昨年6月29日に東京ドームでのライブをもって8年間の歴史に幕を閉じたガールズグループ、BiSH。それぞれの個人活動にも注目が集まるなか、最年少メンバーのアユニ・Dは解散翌日に無期限の充電期間に入っていた自身のバンド、PEDROのシークレットライブを新代田FEVERにて開催。休む間もなく新しい表現活動の季節をスタートさせた。
アユニ・Dは言う。幼いころから内弁慶で、なるべく人に迷惑をかけたくなかった。BiSH時代もとにかく足を引っ張らないようにと自分に課しながら、生き急いでいた、と。しかし、彼女は周囲の愛すべき人たちに支えられながら、本当の自分について自問自答し、少しずつアユニ・Dという実像を取り戻していったという。そして、「一生人間見習い中です」と優しく笑う。
今回実施する、FRISK「#あの頃のジブンに届けたいコトバ」は、新たなチャレンジを始める社会人や学生、フレッシャーたちを応援するプロジェクト。この企画に際して彼女は「16歳の私へ」と題した手紙を書いてくれた。彼女がそこに綴り、このインタビューで紡いでくれた言葉たちは、あの頃の自分へのメッセージであるとともに、これから新生活を送る人たちへのエールでもある。
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内弁慶だった自分にモヤモヤし「これはもう今踏み出すしかない」と応募したBiSHのオーディション

2023年6月に解散したBiSHの元メンバー。現在はPEDROのベースボーカルを務める。楽曲制作も精力的に行い、全楽曲の作詞作曲を行なったフルアルバム「赴くままに、胃の向くままに」をリリース。彼女が紡ぐ人の生活に寄り添った詞世界観や聴く人の背中をそっと支えてくれるような楽曲に共感するファンが続出。唯一無二のキャラクターそして独特の世界観や感性が大きな支持を集めている。
─今回の企画にあたって、アユニさんが綴ってくれたお手紙を拝読しました。まずは、なぜ16歳の自分に宛てて手紙を書こうと思ったのか聞かせてもらえますか。
アユニ・D:「自分自身で初めて選択して一歩を踏み出したタイミングはいつだろう?」と考えたときに「BiSHに入ったときだな」と思ったんです。なので、その頃の自分へ宛てた手紙を書きました。
16歳の私へ
一人暮らしをしたのは16歳だった。今思うと「まだまだ若造だ」と思うが、当時の私にとっては「大人への準備の年齢」だ。赤子の頃から内弁慶な性格のために、高校に入学してからは帰宅すると毎日のように母親がいる台所で体育座りをして「生きることが楽しくない」と泣きじゃくる日々。自分の何かを変えたかった。自分の何かが変わりたがっていた。
そんな時に好きだったアイドルのオーディションを見つけて誰にも内緒で応募してみた。受かってしまった。いや、受かってくれた。いやいや、拾ってもらえたというのが正しいだろう。
手紙の序文。アユニ・D直筆の手紙全文は4月11日(木)から下北沢BONUS TRACKで開催されるFRISK『あの頃のジブンに届けたいコトバ展』で展示される(詳細はこちら)
─言うまでもなく人生の大きなターニングポイントですよね。16歳の「あの頃」に、能動的に自分から踏み出す経験を初めてした。
アユニ・D:そうですね。例えば高校に入るときは家から近いとか、学力に合っているからという理由で決めたので、「絶対にここに入るぞ」と決心して選んだわけではなかった。自分の心の声を最初に聞いたのはBiSHに入りたいと思ったときだったなと思います。
もともと性格的に積極性があまりなくて。言われたその通りにがんばるというタイプだったんですね。でも、BiSHのオーデションを受けたときは誰にも内緒にして自分自身で一歩を踏み出しました。覚悟というよりは好奇心のほうが勝っていたと思います。

─PEDROのYoutubeチャンネルに上がっている『還る』と題されたドキュメンタリー映像などを見ても、アユニさんにとって「好奇心」というのは大きなキーワードなのではないかと思います。
アユニ・D:生まれてからずっと内弁慶だったので、思うことがあっても行動に移せなかったり、口に出せなかったんですね。でも、思ってることって自分で表現しないと誰にも伝わらないんだと16歳のときに気づいて。好奇心を表現するためにがんばってみました。
もともと家の中では歌ったり踊ったり映像作品を作ったり、いろんなことをしていたんです。でも、世に放つことは一度もしたことがなかった。そんな自分にモヤモヤしていたんですよね。
─内弁慶な性格は幼いころから自覚していて、コンプレックスでもあったんですか?
アユニ・D:はい。小さいころからママに「アユは損する人見知りだよね」とよく言われていたんです。家の中では活発なのに、おばあちゃんの家に行くとずっと正座して喋らないみたいな。周りからも「もうちょっと自分を解き放ってもいいんじゃない?」とはよく言われていました。
─何が自分自身を抑制していたんだと思いますか?
アユニ・D:いい子ぶってたんですかね? 怒られるのがとにかく嫌だったので。学校で嫌なことがあったときは帰宅してママの前だけで泣いて、全部話して。そういうことをずってやってました。
─お母さんが全部受け止めてくれていた。
アユニ・D:そうですね。今でもずっと一番の味方でいてくれています。
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周りに迷惑をかけないよう必死だったBiSH時代。PEDROを再始動し、徐々に「自分の声」を聞けるようになった
─BiSHのオーデションに受かって北海道から上京し、16歳で一人暮らしを始めるという経験はかなりハードだったと思いますが、当時のご自身を振り返ってみるとどうですか?
アユニ・D:本当にいろんな経験をさせていただいたので、とにかく今を生きるのに必死でしたけど、つらかったというよりも、東京で一人暮らしさせてくれた家族や事務所の社長にすごく感謝していますし、周りに恵まれていたから自分も一歩踏み出すことができたんだなと今はすごく思うんです。人の力って偉大だなと日々痛感していて。周りの人の力が、私が明日生きる糧になっていたんだと思います。

─ドキュメンタリー『還る』は、BiSH解散後にPEDROを再始動してからの軌跡の中でアユニさんが「本当の自分」を取り戻していくことが主題になっていると思います。BiSH時代はグループとして大きな求心力を得ていく中で、どこかで自分の個というものを置いて進まなきゃいけない感覚もあったのでしょうか?
アユニ・D:あったかもしれないですね。もともと学校生活や集団行動も得意なほうではなかったので、自分がこうありたいというよりは、周りに迷惑をかけないように、足を引っ張らないように、怒られないように、必死にがむしゃらにということを自分の中で優先してきていました。それで、一人きりになって自分がわからなくなってしまうことがあったんです。
でも、BiSHでグループとして走っていろんなものをつかんでいくなかで、楽しさを見つけたり、幸せを感じてもいたので。一生人間見習い中というか(笑)、自分探しの旅を一生してるみたいな感覚はあったかもしれないですね。
─今はそこから少しフェーズが変わった気がする?
アユニ・D:今はようやく自分の心の声をちゃんと聞くようになりました。たとえば目指した目的が叶わなかったときも、「目的が叶わなかったおかげでいろんな選択肢ができたんだ」って捉えられるようになりましたね。選択肢は無限にあるんだという希望に変えて考えられるようになった。
─そうなれたのはやはりPEDRO再始動後ですか?
アユニ・D:気づけたのはそうですね。それまでは私にはBiSHしかないってずっと思っていたんです。BiSHの経験や過ごした時間は自分の中で宝でしかなくて。でも、そこにピリオドを打ったおかげで今またいろんな新しいことに挑戦できたり、PEDROをはじめもっと自分の好きなことを追求できている。目指していたことが叶わなかったとしても、落ち込む必要はないんだって自分の活動を通して伝えたい──伝えたいというか、ちょっとでも光になれたらなと思ってます。
─BiSHの求心力がどんどん大きくなっていた2018年9月にPEDROの活動が始まったのも大きなターニングポイントだったと思います。精神的にも肉体的にも輪をかけてしんどくなったと思いますが、自分の状態をどのようにキープしていましたか?
アユニ・D:2つあります。1つは、そもそも逃げる勇気がなかった。本当に辞めたければ辞められたはずですけど、そこで辞めて迷惑をかけるほうが怖かったんです。とにかくがむしゃらにやることが自分の役割だと思ってました。
もう1つは、単純に楽しかったです。つらいときはBiSHのメンバーや周りの人が助けてくれたからやり続けることができましたね。毎日、毎秒、周りの人に救われてました。つらすぎて眠れないときはママが毎晩電話に付き合ってくれたり、BiSHの衣装の洗濯が間に合わないときはリンリン(現・MISATO ANDO)が私の衣装を持ち帰って洗濯してくれたり。本当に、毎日ずっと誰かに助けられたからこそ前向きにやってこれましたね。
あとBiSHはこういうグループの中ではすごく独特で、自分たちも作詞させていただいていたり。音楽を通して自分を表現できたのもありがたかったです。そこに共感して出会ったくれた方もたくさんいましたし、自分の希望が誰かの希望に変わることがすごくありがたいし、楽しいなと思ってました。それでなんとかバランスをとりながら、続けられてきたという感じです。