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チェーホフ作品は虚無感を抱えた人物たちが登場する普遍的な喜劇
ロシアの小説家 / 劇作家であるアントン・チェーホフ(1860年~1904年)の作品は、現代に至るまで演劇の代名詞である。女優を夢見る『かもめ』のニーナが放つ、「私はカモメ」は有名な台詞だ。演劇を知らない人でもチェーホフの作品を見聞きする機会があるのは、他の作品にしばしば引用されるからだろう。女子高校の演劇部を舞台にした中原俊監督の映画『櫻の園』(1990年)では、『桜の園』の本番2時間前の女子高生の群像が描かれる。劇作家・清水邦夫の戯曲『楽屋』(1977年)は、『かもめ』を上演中の楽屋を舞台にした、俳優4人の舞台である。演劇をテーマにした作品に劇中劇として引用されることもあって、チェーホフはシェイクスピアと並ぶ「THE演劇」としての知名度を獲得している。またチェーホフ作品の主要登場人物たちは、華やかな衣装を身にまとう上流階級の女性である。そのためか、チェーホフを引用する作品には、女性たちの耽美な世界観が押し出されがちだと、個人的に感じている。

しかしそういったイメージとは違い、チェーホフの劇世界には、苦境にある状況を好転させたいのにどうにもならない立場に置かれた人物たちばかりが登場する。どの作品にも主人公らしい人物はいるが、輝かしい過去に執着し、到来する未来への不安を抱く大勢の中の1人に過ぎない。個人的な悩みから脱することができない彼らの境遇は悲劇と言える。そのどうしようもなさが、要領を得ない独り言や、噛み合わない会話、すれ違って成就しない恋愛関係といった、ボタンの掛け違いとなって表れる。そんなやり取りが続くために物語は進展せず、個人の抱える問題も好転することはない。
したがってチェーホフの作品では、虚無感を抱えた人物たちが点在する風景が描かれることになる。チェーホフは悲劇的な境遇にある人々を、写真を眺めるように距離を持って冷静に見つめる。自分の意志や行動ではどうすることもできず、なぜ自分が苦境に立たされているのかも、夢が叶わないのかも分からない。生まれた時代や社会によって、一生は大いに左右されてしまう。そのことに人間が翻弄される理不尽さは、チェーホフが生きた19世紀中盤~末のロシアや21世紀の日本といささかも変わりがない。時に登場人物たちは100年後、200年後の人間や世界がどうなっているのか哲学論議をする。自分たちの不幸はより良き未来の糧になると、彼らは自身を慰めるようにせめてもの希望を語る。その台詞を、彼らにとっての未来人である現代の観客が聞く時、まさに人間や世界の変わらなさを、大いなる皮肉と共に受け取ることになる。チェーホフ自身は、自作を喜劇と称している。100年以上前の世界と現在が酷薄な滑稽さで直結する点に、チェーホフ作品の喜劇性と普遍性があるのだ。
〜四大戯曲= 「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」〜
1895年、後にいわゆるチェーホフ四大戯曲と言われることとなる、その第1弾「かもめ」が執筆されたが、同年の初演はみじめな大失敗に終わった。この結果、「もう二度と戯曲は書かない」と決意したチェーホフだったが、1898年12月スタニスフラスキーとダンチェンコの共同演出で、モスクワ芸術座こけら落し公演として上演され、画期的な大成功を収め、チェーホフの文壇での地位も揺るぎないものとなった。
その後、1897年に戯曲『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、1899年に転居したヤルタで短編小説の傑作『犬を連れた奥さん』を執筆。1900年に『三人姉妹』(1901年初演)を執筆。「三人姉妹」でマーシャを演じたオリガ・クニッペルと1901年に結婚。1903年に『桜の園』を執筆し、モスクワ芸術座で初演された。
しかし、その翌年1904年、結核のため、この世を去った。
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ケラ演出の『桜の園』は日本のチェーホフ上演におけるひとつの到達点
世界演劇史の視座から言えば、明確な主人公の葛藤や権力闘争を詩的に描く、16世紀末から17世紀初めのウィリアム・シェイクスピアの作品とは異なる。またチェーホフ作品から物語を一切排除すれば、20世紀後半以降、全世界の演劇に影響を与えた、サミュエル・ベケットの不条理演劇になる。ベケットの作品は時間も場所も不明なまま、苛烈な状況に置かれた人物の様態を描く実験劇 / 前衛劇だ。したがってチェーホフの作品はベケットを準備する、プレ不条理劇に位置付けられる。
観劇を長く続けると得られる喜びの一つは、そんなチェーホフの劇世界の面白さが分かって来ることにある。戯曲を読むだけでは、大きな事件や問題が解決する前に宙吊りにされる物語や、登場人物たちのすれ違う会話の妙味が掴みにくい。現代においてチェーホフの作品を上演する際は、演出家による再構成や大胆な翻案を施し、作家性を押し出す傾向が強い。私が感銘を受け、チェーホフの作品への理解を深めた舞台もそのようなものであった。しかしナイロン100℃を主宰するケラリーノ・サンドロヴィッチが、シス・カンパニーと協働創作するチェーホフの4大戯曲の上演は、それとは真っ向から対峙する。



『かもめ』(2013年)、『三人姉妹』(2015年)、『ワーニャ伯父さん』(2017年)と続き、本来なら2020年に大竹しのぶ主演の『桜の園』を上演するはずだったが、新型コロナウイルスの蔓延によって上演直前で中止。そのため、キャストを大幅に変更してこの度、足かけ11年の歳月を費やして本プロジェクトが完結した。これまで3作と同じく、台詞回しをケラ風に変えてはいるものの、休憩込みで4幕3時間、戯曲をそのまま上演した。正攻法でありオーソドックスな上演である。とはいえ全世界で上演されてきた古典であるが故に、現代において再構成を試みて新解釈をせず、あえて真正面から上演することはかえって難しい。そのことにあえて挑戦した本企画は、自身も不条理演劇から多くの影響を受けて演劇活動を開始したケラだからこそなしえた仕事である。原点回帰することで、日本のチェーホフ上演におけるひとつの到達点を示した企画は、そういう意味でもエポックであった。以下、『桜の園』について具体的に述べたい。
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個性豊かな登場人物と『桜の園』のあらすじ
舞台は19世紀末のロシア。物語の主軸は、ラネーフスカヤ夫人(天海祐希)が、娘のアーニャ(大原櫻子)と共にパリから5年振りに由緒ある屋敷に戻ってくることから始まる。ラネーフスカヤ夫人がパリに旅立った理由は、息子のグリーシャが川に溺れて死亡したショックから逃れるためであった。実は広大な屋敷と桜の園=さくらんぼ農地を代々受け継いできた彼女だが、多額の借金のために売却せねばならない窮地に追い込まれていた。それでいてラネーフスカヤ夫人は、パリに滞在中にも愛人と放蕩生活をし、帰郷してからも金貨を浮浪者に与えるなど浪費を続け、自身が置かれた状況を全く理解していない。隣の地主のピーシチク(藤田秀世)に借金をせがまれても、断り切れずに承諾してしまう。

祖父の代から農奴としてラネーフスカヤ家に仕えた家の息子で、今は商人としてのし上がったロパーヒン(荒川良々)は、子供の頃に優しくしてくれたラネーフスカヤ夫人を何とか救おうと、桜の園を売って別荘地として開発し、その地代を得ることを何度も進言する。だが思い出深い桜の園を手放すことができないラネーフスカヤ夫人と兄のガーエフ(山崎一)は、一向に耳を貸さない。ガーエフは伯爵夫人の伯母に金策をしたり、約束手形で金を借りて銀行に利子を払おうとしたりと、一応は対策を試みるが失敗。彼らがのらりくらりと優柔不断な対応を続けて現実逃避をした結果、競売の当日にロパーヒンによって桜の園が買われてしまう。そして最後、失意の中で郷愁を抱えながら、ラネーフスカヤ夫人は再びパリへと旅立つ。
古い社会秩序を生きるラネーフスカヤ夫人とガーエフに、新興勢力のロパーヒンが対立する物語は、時代の変化に対応できない旧秩序の崩壊と、新時代の到来が反映されている。本作がモスクワ芸術座で初演されたのは1904年。つまりやがて訪れるロシア革命(1917年)で、社会が大きく変革する時代が先取りされている。以上の大枠の物語に、グリーシャの元家庭教師で万年大学生のトロフィーモフ(井上芳雄)とアーニャの恋愛、ラネーフスカヤ夫人の養女・ワーリャ(峯村リエ)とロパーヒンのもどかしい恋心、小間使・ドゥニャーシャ(池谷のぶえ)、執事・エピホードフ(山中崇)、ラネーフスカヤ夫人の従僕・ヤーシャ(鈴木浩介)の三角関係が絡む。物事が上手く運ばないラネーフスカヤ夫人の悲哀と彼らの恋愛関係は、パラレルに描かれる。そういう意味で、ラネーフスカヤ夫人を含む全員が同列に扱われる群像劇である。