中島哲也が監督を務め、打海文三の小説を原作とする映画『時には懺悔を』が、8月28日(金)から公開された。西島秀俊、満島ひかり、宮藤官九郎ら日本映画界を牽引する豪華キャストを迎え、構想18年を経て映像化した予測不能のミステリーだ。
重度障がい児の役に当事者をキャスティングするという異例の試みも、同作の重要なポイントだ。これまで一貫して人間の悪意や暗部を描いてきた中島監督は、この映画でどこへと向かったのか。映画ライターのヒナタカが紐解く。
※本記事には映画本編の内容に関する記述が含まれます。あらかじめご了承下さい。
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情報が錯綜する不穏な幕開けと、1990年代の「やさぐれた空気」
映画『時には懺悔を』は、「死んだほうがマシな人間が死んだ」という衝撃的なモノローグで幕を開ける。
亡くなったのは、悪い評判が後を絶たない探偵・米本(佐藤二朗)。彼が殺された理由を、元同僚の探偵・佐竹(西島秀俊)と、その助手で修行中の探偵・聡子(満島ひかり)が探ると、9年前に起こった新生児誘拐事件に辿り着く。

この冒頭では、情報が錯綜しているような編集がされているため、戸惑う人もいるだろう。例えば、米本の葬儀が行われたかと思えば、その後に米本の死体を発見する場面を持ってくるなど、時系列がバラバラだ。それらの「断片的な情報」が不可解さを際立たせており、良い意味でカオスに放り込まれたような感覚がある。
他にも、画面の色調が全体的に青みがかっており、『下妻物語』(2004年)や『嫌われ松子の一生』(2006年)などでビビッドな色使いかつポップな演出をしてきた中島監督の作品の中ではかなり異色な印象だ。
さらに、舞台が1990年代ということもあって登場人物はどこでもタバコを吸うし、飲み屋での会話シーンが多く、佐竹はことあるごとに酒をあおっていたりと、作品全体に「雑多でやさぐれた」空気感が漂っている。
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重度障がい児との生活の描写、細部に宿るリアリティ
ところで同作では、重度障がい児の新(しん)を演じるしんすけをはじめとして、障がいの当事者である子どもをキャスティングしている。撮影現場では理学療法士の安田一貴がしんすけの出演する全日程に帯同し、救命士資格を持つメンバーを擁する医療チームが日々のケアサポートと医療監修を兼ねて常駐するなど、万全の対策が施されたという。日本の映画界ではほぼ前例のない、その試みも評価されるべきだろう。

そして、勢揃いする豪華俳優陣の中でも、新の父親である明野役の宮藤官九郎が光る。明野の言動は粗野で、見た目もだらしがなく、登場したときから一目で褒められた人間ではないことが伝わる(物語が進むにつれて、さらにダメ人間だと思える)のだが、一方で宮藤官九郎というその人から放たれる憎めない印象も残り続けるのだ。だからこそ、より「なぜ重度障がい児をひとりで育て続けていたのか」の理由を知りたくなってくるし、作品全体のやや重めの雰囲気の中で一種の清涼剤のような役割も果たしている。
明野が障がい児の介護をする姿が「見える」こと、「生活がある」と思えることが、大きな見どころであり、映像化の意義と言っていい。宮藤官九郎は撮影前に障がい児の抱き方や、痰の吸引の仕方、ご飯の作り方などの講習を受け、しんすけに会う前に練習を重ねたという。一見すると粗野でだらしなく見える明野こと宮藤官九郎が、丁寧に愛情を持って重度障がい児の介護をする姿は、強く胸を打つものがある。
また、前述したように、作品全体には雑多でやさぐれた雰囲気があり、カオスな情報が錯綜している。そうした演出や編集の中で重度障がい児との生活が描かれるからこそ、それが「絶対にこの世にある確かなもの」として、より尊く見える効果を生んでいるのだ。
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孤立と後悔を抱える不器用な「親と子」たち。絡み合うそれぞれの過去

同作には複数の「親と子」が登場し、それぞれに拭い去れない過去があることも描かれている。例えば、聡子(満島ひかり)は娘に暴力を振るおうとした元夫に逆上して暴力をふるった罪に問われており、その娘からは面会を「ドタキャン」されるほど嫌われているのだ。
そして、佐竹(西島秀俊)は脳性麻痺のある息子を数年前に亡くしており、自責の念を抱きつつも、結局は酒に逃げていて、娘とはずっと会話のないまま。ちなみに、原作小説では佐竹と妻・由紀(柴咲コウ)は友人の間柄であり、佐竹を「由紀の夫であり障がい児の父親」にしたことは映画での大きな変更点となっている。

さらに、離婚歴があり、裕福な生活をしているように見える主婦・民恵(黒木華)や、殺された挙句に「死んだほうがマシ」とまで言われてしまう探偵の米本(佐藤二朗)にも、それぞれ「親と子」にまつわるエピソードがあり、同時に「拭い去れない過去」が存在するのだ。
劇中、民恵は「あの子は生まれてこないほうが幸せでした」とはっきりと口にする。冒頭の「死んだほうがマシな人間が死んだ」というモノローグも含め、同作では「勝手に誰かの存在価値を決めつける」残酷な言葉が容赦なく放たれている。
だが同作は、そうした暴言を、物語と映像の力で真っ向から否定していく。先述した明野の、重度障がい児との「確かな生活」の描写や放つ言葉を通して、他者の存在を否定することがいかに間違っているかを、痛烈に突きつけてくるのだ。
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きれいごとで終わらせない、圧倒的な映画の力

中島哲也監督は、『告白』(2010年)や『渇き。』(2014年)、『嫌われ松子の一生』で子どもの残酷な思考を顕在化させ、『来る』(2018年)では結婚式における嫌な部分を禍々しく演出するなど、一貫して人間の「悪意」を表現してきた作家だ。その露悪的とさえ言える作家性は、現実の欺瞞を盛大に暴き、「きれいごと」を許さない姿勢の表れでもある。
そんな監督が、安易な感動に回収されやすい、重い障がいのある子どもとその父親の日常を描いたのだった。劇中で「あの子は生まれてこないほうが幸せでした」という残酷な言葉を容赦なく放ちながらも、同作が行き着く「誰もが誰かの希望になり得る」というメッセージは、決してきれいごとに終わっていない。監督はそれを、安易なセリフではなく、前述した本物の「重度障がい児との生活」という、圧倒的な映画の力で証明してみせたのだ。
物語の舞台であり、原作が執筆された1994年に比べれば、今は障がい者への理解や支援は進んでいる。しかし、決して十分とは言えず、偏見や蔑視は根強く残っている。中島哲也監督という作り手の覚悟と信念が表れたこの映画を観て、改めて自らに問い直してみてほしい。