昨年6月29日に東京ドームでのライブをもって8年間の歴史に幕を閉じたガールズグループ、BiSH。それぞれの個人活動にも注目が集まるなか、最年少メンバーのアユニ・Dは解散翌日に無期限の充電期間に入っていた自身のバンド、PEDROのシークレットライブを新代田FEVERにて開催。休む間もなく新しい表現活動の季節をスタートさせた。
アユニ・Dは言う。幼いころから内弁慶で、なるべく人に迷惑をかけたくなかった。BiSH時代もとにかく足を引っ張らないようにと自分に課しながら、生き急いでいた、と。しかし、彼女は周囲の愛すべき人たちに支えられながら、本当の自分について自問自答し、少しずつアユニ・Dという実像を取り戻していったという。そして、「一生人間見習い中です」と優しく笑う。
今回実施する、FRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」は、新たなチャレンジを始める社会人や学生、フレッシャーたちを応援するプロジェクト。この企画に際して彼女は「16歳の私へ」と題した手紙を書いてくれた。彼女がそこに綴り、このインタビューで紡いでくれた言葉たちは、あの頃の自分へのメッセージであるとともに、これから新生活を送る人たちへのエールでもある。
INDEX
内弁慶だった自分にモヤモヤし「これはもう今踏み出すしかない」と応募したBiSHのオーディション
─今回の企画にあたって、アユニさんが綴ってくれたお手紙を拝読しました。まずは、なぜ16歳の自分に宛てて手紙を書こうと思ったのか聞かせてもらえますか。
アユニ・D:「自分自身で初めて選択して一歩を踏み出したタイミングはいつだろう?」と考えたときに「BiSHに入ったときだな」と思ったんです。なので、その頃の自分へ宛てた手紙を書きました。
16歳の私へ
一人暮らしをしたのは16歳だった。今思うと「まだまだ若造だ」と思うが、当時の私にとっては「大人への準備の年齢」だ。赤子の頃から内弁慶な性格のために、高校に入学してからは帰宅すると毎日のように母親がいる台所で体育座りをして「生きることが楽しくない」と泣きじゃくる日々。自分の何かを変えたかった。自分の何かが変わりたがっていた。
そんな時に好きだったアイドルのオーディションを見つけて誰にも内緒で応募してみた。受かってしまった。いや、受かってくれた。いやいや、拾ってもらえたというのが正しいだろう。
手紙の序文。アユニ・D直筆の手紙全文は4月11日(木)から下北沢BONUS TRACKで開催されるFRISK『あの頃のジブンに届けたいコトバ展』で展示される(詳細はこちら)
─言うまでもなく人生の大きなターニングポイントですよね。16歳の「あの頃」に、能動的に自分から踏み出す経験を初めてした。
アユニ・D:そうですね。例えば高校に入るときは家から近いとか、学力に合っているからという理由で決めたので、「絶対にここに入るぞ」と決心して選んだわけではなかった。自分の心の声を最初に聞いたのはBiSHに入りたいと思ったときだったなと思います。
もともと性格的に積極性があまりなくて。言われたその通りにがんばるというタイプだったんですね。でも、BiSHのオーデションを受けたときは誰にも内緒にして自分自身で一歩を踏み出しました。覚悟というよりは好奇心のほうが勝っていたと思います。
─PEDROのYoutubeチャンネルに上がっている『還る』と題されたドキュメンタリー映像などを見ても、アユニさんにとって「好奇心」というのは大きなキーワードなのではないかと思います。
アユニ・D:生まれてからずっと内弁慶だったので、思うことがあっても行動に移せなかったり、口に出せなかったんですね。でも、思ってることって自分で表現しないと誰にも伝わらないんだと16歳のときに気づいて。好奇心を表現するためにがんばってみました。
もともと家の中では歌ったり踊ったり映像作品を作ったり、いろんなことをしていたんです。でも、世に放つことは一度もしたことがなかった。そんな自分にモヤモヤしていたんですよね。
─内弁慶な性格は幼いころから自覚していて、コンプレックスでもあったんですか?
アユニ・D:はい。小さいころからママに「アユは損する人見知りだよね」とよく言われていたんです。家の中では活発なのに、おばあちゃんの家に行くとずっと正座して喋らないみたいな。周りからも「もうちょっと自分を解き放ってもいいんじゃない?」とはよく言われていました。
─何が自分自身を抑制していたんだと思いますか?
アユニ・D:いい子ぶってたんですかね? 怒られるのがとにかく嫌だったので。学校で嫌なことがあったときは帰宅してママの前だけで泣いて、全部話して。そういうことをずってやってました。
─お母さんが全部受け止めてくれていた。
アユニ・D:そうですね。今でもずっと一番の味方でいてくれています。