帰することで、日本のチェーホフ上演におけるひとつの到達点を示した企画は、そういう意味でもエポックであった。以下、『桜の園』について具体的に述べたい。

個性豊かな登場人物と『桜の園』のあらすじ

舞台は19世紀末のロシア。物語の主軸は、ラネーフスカヤ夫人(天海祐希)が、娘のアーニャ(大原櫻子)と共にパリから5年振りに由緒ある屋敷に戻ってくることから始まる。ラネーフスカヤ夫人がパリに旅立った理由は、息子のグリーシャが川に溺れて死亡したショックから逃れるためであった。実は広大な屋敷と桜の園=さくらんぼ農地を代々受け継いできた彼女だが、多額の借金のために売却せねばならない窮地に追い込まれていた。それでいてラネーフスカヤ夫人は、パリに滞在中にも愛人と放蕩生活をし、帰郷してからも金貨を浮浪者に与えるなど浪費を続け、自身が置かれた状況を全く理解していない。隣の地主のピーシチク(藤田秀世)に借金をせがまれても、断り切れずに承諾してしまう。

ピーシチク(藤田秀世)はラネーフスカヤ夫人(天海祐希)に借金をせがむ / 左からラネーフスカヤ夫人(天海祐希)、ドゥニャーシャ(池谷のぶえ)、ヤーシャ(鈴木浩介)、ピーシチク(藤田秀世)、ワーリャ(峯村リエ) 撮影:宮川舞子

祖父の代から農奴としてラネーフスカヤ家に仕えた家の息子で、今は商人としてのし上がったロパーヒン(荒川良々)は、子供の頃に優しくしてくれたラネーフスカヤ夫人を何とか救おうと、桜の園を売って別荘地として開発し、その地代を得ることを何度も進言する。だが思い出深い桜の園を手放すことができないラネーフスカヤ夫人と兄のガーエフ(山崎一)は、一向に耳を貸さない。ガーエフは伯爵夫人の伯母に金策をしたり、約束手形で金を借りて銀行に利子を払おうとしたりと、一応は対策を試みるが失敗。彼らがのらりくらりと優柔不断な対応を続けて現実逃避をした結果、競売の当日にロパーヒンによって桜の園が買われてしまう。そして最後、失意の中で郷愁を抱えながら、ラネーフスカヤ夫人は再びパリへと旅立つ。

古い社会秩序を生きるラネーフスカヤ夫人とガーエフに、新興勢力のロパーヒンが対立する物語は、時代の変化に対応できない旧秩序の崩壊と、新時代の到来が反映されている。本作がモスクワ芸術座で初演されたのは1904年。つまりやがて訪れるロシア革命(1917年)で、社会が大きく変革する時代が先取りされている。以上の大枠の物語に、グリーシャの元家庭教師で万年大学生のトロフィーモフ(井上芳雄)とアーニャの恋愛、ラネーフスカヤ夫人の養女・ワーリャ(峯村リエ)とロパーヒンのもどかしい恋心、小間使・ドゥニャーシャ(池谷のぶえ)、執事・エピホードフ(山中崇)、ラネーフスカヤ夫人の従僕・ヤーシャ(鈴木浩介)の三角関係が絡む。物事が上手く運ばないラネーフスカヤ夫人の悲哀と彼らの恋愛関係は、パラレルに描かれる。そういう意味で、ラネーフスカヤ夫人を含む全員が同列に扱われる群像劇である。

上演する時代に応じてその時々に発見をもたらす古典

本作を群像劇たらしめるのは、俳優たちのアンサンブルだ。コートを羽織った天海祐希演じるラネーフスカヤ夫人が、パリから愛する邸宅に戻ってくる初登場シーン。その瞬間、懐かしさに浸る天海の、凛とした美しさで舞台上の空気が支配され、息を飲まされる。天海はサバサバとさっぱりとした台詞回しを駆使しながら、呑気に構える世間知らずな人物を演じた。そんな彼女は、ロパーヒンに家を買われた現実を知った際に、椅子に座った状態で手で顔を隠し、そのまま膝に前かがみになって泣き崩れる。

ラネーフスカヤ夫人(天海祐希)の初登場シーン / 左からラネーフスカヤ夫人(天海祐希)、トロフィーモフ(井上芳雄)、ヤーシャ(鈴木浩介)、アーニャ(大原櫻子)、ロパーヒン(荒川良々)撮影:宮川舞子

他のチェーホフの作品に比べて、『桜の園』では感情を露わにする点が目に付く。ロパーヒンとの結婚が叶わないワーリャも同様だ。ロパーヒンに失望したワーリャは、邸宅の鍵束を地面に投げつけて怒りを露わにする。だがワーリャの将来を想ったラネーフスカヤ夫人はロパーヒンに、彼女に告白するように薦める。人々の別れの日、ロパーヒンとワーリャは最後の会話の機会を持つが、微妙な時間が流れてもどかしい。そこに、外から呼びかける声に応えて、ロパーヒンはいたたまれない空気から逃れるように、部屋から飛び出してしまう。背が高くメガネをかけた、地味な風貌の峯村演じるワーリャは、その場にへたり込んで泣き崩れる。

極めつけはロパーヒンだ。ラネーフスカヤ夫人たちに自分が領地を競り落としたことを告げた後、農奴の息子だった自身の成功を滔々と語るシーンは、本作の見せ所の一つだ。なぜ忠告に従わなかったのかとラネーフスカヤ夫人に問いかけつつも、ロパーヒンは領地が自分のものになったことを、半ば自暴自棄になって一同に自慢するように宣言する。今で言えば若手起業家のようなロパーヒンは、スマートでニヒルな俳優が演じるイメージがある。だが荒川良々は一連の台詞を、叫ぶように嘆いて語る。荒川は高身長で恰幅が良いが、基本的には朴訥で人間味のある人物を造形した。鼻もちならない人物ではなく温かみがある分だけ、ラネーフスカヤ夫人を慕う本気の気持ちがストレートに伝わってくる。だからこそ、彼が発する「やんごとなき時代は早く終わってほしい」という旨の台詞は、時代や社会への無念さや皮肉を感じさせて、本作を象徴していた。

本作には、ロシア革命の息吹が先取りされていると先述した。1861年の農奴解放令によって、農奴はロパーヒンのように自由な仕事に就き、生きることができるようになった。それによって近代化と産業化がもたらされたロシアだが、労働者たちの支持を得たレーニン率いるボリシェヴィキがロシア帝国を打倒し、ソビエト社会主義共和国連邦へと至る。インテリ層が社会を支配する現状のロシアに否定的なトロフィーモフは、労働を重視することで未来が拓けると信じている。トロフィーモフはアーニャと共に本作においては数少ない、将来への希望を抱く新世代を体現する人物だ。ラネーフスカヤ夫人に代表される貴族階級をロパーヒンが打倒する。さらに金にまかせて社会を支配するロパーヒンを打ち壊すのが、トロフィーモフの世代であろうことが予感される。そして古い体制の終焉を象徴するのが、屋敷と心中する老僕のフィールス(浅野和之)である。登場人物たちがそれぞれの地に旅立ち、屋敷の灯りが落とされて錠がかけられた後、病院に入院したはずの認知症のフィールスが別の部屋からとぼとぼとやってきてソファーに横たわる。自身が忘れられたことをボソリと嘆きつつ、寝て待とうと言って眠る。そこに桜の園を斧で切り倒す音が何度も響き渡り、ゆっくりと暗転する。

浅野が演じるフィールスは、昔の思い出に浸ったまま旧秩序の崩壊を丸ごと背負う弱々しさを表現した。2024年暮れの視点から本作を眺めれば、旧秩序と新秩序の二項対立だけではなく、家を追われて出奔するラネーフスカヤ夫人は時代や状況に対応できないまま、それでも生きざるを得ない人々を集約しているように感じられた。一方で、紛争によって生じるシリアやガザの難民にも見える。上演する時代に応じてその時々に発見をもたらすのは、古典ならではの特性である。

ケラは悲劇的なストーリーを喜劇として仕立てた

悲劇的な登場人物の心情をストレートに演じる俳優たちによって、本作は感情移入が可能になっている。その一方で、笑いを生み出す数々のやり取りが散りばめられてもいる。人々の別れの日、ロパーヒンがラネーフスカヤ夫人にシャンパンを振る舞おうとするが、ヤーシャがすでに飲み干してしまったために気まずい雰囲気が流れる。あるいは、薄毛のカツラを着用した井上芳雄演じるトロフィーモフは、ロパーヒンとの仲をからかって怒らせたワーリャに「このハゲ!」と言われて、なけなしの髪をむしり取られてしまう。また皿を割ったドゥニャーシャが片付けをする中で、アーニャとワーリャがソファーで話すシーン。そこでは、ワーリャがドゥニャーシャに早く片付けるように何度も言う。するとドゥニャーシャは、より焦って片付けが進まない。このように登場人物たちの関係性のズレが、スカしによる笑いによって増幅されている。

戯曲にも、そのような笑いがあらかじめ書かれてもいる。急に牛のような鳴き声を上げるロパーヒンや、歩くたびに履いた長靴からキュッキュッと音が鳴ることをはじめ、「22の不仕合せ」を抱えているエピホードフ、キュウリをポケットから取り出してかじりながら喋るアーニャの家庭教師・シャルロッタ(緒川たまき)、何度もビリヤードの素振りをしながら喋るガーエフといった具合に。

例えば人は電話をしながら落書きをするように、言葉と行動が一致しているわけではなく、何かをしながら関係のない行動をして緊張を紛らわせたりする。物語の焦点を分散させたりすれ違ったりする人間関係が、個人の台詞内容と行動のズレとしても表れているのだ。とはいえ、台詞の内容とは関係のない意味不明な行動をいざやってみると、ただただ浮いた演技になりがちだ。俳優たちはそれを自然に取り込みながら、「そういう人」として説得力を持たせた。ジョーカーのようなメイクをしたシャルロッタは、実際にカードマジックや布を使った人の消失や出現マジックを披露する(最後にワーリャが全然違う箇所から、やる気がなさそうに出現させられる姿が笑える)。緒川たまきの手さばきは様になっていたが、こうした細部まで技術が行き届いた俳優たちのアンサンブルが、芝居のトーンを支えていた。

そしてケラは悲劇的な状況にある人物たちを引いた目線で演出して、舞台総体を喜劇として仕立て上げた。由緒ある邸宅の壁を表現した舞台美術は、立体的なコの字になっており厚みを感じさせる。それが縦にいくつかに分割されて移動されると、その背景からは立派なさくらんぼの木が何本も植わった庭が現れる。作り込まれたセットは見事だが、単にリアリズムを表現するだけではない。万華鏡のように変化する、青を基調とした照明が舞台美術に当たる中での場面転換時、登場人物たちは扉の出入りを機械的に繰り返しながら、無表情にコミカルなダンスを踊る。また屋敷で舞踏会を開く3幕でも、同様の照明と楽団による音楽が流れる中、ペアになった登場人物たちがワルツを踊りながら、奥の広間から前景の客間にかけて巡る。その後に、広間で行われるダンスが透かし見える中、ラネーフスカヤ夫人とトロフィーモフの世代差が露わになる口論が展開される。トロフィーモフはラネーフスカヤ夫人に領地を諦めることを進言しつつ、未だにパリの愛人に未練があるだらしなさを批判する。ラネーフスカヤ夫人は競売の結果を心配して気もそぞろになっていることもあり、トロフィーモフの恋愛経験の少なさと彼の幼さを指摘して感情的になる。照明で青暗くなった室内、のどかな音楽、機械人形のように踊る登場人物。それらを背景にした口論は、ミスマッチかつ不穏さを漂わせるシーンとなっていた。

左からトロフィーモフ(井上芳雄)、アーニャ(大原櫻子)、ラネーフスカヤ夫人(天海祐希)、ワーリャ(峯村リエ) 撮影:宮川舞子

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