『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』など数々の作品で知られる巨匠フランシス・フォード・コッポラ監督が、40年の構想の末、私財を投じて制作した最新作『メガロポリス』が、6月20日(金)に日本公開となる。
SF、政治劇、家族の物語、古代ローマをモチーフにした現代社会批判——様々な表情を持ち、キッチュなエンターテイメント作品のようでも芸術映画のようでもある風変わりな本作は、『カンヌ国際映画祭』でスタンディングオベーションを起こした一方、『ゴールデンラズベリー賞』で最低監督賞と最低助演男優賞の2冠を獲得。鑑賞した映画ファンからは困惑の声が聞こえる。
コッポラ作品のファンを公言するラッパー / トラックメイカーの荘子itは、本作をどう見たのか。この怪作について、コッポラについて、自由に綴ってもらった。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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鳩時計のような冒頭と、閑古鳥の故事
時計の秒針を思わせるサウンドトラックと共に、あたかも巨大都市の中心にそびえ立つカッコー時計(日本ではカッコー=閑古鳥が鳴くのは不吉とされ、鳩時計として普及した)のように、細長く巨大な建造物からカエサル・カティリナが身を投げ出す。「時よ止まれ」この映画の中で繰り返される最も印象的な台詞をカエサルが口にすると、その言葉通り、周囲の時間の流れが止まり、文字通り閑古鳥が鳴くような静寂が訪れる——
これは『メガロポリス』の冒頭のシーンを記したものだが、閑古鳥の比喩が通じるのは日本だけで、しかし日本で普及しているのは前述の通り鳩時計なのだから、この文章が成立していること自体がある意味では異様なことである。また、中国の伝説には、君主・尭の治世があまりに善すぎて、民が不満を知らせるための太鼓が無用の長物となり、鳥が住み着いた=閑古鳥が鳴いた、という話もあり、この映画においてカエサルがニューローマ市を善き方へ導くこととも響き合う。これらは全て監督のフランシス・フォード・コッポラ自身が意図したことではないだろうが、いずれにせよ、この特異な状況(映画と、それについて書く僕自身の出会いも含めた全て)を祝福したい。
僕の名前は荘子itで、荘子にitをつけてソーシットと読むという、英語圏でも中国語圏でも通じない(中国では荘子を庄子と書くし、そもそも「そうし」と読まない)日本だけで通じるジョークを名前にして仕事をしているくらいだから、このような無為な言葉の戯れが織りなす不思議な状況の成立に、単なる面白さを越えた高揚感を覚えてしまう。

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もっともらしいハッピーエンドをどう見るか
『コッポラの胡蝶の夢』と題された、タイトルの通り荘子がひとつのモチーフになっている映画も作っているコッポラのことは、『地獄の黙示録』『テトロ過去を殺した男』『カンバセーション…盗聴…』の三本を特に偏愛しながら、ずっと気にかけている。気にかかる、そう、とんでもなく面白い映画もとんでもなくつまらない映画も平気で撮るという振れ幅の大きさのせいで、良くも悪くもドキドキハラハラで目が離せない存在なのだ。その意味では例えばイエジー・スコリモフスキのような監督にも近いが、それでハリウッドいち(つまりは世界一)の大作映画監督でもあるのだから、そのヤバさはひとしおだ。
しかも、本当に賭けに出た作品である『地獄の黙示録』、そして本作『メガロポリス』は、自ら私財を投げ打って予算を捻出し撮っている。『地獄の黙示録』は結果的に賭けに勝った(制作費の三倍の興行収入を上げた)が、今回は興行成績でいえば大惨敗(興行収入は今のところ制作費の十分の一)だ。とはいえ、さしあたり重要なのはこの映画から僕自身が何を受け取り、この文章を通じて伝えられるのかの方だ。

『地獄の黙示録』は、ジャングルの奥で王国を築くカーツ大佐に、その暗殺の任を負ってジャングルに入っていくウィラード大尉が魅入られてミイラ取りがミイラになりかねないような雰囲気になる映画だが、そうした状況に、なんら納得感のある解決がなされることもなく、かなり強引なやり方で終止符が打たれる。コッポラの妻エレノアが監督した、『地獄の黙示録』の制作を追ったドキュメンタリー映画『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』で明らかになるように、ラストシークエンスは、混迷する脚本執筆と撮影の合間にエレノアに連れられて、コッポラ自身は半ばイヤイヤで偶然見た牛殺しの儀式に着想を得ている。カーツの心の闇、泥沼化するベトナム戦争といった出口のない問いに臨む彷徨そのもののような映画が、最終的には、コッポラ自身が企図した明察とは無縁の、非意味的な祝祭性を帯びることで傑作の地位を得た。
さて対する今作は、非常にもっともらしいハッピーエンドを迎えるが、果たしてこれを額面通り未来の希望と受け止めるべきか、あるいは、巷で言われるように、現実を捉え損なった老監督の甘い空想と捉えるべきか。僕の考えでは、そのような二者択一的な作品自体への評価とは無関係に、以下のように考えてみることが有益だと思う。
コッポラは確かに、自らが信じる理想の物語を、人生を賭けて映画として完成させた。残念ながらそれは彼自身が望み描いた通りに人々の心を打つことはないのかもしれない。だがしかし、そのこと自体も織り込み済みだということが、作中ですでに明示されているのではないだろうか。どういうことか。
